見出し画像

アートの「天才」は誰か?正解は「誰でも」です。vol.1「日本人は誰でも日本語の天才(LDの私でも)」

アートは、伝えること、伝わることが大切です。
伝えられたことは五感のどれかを通じて認識しています。
人は作るものに、視覚、音、匂い、手触り、味などの感性に働きかける意味をメッセージとして込めます。
どんな見た目にしようか?どんな音にしようか?匂いは?手触りは?味は?それぞれが意図した味です。

その意味はそれを受け取った人にしかわかりません。
例えば伝えた意味を言葉にすると「緑色のお菓子だった。」となるとします。
美味しかった。と言っても言葉の意味はなんとなく皆に通じても、実際にはそのメッセージがどんな感覚だったのか具体的に意図された味は受け取ってない人にはわからないのです。
これはアートが本やコンセプトを言葉で示されても「意味をなさないことを意味」します。

絵や歌、洗いたてのシャツの香りや手触り、行きつけの店。
アートは伝えることの技術です。

表現は必ずしも皆に伝わればいいというもの、とはかぎりません。
というより、そもそも感性は人それぞれです。感じたことを言葉化しても思った通りには意図していることが伝わりはしないものです。

一部の集まりのその中で意図が通用すればそのやり方は学校が教えてくれる「言葉」の意味や文法などのお手本と同じである必要はありません。
学校はそもそも皆が持っている意図にとてもではないですが対応することなどできません。そこがアートの天才を学校が作り出せない原因でもあります。

伝わるなら自分たちの都合で言葉を作って簡単なものに変えてもいいです。
チョベリグみたいに。
伝わる相手は自分対自分で自分の中だけでやりとりが完結する場合もあるでしょうし、2〜3人のグループの中だけで完結する場合もあるでしょう。

アートは、社会が画一的で個々の大きな問題に対応しきれないので、矛盾や不完全さを感じて、社会に盲目的に沿って不幸にならないように独自に問題の解決方法を創造し作り出すために必要です。
アートは、時として社会に反してさえも自分で納得できることを大事にし、自分が自分に対して納得できる形で機能し、自分が自分の為の働きをするためにあるものだと私は考えます。
アバターはいい例かもしれません。

我々には言葉という表現方法があります。
私は言葉も「伝える」という意味でアートだと考えています。
私には学校で優秀な成績をとる目的の国語のことはよくわかりません。でも、国語の先生たちが必ずしも伝えることが上手いかと言うとそうとは言い切れない事実も実体験として知っています。元に彼らが指導要領に沿って指導することの全てが私には全く伝わらなかった。
そして国語の成績が悪くても言葉によって国語の先生よりも深く思いを伝えたり、感動させられることがあることも知っています。

日本人は誰でも日本語の天才です。
国語の授業で学べる言葉の技術も大切ですが、それ以外に特定の人の中でしっかりと伝わる意味や文法があり、それを余す事なく活かすことの方が大切です。
日本語に対比して、日本人の馴染みの深い英語を持ち出してみると、日本人は英語の技術はひどいものだということがあからさまにわかります。
日本人は英語の天才的な文法を脳に持っていません。
その差は日本語は学校で教わる以前に日本人は日本語の天才だということを表しています。
日本人は学校の国語の成績が壊滅的でも日本語の天才だからなんの不自由もなく社会に出て日本語を使える。

日本人は英語の天才ではありません。
でも学校で教わった英語の技術は多少知っています。SWOCとかSWOOとか知っています。これはとても素晴らしいことです。でも殆どの日本人にとって全く役に立ちません。殆どの日本人が学校でならった英語は全く役に立ちません。そもそも実践の機会がありません。
そこが日本人にとっての日本語と英語の違いです。

