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絵を書く「絵は人に没頭させる」

この内容は熊谷美術研究所のHP に掲載予定の文章と同じものを使っています。

私は美術予備校の先生を始めて30年経ちます。とうとう近しい人は予備校の先生を辞めました。私は自分の受験で色々苦しんだので受験に対して思うことが沢山あります。残りの人生がそれほど長くはないことを考えると、今私がこの仕事を続けていることは運命のような気がして、受験が正しくなるためにやらなければならないことがある気がします。受験を通じて絵を見てきて、受験の表に出せない問題も沢山知っていますが、受験に限らず絵の世界は裏側を綺麗に隠しているのです。それは表に出さなければならないことではないかと思います。


絵画の最大の問題は信頼できないことだと考えます。


絵を信じられる人が世の中にどれだけいるでしょうか?詭弁ではなく本当に信じられる人はいないと思います。東京芸大の教授でさえ絵を信じていないし、そもそも絵がわかっていない。私の知る限り東京芸大の教員の中に絵を学生に全力で推せる人はいません。それは絵を信頼していないからです。そのような絵を本当に信じて、絵に人生の全てを捧げられる人は絵の天才だと思います。絵を頼れる人が絵に頼られ愛される天才です。


絵に全てを捧げられる人は絵の本質に気づいています。それをなんとか伝えようとするから人生を捧げられるのだと思います。それは損得などとは違います。絵で得をするから絵で生きているのは絵ではなくお金のために生きているのです。


絵の本質の1つは絵を描くことが人を絵に没頭させることです。絵に没頭できる人はつまり全て絵の天才なのです。絵を描く力は誰もが生得的に持っています。その時は誰でも絵を信頼しているのです。社会はその力に気づき生かさなければなりません。社会がより良くなるためにいずれ絵を頼るようになると思います。それほど絵が人に没頭させる力は強力なのです。そんなことは昔から気づいている人はいましたが、ただしそれを世界中に伝播させる道筋はまだ誰も気づいていないと思います。


生まれてからある時まで人は絵に没頭することができます。しかしそれぞれのタイミングで世間やアートの世界は人にその没頭の邪魔をして、間違った教育をしてしまい、絵と訣別させ、絵に対する不信感を抱かせます。そこに、とても難しいですが、単純な齟齬があるのです。


物を壊したりすることは悪いことです。それを悪いと躾けながら、絵の中ではそれをやっていいので区別させ続けさせることが必要です。テーブルの上にオレンジジュースをぶちまけて手でぐちゃぐちゃかき混ぜるのはダメですが、絵の中でそれはやっていいのです。絵の中は感覚的でいいという区別を躾けとはっきり区別することが必要です。絵を描くことと躾を見分けることを社会はずっとできないでいます。社会にそれができないのはアートと絵の世界が正しく理解していないからです。


絵を描き続けることが許されたなら、人間は生得的な感覚を大人になっても表に出し、押し殺すことなく生かし続けることができます。没頭している時はそのゾーンに入っている時です。生得的な衝動を抑制しなくてもよい、絵という場について誰もが正しく理解しなければません。絵の世界でこれが壊れる時はその行為や絵を評価した時です。


生得的な感覚を第一に考えた時、当然ですが絵は上手くなくて構いません。まず、この説明に誰もが失敗しているのです。


子供がもし下手に見えても没頭して描いていたらそのまま描かせてください。大人でも同じです。上手く描く必要など全くありません。評価しないでください。

学校はその絵を評価してしまいます。その点において学校は何もわかっていないと言わざるを得ず間違いなく愚かです。人にはそれぞれ全く違った知見があります。その知見は論理的に言葉で表せるとは限りません。食べ物をどれのどこからいつ食べるか決めるように個々に違います。それを他人と合わせる必要は全くありません。合わせれば気持ち悪いです。評価はそれをさせてしまいます。またテーブルマナーの類は感覚的に生きる人間をコントロールする手段に利用される場合があります。美術評論家や画廊が画家を支配するときの手法もそうですが、それはモードやコードと称される時があります。感覚的な人間をコントロールするには織田信長が武将に茶の湯を学ばせたように、特定の道を学ばせれば、その道のテンプレはその道の初心者のダメ出しをする都合の良い道具になるのです。アートの世界ではモードとコードがそれです。


人の感覚はそれぞれで全く違います。一言で「青」と言っても青に対する感覚や認識や触れてきた経験や感じ方は誰一人同じ人はいないのです。そこに良いも悪いもありません。描きながら想像することは、知見が溢れています。そこではそれが全てですから絵は赴くまま誰でも没頭できるのです。そこに個性があるのです。


