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人が死んだら、泣かないといけないの?


もし、あのとき○○だったら——


人はどうしても過去の失敗や状況を恨んで、時間を巻き戻せたら、と願ってしまいます。


もし、あのときもっと必死になってたら
もし、あのとき余計な一言を言ってなかったら
もし、あのときもっと周りの人のことを大切にしていたら——


後悔は人それぞれです。
でも、時間を自由自在に操れる人(またはその能力を持つと公言している人)にわたしは今まで出会ったことがないし、きっと多くの人は人生に巻き戻しがきかないことを承知でそんなことを言っているのだと思います。


わたしには、不意にどこからか浮かんでは少し時間がたつとまた消える、
そんなひとつの後悔があります。




初めましてコエテコエ副代表の増岡香帆です。
わたしが担当する初回のnoteなので、簡単に自己紹介と、コエテコエの活動を通して成し遂げたいひとつの目標について書こうと思います。

自己紹介

わたしは映画や絵画など社会と芸術文化の関わりに興味があり、授業や部活のあとに早稲田松竹やポレポレ、アップリンクなどのミニシアターに通いまくる学生生活を送っていました。

好きなことは沢山ありますが、読書や食べること、登山など。
最近は台湾料理のレシピ本を買って、それを見ながら料理をするのにハマっています。


わたしは今年の3月に早稲田大学を卒業しました。
でも、就職はしないで毎日ただやりたいことに取り組んで、勉強して、ひたすら考え事をする日々を送っています。


大学では体育会の運動部で役職を務めて、勉強もおそらく遊んでばかりの学生よりは真面目に頑張って、ごくごく普通の大学生をしていました。

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わたしはきっと傍から見たら
そこそこ学歴もあって、我慢強くて、打たれ強くて、
こつこつ目標に向かって努力ができる人だから


「本当に真面目だね」
「優秀だね」
と人に言われることも大学時代は沢山ありました。


人に褒められるのは嬉しくて、気持ちもよかった。


だからそんな周囲の人の期待に応えて、
周囲の人が望む自分を何の疑いもなく演じていました。


そう、あの日までは——


母からのメッセージ

「わたし、明日遅くにかえるから、今日か明日、洗濯しておいてくれると助かる。わたし、」


三年前の今頃、ふた月以上前に死んだ母から突然託されたメッセージです。


母がわたしに遺した最期の言葉がもし、
「かほちゃん、明日の夕飯何がいい?」


とかだったら、わたしのどうにも説明のつかない母の死に対する思いに今より少しだけ分かりやすく「悲しい」という感情をつけ加えることができたでしょう。


母は不倫相手と一週間の旅行中に交通事故で亡くなりました。
「明日」帰ってくるはずだったのに、です。


事故死だったので事故判定されるまで母のスマートフォンは警察に押収されていました。返ってきた母のスマホを開くと、ラインの入力画面には未送信のわたし宛のメッセージが打ってありました。

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母が死んでからの二か月間、
わたしはほぼ毎日洗濯機をまわして、
40年間ほとんど仕事ばかりで生活能力皆無の父に「お前が落とした食べかすを拾うのがわたしの仕事じゃねえんだよ!」と泣きながら文句を言って掃除をして、
母の生前から引きこもりだった兄の心配をしながら何度も絶望して、
そんなふうに精神的に不安定だったわたしを見た父からは精神病扱いをされ、「今の自分をおかしいと受け入れられないのは頭がおかしい」と意味の分からない理論で怒鳴られたこともあった。


お母さんが私に背負わせた荷物は、たった一回の洗濯だけじゃない。


自分が過ごしてきた信じられないくらい長いふた月を思い返したとき、わたしは最後に「洗濯しておいて」という言葉しか娘に残せなかった母に無性に腹が立って、もうこの世にはいないその人に向かって「地獄に落ちろ」と何度も唱えて、
そして笑えました。


悲しくて笑う


趣味や授業で小説や詩を書いてきたわたしはそれまで感情に相反する言動を何度もあてて、登場人物の複雑な感情を表現してきました。


でもそれは表現の技法としてその描写が存在していたからにすぎなくて、
わたし自身が当事者となって心の中が空っぽになったとき、本当に人が笑うという観念を体現したのはその時が初めてでした。


それからわたしはずっと
母にもう一度会いたいという気持ちと、帰ってきてほしくないという気持ちに挟まれたまま、母の死に対する思いに決着がつけられないでいます。


私はただ、母の幸せを願える「いい娘」でいるためだけに母の不倫を4年半黙認していました。しかしわたしの小さな我慢や気遣いが、母に何も届いていなかったことが亡くなってから分かりました。


もう、純粋に「わたしが大好きだったお母さん」には会えなくなりました。
そしてわたしは「お母さんのことが大好きだったわたし」をどこか遠くへ追い払ったみたいです。


それまで母の名誉を守るために必死だったわたしは、母に洗濯を頼まれたあの日をきっかけに「いい娘」をやめる決心がつきました。自分の気持ちを犠牲にして人の幸せを願っても、母親からこんな形で裏切られて損するくらいなら、わたしはわたしの好きなことをして、言いたいことを言って、多少自分勝手でも幸せになって笑いたい。


それからわたしは少しずつ、
他人が求める自分からわたしがなりたい「わたし」に変わろうとしています。


目標

わたしはこれからコエテコエの愉快な仲間たちと一緒に
沢山の人に出会って、
沢山の声を届けて、
いろんなことを考えながらいつかわたしの死別体験を人に話して、
「まあ、人生こんなこともあったよねー」なんて言って、
どこかに気持ちを閉じ込めている誰かと思い切り笑い合いたいです。


母の死から三年がたちました。
母は東京オリンピックが延期になったことをもちろん知らないし、
スピッツの朝ドラの主題歌も聴いたことがなくて、
わたしの部屋の雨漏りがなおったことも知らない。
わたしが過ごしてきた22年の人生に、どこから母がいないのかがたまに分からなくなって、混乱します。


自分の人生を生きたいと思っていても、たまに辛くて、しんどい。
会いたいけど、そばにいてほしくないし、
忘れたくないけど、思い出したくない。
母のお墓を前に手をあわせたって、成仏して安らかに眠ってね、なんて、1回も思ったことがない。


そして自分の意志とは関係なく、今でも後悔します。


もし、旅行に行く前、母に「行かないで」と言えていたら——
もし、わたしが不倫に気がついている素振りをうまく母に伝えていたら——


「いま」となりにお母さんいたのかな


だけどわたしの死別体験を決して辛くて、しんどかっただけの話で終わらせるつもりはありません。実際に母の死後、母が生きていたら想像もできなかったような楽しくて幸せな出来事が沢山ありました。


死別苦はおそらく一生終わりがなくて、誰もがたまに後悔して、寂しい、辛い、悲しいというさまざまな感情を繰り返して生きていくのだと思います。
大切な人を亡くした人に「後悔するな」「泣くな」「悲しむな」なんてとても言えません。
でもその体験をわたしが語るのは、自分の死別苦と向き合いながら母の「死」を笑ってほしいから。
信じられないくらいしんどかったはずなのに、後から思い出したら辛くて泣き叫んでた過去の自分がめっちゃイタくて、面白くて、懐かしくて、笑えるから。


だからもし、自分の死別苦を人にうまく伝えられなくて立ち止まったままだったり、辛いふりをすることをいつまでも自分に課して苦しんでいる人がいるなら、
わたしが今後ノートに書いていく死別体験が、その人の気持ちを少しでも軽くするきっかけになったら嬉しいです。


人が死んだら、泣かないといけないの?

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