インプットにくらべてアウトプットって、どうしてこうもしんどいんだろう。
6月末の今日は、わが家にとってちょっとした節目の日になった。
毎朝、郵便受けに新聞が届く日々が、今日で終わる。
新聞の定期購読をとうとうやめた
活字を読むのがなんとなく好きで、ずっとなんとなくやめられなかった新聞の定期購読。
でもさすがに最近の値上がりがすごくて、隅々まで読んでるならまだしも、読まないままの新聞がどんどん積み上がる日が続いてた。
数ヶ月前の古いのから読んでいったりもしてるけど、なんかプチタイムスリップした感じで違和感。
届きたての新聞にある独特の輝きも、すっかり失われてる。
最近は読むのが追いつかなくて、ドバッと新品のまま廃品回収に出してしまうことも増えていた。
もったいなさに耐えられなくなり、契約の更新を断ったのだった。
でもやっぱり新聞を読むのは好き
といっても、
小難しい政治面とかはすっ飛ばして、家庭面とか地域面とか教育面が好きだった。
あと日曜版の、独特のゆるい雰囲気も。
インプットは楽ちんで快楽
活字を読んでいると落ち着く・・とかいうとなんかカッコイイけど、私の場合は結局、受動的にインプットするのが楽ちんなんだと思う。
新しい見聞という刺激があるから、脳にとっても快楽なんだと思う。
新聞に限らず、ちょっとした合間についスマホ開いてSNS見ちゃうのも、その楽ちんと快楽のためなのかもなー。
かたや、アウトプットの大変さたるや!
インプットとちがって、ちょっとした合間に・・・なんてやろうとも思えない。
インプットと同じくらい楽しいはずなのに、どうしてもこうもしんどいんだろう。どうしてこうもタスク感があるんだろう。
外にあるものを中に入れるインプットと、中にあるものを外に出すアウトプット。
単純に、矢印の向きが違うだけ・・というわけでは、どうやらなさそうだ。
「外にあるもの」は、誰かが調べたり考えたり整理してくれたことだけど、「中にあるもの」は、自分が考えたり調べたり整理しないといけない。だからしんどいのかな。
しんどいというか、少なからず腰が重くなる。
それでも私は、アウトプットを習慣化したいと思っているみたい
今、自己理解のプログラムに参加していて、日々いろいろなワークに取り組んでいる真っ最中だ。
あるワークの中で、
と問われ、私はとっさに
「noteでの“しあわせな発信”を、今度こそ習慣化したい!」
と書いていた。
※この「しあわせな発信」という表現は、『発信する勇気』著者の末吉宏臣さんによるものです。私はセミナーで聞きましたが、末吉さんのnoteでも度々登場します。
私が「noteでの“しあわせな発信”を、今度こそ習慣化したい!」と思う、その理由は、
自分に幾重にもかぶせてきたフタを1枚1枚はがし、
本当に私に戻るため。
お風呂に入るのと同じくらいの頻度になったら、達成。
基本1日1回。サボっても2日に1回まで。
達成に向けた具体的な行動計画は、スモールアクション+仕組み化+ライトなネタ。
ってことで、
noteを書く曜日と時間をビシッと決めて、タイムツリーにも入れた。
なのに・・・早速、守れなかった
書く時間に当てようとしている朝に、どうしても起きられない。
アウトプットも新聞と同じ、なまものだから、その日か次の日のうちに書かないと、熱量が下がってプチタイムスリップになってしまう。せっかく書きたかったことが、どんどん古びてしまう。
あ〜〜何やってんだ私!!
このままだと“しあわせな発信”どころか、自己嫌悪のもとになっちゃうぞ・・
と思ってたところ、新品のまま積み上がっていた4月の新聞に、こんな言葉を見つけた。
古生物学者の小林快次さんという方のインタビュー記事だった。
カルぺ・ディエム ー「今日という日の花を摘め」という文節からきているらしい。
そうだよな。
できない時は「今、ここ」に集中してできるようにする。
できない時も、自分自身に「よくやった」と言える時間を刻んでいこう。
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