個人の個性は工業化された第2次産業革命の時、物が量産されるついでに人間もテンプレ通りの働き方生き方が推奨され失われたと思っています。

知見は言葉になるものばかりではありません。言葉にならない身体感覚や身体記憶、頭に浮かぶイメージも知識だと思います。その知見を分析し一つづつ紐解いていくことが本来必要な評価です。ですがそれができる先生は学校には一人も存在しません。団体の評価のテンプレで評価しますが、それは全く意味をなさない物です。全ての先生がテンプレにはめてしまいます。東京芸大でもそうです。誰にでもある知見から描かれる絵の機能を横槍を刺すように、評価は全て壊してしまいます。その時に誰もが絵に対する不信感を抱き人間が作り上げた粗末な絵の評価や見方、考え方、感じ方に対して疑問を抱くのです。学校は天才の芽を摘んでしまっているのです。これは美術教育の功罪です。ピカソもその子の絵もなんら大差ありません。ピカソの絵を美術館と美術評論家は特別なものとして掲げますが、それは愚かな過ちです。その過ちを正せないことが絵の世界が停滞している原因なのです。


一般的に絵画が理解されていない1番の原因は信用できないからです。世間が抱いている不信感は全て当たっています。不信感を払拭して受け入れられるには見抜かれている偽りを全て正直に話して解決することです。誰も動かないのでここで全ての偽りと解決方法を書いていこうと思います。

例えばピカソやバスキア、クレー、ベンシャーンなどなどラフな作品は誰にでも描ける絵です。そもそも誰にでも描けることを前提に誰もがその効果を理解して描くようになることが本来彼らの活動と作品を評価するに値する評価の意味です。それを美術館と画廊と美術評論家は利益のために神格化し、正しい手続きを踏まず、特別な才能がなければ描けないと偽って広告しています。誰でも描けると言ってしまうと大金を払おうとするお客さんの購買意欲が削がれるからです。ピカソの若い頃の写実的な作品も全て、誰でも相応の練習をすればみんなが描けるようになります。ベルベデーレの模写から始めればいいのです。史実の通り当時はみんなやっていたことですし、これも特別な才能は1つも必要ありません。写実が誰にでも描けることを隠すことによって、世界中の人が描画能力を身につける機会を逸し、画家は競技によって生きていける機会を失いました。そういった齟齬、偽りがたくさんあるのです。


画家として生きてきて、生徒を集めて指導しながら収入を得ている身分としては本当に言いたくないのですが、心配していることとして隠すことができないので書きます。

改めて絵画は信頼されていません。

生徒達にこの状況を伝えなければならないし、認めなければならないし、信頼できるわずかないところに確実に気づいて欲しいので書かなければなりません。

絶対安心安全のように謳っているものの全てが偽りです。


動産としての信頼。ビジネスとしての信頼。教育としての信頼。才能としての信頼。

いずれも信じて頼れる存在ではありません。絵画の世界は人が作っています。間違っても神様でも仏様でもありません。その作っている人から見た絵画はスカスカで利用できるものです。スカスカの空間に美術館を建ててみたり、スカスカの場所に絵を売る市場を作ってみたり。売りながら眺めてみたりしてそれでお金をとってみたり。ずっと見ながら法則が見つかったので評論家してみたり。スカスカの中に作っていく人にとっては絵は信頼というより、どこまで利用できるかわからないけど利益が出る間利用してみようという存在です。

今は利益が出なくなり利用できなくなってきました。スカスカではなく飽和したパンパンの状態です。美術館も画廊もたくさんあります。そしてほとんど赤字です。どうなるかわからないけどとりあえず作ってみようという感覚でお金をバンバン使ってみたのがこれまでです。立ち上げで儲かる道具に利用されました。彼らはランニングには興味がありません。美術館1個建てれば誰が儲かるかわかりますよね。そのために作られています。ランニングしてみて、それで、あれ?これ実際こうだよねとおかしなことがだんだんわかってきました。あれっ?という状態、それが今です。みんなやっとわかってきました。そこで何にも起きず他に興味が移り人が離れています。でもこれは新しい絵が始めやすい状態になってきたなんでもできるタイミングでもあるのです。


絵は見せるためものから描くためのものになります。かならず道が開かれます。

今のところ絵の道は閉ざされています。

信じるか信じないかはあなた次第です。

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