哲学とエンターテイメント

 よくわかる哲学入門、のような本を読みかけたところで、俄然興味が沸き起こってきた。
 ここに哲学とエンターテイメントの親和性を書いてみようと思う。


1.エンターテインメントに描かれる哲学

  哲学者デカルトは「我思う、ゆえに我あり」という世によく知られる言葉を残している。
 自らが思考しているからこそ、自身は存在する。存在しなければ、モノを考えることができないという考えに基づくものである。

 昨今のエンターテインメントがそのモチーフを内包していることは、至る所で既にさんざん語られているものだと思うが、これはなんとも面白い。

 哲学を内包するエンターテインメントとして、至る所で語られているのは、SF映画『マトリックス』である。
 マトリックスといえば、荒廃した現実と、まるで現実と錯覚してしまう非現実(電子世界)を行き来し、人類存続のために戦うお話。
 人間が五感(電気信号)で外界を知覚することを利用し、電気信号のみを与えられた脳が、作り物の外界をまるで現実のように知覚する、という実に衝撃的な世界観だ。

 全てが作り物の電子世界で、思考している自分を果たして存在していると言い切れるだろうか?自分の思考すら脳の電気信号に過ぎないのであれば、そこには何も真実が存在しないと言うことになる。

 こうした人間の現実認識へ問いを投げかけるような仮想現実は、近年特にエンターテイメント界隈では隆盛を誇っており、言わずもがな、『ソードアート・オンライン』などはその最たるものである。

 その舞台設定は実に興味をそそられるものであるし、前述した二作品が多くの人に愛されているのも、私同様に多くの人が興味をそそられた結果なのだと思う。


2.なぜ人々は哲学に惹きつけられるのか

 この仮想現実の根本となる哲学の思想は、言うなれば稀代の天才たちが、何百年も前から思考に思考を重ねた結果である。
面白くないわけがない。

 現代まで語り継がれるような哲学の世界とは、
つまるところ、人類が現在に至るまで煮詰め続けてきたエンターテインメントの極地である、と私は想う。
 
 以下に一部の哲学思想を書き連ねたが、人間の在り方の根源を模索する哲学は、我々に対し、日常のすぐそばに潜む非日常を知覚させてくれる。そうして、いとも容易くファンタジーの世界に連れ去ってくれるのだ。

哲学とは、こと創作における面白い題材の宝庫だ。



【参考:創作に使えそうな哲学思想】

◇プラトンの語るイデア論
 このイデア論とは、簡単に言うならば、我々のみる現実とは洞窟に移った影のようなもので、
より高次な真の世界(イデア)が存在する、という考えだ。我々の現実はイデアの影に過ぎない、と。
 高次の世界に支配され、翻弄される現実世界。そんな現実世界の人類が起こす、高次世界への反乱のお話など、面白そうである。


◇プラトンの語る生得説
 生得説の中では、人間は赤ん坊のころから生まれながらにしてあらゆる知識を内包しており、目覚めていない知識は刺激を与えることで表に引き出すことができる、と考えられている。
 そんなバカなと思わないでも無いが、現実に置き換えるとあながち外れていないとも考えられるから面白い。
 赤ん坊は、誰が教えるでもなくお腹が空いたならば泣くし、親や他人とコミュニケーションをとるために言語を自ずと認識する。(当然赤ん坊には覚えよう、学ぼうなどという意識はない。)

 この場合では、赤ん坊は自らの五感や、周囲の人間のコミュニケーションから受けた刺激により、行動・言葉という知識を表に引き出している、と言えるのだろう。


◇カントの語る現実の認識
 現実とは感覚器官によって個々人により知覚されるものであるが、実際の事物を認識できているわけでは無い、と語られる。
 眼に見えているものは、そう見えているだけに過ぎないと言うことだ。
 事実、人間の脳は簡単に錯視を起こすし、高周波の音は聞こえない。必ずしも人間は真実を知覚できていない。日常で誰しも身に覚えがあるだろう。
 日常に潜む知覚(現実認識)の危うさは、これまた創作に活用されることが多い。例えば手塚治虫の『火の鳥』では、視覚と触覚に異常をきたした男性が知覚する、周りの人間が皆バケモノに見えるショッキングな世界が描かれている。

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