『みんなの学校』と楽しいことを全力で
子どもって説教に敏感!
勉強の空気・説教に対する子どもの察知能力はすごいです。
おしゃべりしているとその能力をフルに活用してきます。
子どもがYouTubeなどから雑情報を得るたびに話しかけてきました。
「知ってる?○○って△△なんだよ」
そのときこちらが(あ、この話題はあの勉強につながる、このネタから発展しつつ説明を…)と思った瞬間
「それよりさ~」と別の話題にささっと切り替えます。
明らかに勉強・説教のにおいをキャッチしたんだと思います。
親子という関係だと、勉強につきあうことはできるけど、
なかなか教える機会を与えてくれない…
(子どもによるとも思いますが)
そんな子どもでも学校では勉強します。
学校の存在理由の一つは勉強のためにある場所なので。
家庭には親にはこの認識がないみたいです。
(個人差はあると思いますが)
ここに学校と家庭での教育の違いがあると思います。
前者は体系的な知識、社会参画に必要な能力。
つまり社会で生きる力
他者と同じ時間をすごす、社会のルールを体感するなど。
後者はしつけ、道徳・価値観、自分への愛情・承認。
個人で生きる力
家族の無償の愛・肯定・信頼・承認は特別なものだと思います。
(補足:一概には言えない様々なケースがある点。家族の形は血縁以外にも多様な点。家族だから負の特別な関係もある点…)
はっきり区別する必要はないですが、家庭と学校で得意不得意があることを知っておいた方が、子どもにとって良い教育につながるのでは。
言いたいことは
学校ならではの体験を楽しんでほしい。
学校に行きたくない
小学校入学以来、なにごともなく登校していたうちの子が
4年生の今、たびたび「行きたくない」と言うようになりました。
理由は様々で「月曜日だからやる気がない」「発表の課題がいや」「宿題を休み時間にさせられる」「勉強がつまんない」
もしかしたらもっと根底に何かがあるのかもしれないが、子どもから聞き出せるのは表面的なものでした。
はじめは(なぜ?)と動揺し、頑張って行ってもらおうとしましたが、何度も続くので無理して行かせることに疑問を感じてきました。
いまでは「行きたくないなら休んでいいよ」と言っています。
「休みの日と同じように遊んで過ごすなら学校行きなさい」とは伝えていますが、どうしてもそう見える…
面倒でやりたくない、ついダラダラ過ごす、気が乗らない、
大人でもそうだよねと思うときは叱ることはありません。
子どもなので禁止事項はありますが(夜更かしはダメ、スマホはゲームだけ、SNSはまだ早い、寝る前のお菓子は太るぞと)
学校の先生に相談をしたところ、
・保健室などをつかって、教室に居たくないときに過ごせる居場所があること
・タブレット端末を持ち帰って使用していいこと
(ただし自宅学習用コンテンツはとくになし。過去に家に持ち帰ったのは接続確認の2回ほど)
・フリースクールに通っている子もいるらしい
いまは無理に登校させるのではなく様子を見守る方向のようです。
フリースクールに通った場合、その先は把握していないようで
学校と外部の機関が連携していないのが気になりました。
うちの子のように、行ったり行かなかったりを繰り返す子はめずらしいと言われました。不登校になると完全に行かなくなるのだとか。
学校はすべての子どもの居場所?
このようにして見守ることにした学校生活
先日子どもがスクールカウンセラーと話をしたようです。
先生からの話だけなのですが
発達が勉強や学校生活についていけてないかもしれない
との指摘がありました。
これはどういうことだろう?
学校に行きたくない理由は学校についていけてないから?
ならば、ついていけてないに対してサポートするのが学校では?
なんだか学校から拒否されているようで複雑な気持ちになりました。
学校は公教育であり、どんな子にも開かれた場所であるべきです。
そういえば私の子ども時代もそうですが、特別支援学級は独自のクラスとしてあり、すべての子が同じように過ごしたり交わることはないです。
(たぶん一緒の活動がある学校のほうが珍しいのでは)
すべての子をそのまま受け入れる、すべての子の居場所であってほしい。
子どもの発達度合は個人差が大きく、
得意不得意も個々でまったく違います。
みんなの前で発表するのが苦手、特定の科目が苦手、じっとしているのが苦手、大きな音が苦手、人と話すのが苦手など
それらを個性ととらえるのではなく、発達度合としてとらえるのは危険だと感じます。
うちの子、1歳のころは、発話がほとんどなくて、言葉が遅れていると周りに思われていました。そのあとに言葉がワーッと溢れてきました。
小学校の入学前診断では言葉に未発達なところがあると診断されてました。家でものすごく流ちょうに話をする子が、です。
「発達障害」というひとつのワードで表現すると、個性がまったく見えなくなります。相手のことを深く知ろうとしなくなる言葉のレッテルの怖さです。特別支援学級という枠に押し込められた子たちが増加している一方、ただの個性だとしたら特別でもなくなります。
こういう子どもを分ける教育が結果的に異人を排除し、国際潮流に離反していることを自覚しなければなりません。
転校?フリースクール?
日本での公立校は学区が決まっていて、指定の公立小学校に通うしか選択がありません(私立を除けば)学校が合わないなら転校をしていいというオランダとは異なります。
わざわざ移住してまで良い教育を受けさせたいとまでは考えていなかったのですが、合わないなら転校するしかないだろうか、それともフリースクールやオルタナティブの学校を選択するか…?
そんな迷いの中、先日ちょっと気になっていたセミナーを視聴しました。
木村泰子さんの一つ一つが重みのある言葉ばかりで、夢中でメモしました。
※大空小学校は通常の公立小学校でした。風呂敷でつつむような学校にしたいと、木村校長時代に、障害を持っている子も誰もがあたりまえに通える学校にしました。映画にも本にもなっているようです(公開から10年たっても上映が続いているとは!)
そこで聞いたんです。
「大空だからできたんでしょ?」とよく言われるがそんなことはないと。
日本の子どもの死亡原因一位が自殺だなんて大変ショックです。
今いる環境(学校)を変えようとしない限り、しんどい子はいなくならない。今いる環境(学校)を変えなければならない。
…結局転校したところで、フリースクールに入ったところで、社会環境が変わらなければ子ども達は幸せにならない。と。
今ある環境を変えなければという想いが強くなり、力をもらいました。
今いる環境を変える
大きな気づきがありました。
支援が必要な子どもたちと一緒に過ごすことで、通常学級にいる子たちが成長したくさん学ぶこと。
「あー」としか言葉を持たない子どもの話がありました。先生はその子を静かにさせようとし椅子に座らせようとしたが、周りの子どもが「なぜ黙らせようとするのか、なぜ座らせようとするの?」と問いを発したと言います。
自分と違うことを受け入れて、理解しようとする、困った人を困ったときに助ける力を養っていたのです。
最後にまとめてみると、教育の事項だったものたちが、これまでの他のインプットともつながってきて興味深かったです。
ポリクライシス(気候変動や格差などの複合的で複雑な問題)に即効薬はないものの、根本的な問題を解決する方法は、つながっているのかもしれません。
ここまでのトーンだと、日本をなんとか変えんといかん!と力んでいる人のようですが、教育のことを調べるの、楽しいんです。
また、試行錯誤して理想の教育のことを語る人たちは笑顔なんです。
やらされるのではなく自分が主体的に動くと楽しいから。
興味のままに、楽しいことを、全力で
たったこれだけで世の中変えられるんですね。
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