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アートの「天才」は誰か?正解は「誰でも」です。vol.4「天才はそこにも、あそこにもいます」

「日本人は日本語の天才」
日本人は日本語の天才です。
皆、天才です。
英語の授業を見てください。英語の偏差値60を越える勉強ができる子が殆ど全員我々の日本語のように活きた英語を話せません。70くらいでも頼りないです。
指導要領に沿って大規模な学校教育のシステムを使って、とてつもない金額の税金を投じて英語の勉強をさせて誰も日本語ほど話せるようになりません。
英語に対して、日本語は学校で授業をしてもしなくても皆活きた日本語を話せます。

そして偏差値にしておおよそ50以下の日本人の多くは学校で習った日本語を活かせません。特に古典と漢文は我々にとってその存在は無です。
古典と漢文の授業を耐え凌ぐには我々は悟りの境地に至らなければなりません。
つまり、日本人は学校で日本語を習わなくても英語よりも圧倒的に話せる天才なのです。

天才はそこにもいます。あそこにもいます。
家庭や生まれ育ちの環境には子供を日本語の天才に育てる力があるのです。

語学力は生得的な能力ではありません。
後天的な能力です。
語学力は学校ではなく家庭で育てられたもの。

「私たちはアートの天才です。アートのしくじり」
私はアーティストです。
アートと語学を比べると、
アートの力は生得的な力です。
しかし、学校や社会はその力を認めません。
日本人は日本語の天才、そしてアートは日本人に限らず世界中の皆が天才です。
学校や社会が表現することを禁止しなければ、我々は天才的なアートの力に気づくでしょう。


アートの世界が語学の世界に劣っていることがあります。
それは後天的なアートの技法などの能力を、日本語と同じように後天的に育てるパフォーマンスがないことです。
日本人は家庭で日本語の天才に育てる力はある。しかし、アートの力を育てる力がない。つまり特別何か問題があった時に大人でさえもそれを上手く表現することが苦手です。
子供がいじめられていることがわかっていてもいじめている子の実情を上手く伝えて表現の力で止めることができない。いじめている子の多くは野放しです。
表現力の強さは声の大きさです。
いじめる子がいたら躊躇せず大声で叫べばいいのです。
いじめに耐える必要など微塵もありません。

日本人は何故か牙をもがれたような感じです。
問題の中には内に秘めて我慢するように教わっていることがあります。
だから目の前に大きな問題があっても、音で危険を表現したり、視覚で表現したりできません。
出しても良いはずの声が出ないのです。

アートの過ちは英語教育のしくじりに似ていると考えます。
私の周りでは誰一人として英語で日常会話すらできない。
そして私の知る英語の先生の多くがネイティブには話せない。
アートの生得的な力は、英語に似た誤った後天的な指導によって完全に消失します。これは日本語教育の中にも起きていることです。
日本人であれば誰もが日本語の文法を持っている。
これが本来の活きた日本語です。
アートにも個々の文法による活きたアートがあります。
なので私は私個人のアーティストの活動として自分の文法を作品にしていこうと思います。
私の作品は油粘土を使った粘土遊びです。
皆さんも自分の遊びの感覚は心当たりありますよね?
手を使ったり、目で楽しんだりしていますよね?

日本人が日本語の天才である理由は、小さな頃から遊びながら手や目を使いながらいつも日本語を使って自然に覚えたからです。
古典や漢文や英語が全く身につかないのは手や目などの感覚を使いながら覚えないからです。教科書の文字だけ記号的に読んで頭に叩き込もうとします。それでは頭は必要なものだとは認識しません。害があると思ってどんどん吐き出します。だから秒で忘れるのです。安心してください。忘れることで健康が維持できています。

日本語の天才は学校で成績が優秀な学生のことを指しているのではありません。学校を全て取り払った後でも平然と日本人は日本語を話します。
母国語は誰でも天才です。

学校の成績は私には関係ありません。
大学入試で満点を採れるのもいいですが、画一的な評価しか持たない社会や学校は1日も早く個々の能力を的確に見極める機能を持つ努力をするべきです。
日本人なら誰でも、学校の成績に関わらず、その人のその人にしかない日本語の文法を持っています。
それと同じようにアートは誰でもアートの天才です。

アートがアーティストのものだとか、特別な才能を持っている人のものだ。という認識が社会や学校にあるなら、それはアートの汚点です。不遜な恥ずべきものです。社会や学校には何もできません。そんなものが個人の上に立ってはなりません。


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