貧困ぬけ〜貧困層を抜けた人の話〜vol,6「なぬかいち望郷」
なぬかいちだか、なのかいちだかに私が住んでいたのは42年ほど前。当時の記憶はまず、今は無理ですがアマガエルを沢山捕まえて両手の中に入れて持って帰ったこと。水槽に石を雑に入れてしまい水槽の底を割ったらしいこと。家の前の空き地の敷地内に私の身長の倍くらいあるコンクリートの円柱型の空洞があり、見えずに落ちてしまい、母親に助けてもらったこと。家にテレビはなかったので、近所の子の家に行ってテレビを初めて見て、それで初めて仮面ライダーV3をちらっとだけ見たこと。家に雑草だらけの庭があったこと。親が知り合いからドーベルマンの子犬をタダでもらってくるも私が怖がって飼えなかったと話だけは聞いて覚えていること。この頃の写真は何枚かあること。そして、おばあちゃんとおじいちゃんは本当の祖父と祖母ではなかったこと。生涯に一度だけ祖父と祖母が宮崎から訪ねてきて釣りをして釣り場に歩いて向かっていた時のことを覚えています。
この通り、私は遊んだ記憶しか残っていません。教育熱心な両親からはさぞ学識の高い教育を受けてきたことと思いますが、教育の記憶など一欠片もありません。遊びの記憶しかない。我ながらかなりの学習能力、高い記憶力だと思います。低所得の我が家、しかも父は中卒。母は高卒ですが地元で最も偏差値の低い高校。そのような両親がいくら東大早稲田慶応を連呼しても、子供に東大に見合うような教育を施すことなどできません。本当に語学を身につかせたければ幼児期にどんどん海外に行かせるべきです。でも悲しいかなテレビもない低所得の家庭のサプライズは仮面ライダーV3です。手には大量のアマガエル。でも、本当に悲しいのはそこに、背のびをしない手元に「最良の学び」があることを教養のない両親には理解できていなかったことでした。私の記憶はとぎれとぎれです。恐らく記憶と記憶の間にはたった一人で放置されているそれはとても長い空白があったのだと思います。なんとなく大人と引き離される恐怖感、母親がいなくなり引き裂かれる感覚は覚えています。誰とも会話せずにじっとしている。この時の私に足りなかったのは、人と触れ合うことで自分の中にあたたかさを育んでいくことです。小学校に入るまでに十分にあたたかさを育んでいかなかった私は、小学校に入ってから、人と触れ合える嬉しさのあまり、それと寂しさから自分を抑えきれない、まあそれはそれは騒がしいくそがきになります。あたたかさを知らない子供は情緒不安定になります。当時の私の心の知能指数EQ(英: Emotional Intelligence Quotient)は最低です。EQが低ければ物事を記憶することができません。そしてそれは学習全般に悪影響を及ぼします。小学校に入ってからは騒がしいだけで授業の内容など1つも覚えていない。このような状況に陥らないためにも小学校低学年くらいまでは母親が子供の側に絶えず寄り添うべきです。
近所の子と遊んだのは本当に数回です。コミュ障で他人嫌いの母親が他の子と私が接することが毛嫌いします。本当に3回程度遊んでもらった記憶があります。毎日遊ばせてもらえればどれだけ教育の為に良かったか。
今思えば本当の祖母の顔は今の私と母に似ています。これまで全く似ていないと思っていましたが似ています。なぬかいちの時、正直本当の祖母が会いに来て初めて見た時はいつも面倒を見てくれているおばあちゃんではなかったので嫌でした。顔も怖くて、ブスなので子供ながらに嫌だったのを覚えています。私は当時保育園には通っていません。家の大家さんに毎日預けられていました。私の父は蕎麦屋の雇われ店長です。当時は母も手伝っていたので両親は朝早くから店に行きます。朝親に連れられて大家さん、当時本当のおばあちゃんだと思っていました。おばあちゃんの所に行きます。おじいちゃんもいました。おじいちゃんは耳が殆ど聞こえず、かすかに私を預かることには反対されていました。それでも、おばあちゃんが強引に引き取ってくれていたのです。両親は夜遅くに帰ってきます。
今でも鮮明に覚えているのは、私を喜ばせようと思っていつもおばあちゃんが作ってくれた卵焼きには、いつもフライパンの錆か砂が入っていて、噛むとじゃりじゃりしたこと。何度か言っても変わることはありませんでした。生まれて初めておはぎを食べたこと。おばあちゃんが近所の人と一緒に大量に作っていました。おばあちゃんの息子夫婦の所に連れて行かれたこと。そこは岡山市で車に乗って岡山の商店街のその後友達になる木◯くんの電気屋の真正面のオモチャ屋で、お孫さんの為に行ったのですが、私にもおばあちゃんがガイキングの超合金を買ってくれました。なんの因果かそれから20年後ガイキングの作者の娘さんを美術予備校で私が担任することになります。彼女に絵の基礎を指導したのは私です。お父さんのガイキングはマジリスペクト。それで、息子さんの家に行ってお孫さんとオモチャで遊んでいるとお孫さんがマジンガーZの超合金を早速壊したので、息子さんに私のガイキングと交換するように言われ、私は必死に断り、おばあちゃんが息子さんを止めてくれました。後、生まれて初めて蛇を見たのはこの時です。おばあちゃんがガラガラヘビだと言っていました。今気づきましたが嘘です。ガラガラヘビは日本にいません。
なぬかいちで私は母親と一緒に過ごした記憶はありません。それが何日だったのか、何ヶ月だったのかはわかりません。
私が保育園に入れたのは小学校に入る2年ほど前です。低所得者の家庭は子供を保育園に入れられない場合があります。私にやっと人としてのあたたかさを育む機会が訪れたのは小学校の2年生の時でした。
続く
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