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noteを書いていて気づいたこと。

ふと気づいたことがあります。

昨日はすごくネガティブな内容の記事を書きました。そんな記事を書いていても、わずかに心地の良い感覚がありました。それはなぜなのか考えてみた。結論から言うと、ここに書いている時は自然体に近いからだと思います。

もちろん誰も見ていないと思いつつも人の目に入る可能性のあるインターネット場です。見知らぬ誰か、いや知っている人が見る可能性だってある。そんな中で、人が傷ついたり人道を反れるような言葉は思い浮かんでも使えない。でもそれ以外は思うままに、現実世界では話さない、恥ずかしいと感じることやネガティブな感情、ポジティブな感情を書いています。

物心がまだついていないであろう子供の頃、周りのことなど気にせず無邪気に行きていた頃が誰しもあると思います。大人になるにつれて、理性が育まれ、社会性が身につきます。そんな中で無邪気なありのままの自然体でいることがどこか悪い事のように感じてしまい。ついには心を閉ざしてしまっている大人は少なくないでしょう。
僕もその一人です。人よりもその度合は強い傾向があることは間違いないと思います。自分で自分の居心地を悪くします。理性があり社会性を身に着け、自己規律があることはもちろん良い側面もあります。
しかし、本来ある本能から来るような無邪気な心も無くさずに持ち、バランスの良い人間になることができれば、今よりもずっと心が満たされるだろうと考えました。

今は天秤が片方地に着き、天秤に乗った何かはこぼれている状態です。その溢れ出した何かを減らして少しでも水平になる時間が多くなるようにしなければなりません。そのために必要なツールの一つがnoteで記事を書くことに今はなっているのかもしれません。その効果はものすごく僅かなものです。ですが、少しでも落ちた片方の天秤を上に上げることができたのなら、そこに今回のような自然体でいる自分に気づけたように、他のことにもその気づきを利用することができます。

それはテニスをすることかもしれないし、公園を散歩することかもしれない。人と話す時間かもしれない。いずれにせよその自然体でいる時間を毎日24時間の中で増やすことができれば、もっと世界が明るく見えてくることでしょう。

少し腰が痛くなってきたのでこの辺で。また書きます。

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