日本語を学校で教わることには意味があります。しかし本当にそれが機能するのは今後、家庭の日本語が学校教育によって如何に向上させられるかにかかると私は考えます。日本人の英語力が上がるのはその後。今の所学校の授業の効果は弱いです。殆どの場合、家庭の日本語に影響を与えられる程の授業が出来ていないです。だから家庭の日本語が揺るがない。それだけ家庭の日本語が強いとも言えるかもしれません。そこは私は日本人の学力を上げるためにとても重要なことだと考えています。
学力の低い子供や家庭の言葉を学校が理解することも大切です。学校の照準はある程度上級な家庭です。そのため上級ではない庶民の会話が授業では全く成立していないのです。
授業を全部漫画にしてしまえば活路はあります。
何故ならば漫画の中の言葉が一番庶民からの市民権を得ているからです。
学校教育は見直すべきです。
学校教育が勝てないほど日本人は家庭で身につけた日本語の天才なのです。
私もあなたも家庭で身につけた日本語で生きていきます。

LD(learning disability)
私はLD(learning disability)です。LDの私でさえ日本語の天才です。それは一歩も、どんな語学者が異論を唱えようと私は引きません。
LDの私でも日本語を使っている。それは活きた日本語です。
私は中学生まで普通に日本語の読み書きができました。
高校になって突然文字を記憶できなくなった。
それと中学までは家庭で身につけた日本語が通用しました。それが高校に入った途端全く通用しなくなった。それもLDを引き起こした一因なのかもしれません。
高校から時を経て今では読み書きはある程度できるようになりました。未だにできないのは文章の記憶です。この文章も書いた後になんと書いたか説明しろと言われてもできません。

LDでも頭の中に論理があります。論理は言葉によって構成されています。
でも、LDの日本語を肯定する有識者はいない。
だからもう一度言います。LDの私も日本語の天才です。

LDの評価
LDの私は学校にいる時全てを否定され、散々低い底辺の評価を受けました。
社会の、学校の制度は私に越えようのない壁を目の前に突きつけました。
それを越えるべきだと教育され、根性がないだのなんだの言われ、お陰で未だに日本語と英語と戦い続けています。おそらく先生達の倍程度は言葉と向かい合っています。私は暇さえあればいつも文字を打っています。そのような生き方ができる先生はそうはいないでしょう。昨今の先生が叫ぶ過労死とか残業とかそういう次元の話ではない。それでも学校のテストの点は私には取れません。英語は何年かけても相変わらず洋曲1曲を完全に覚えられない。
タイピングはかなり早くなりましたが、相変わらず突然Fの位置がわからなくなります。お陰で学校の成績は0〜せいぜい30点くらいです。

学校の先生が私の前に用意した壁は、当時の私にとって、普通の人間には超えることは不可能なてっぺんが見えない程、天高くそびえ立つ壁でした。
私がその時に掴んだのはこの壁をいつか越えるという覚悟とそれに立ち向かう術です。その術がアートでした。アートの武器は社会や学校の制度に反して、自分で由とする自由という考え方を自分の脳の中に作り出すことです。
アートは不完全な社会や学校を補完することができる。というかアートは社会や学校以前に社会や学校から見えていない「人」だったり、見えていても、なんの手も差し伸べられない「人」そのものなのです。
社会よりも人を敬うべきです。つまり、社会とは社会が手を差し伸べることができるある程度上級な国民のことをいいます。上等なことにしか目がいかなくなった社会は、政府は、アートへ無関心になります。
学校よりも人の命を敬うべきです。学校の機能は全ての人間をカバー出来ているわけではありません。もし自分が社会や学校の機能から外れたら直ぐに学校や制度は切捨てて構いません。いじめによる子供の自殺などは論外。
ボタンをかけちがえれば人の命よりも学校が大事だと錯覚して、いじめを見過ごしたり誤魔化す先生がいます。「人」よりも制度を優先することが学校や社会は実に多いのです。
アートは社会や学校の不完全な部分を補完することができる。
アートは社会にとって、人にとって不可欠なものです。

学校の先生が私の眼の前に用意した壁は、はっきり言えば私が生きていく上で全く超える必要のない壁です。
人間を評価することは学校の評価を持ち出さなくとも、他に色んな方法があるので、いくらでも可能です。
人の日本語は学校の評価に囚われなくても、もっと色んな評価が可能です。
だから改て言います。LDの私も日本語の天才です。
そして、日本人は誰でも日本語の天才です。

続く

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?