幸福とは?

7時30分に起床。
今日はセミナーの課題に取り組んだ1日であった。

「自分の寺のMissionは?」

という問いなのであるが、昨日と今日と丸2日間考えているが、いまだに答えがない。

出ない理由は永続性+固有性
の固有性の部分だ。

思考の順としては

寺院=生きる理由を見つける場所→なぜ、生きる理由を見つける必要があるのか?→見つけた方が1日1日が幸福だから→じゃあその幸福って具体的に何か?→不明

現在はこの不明の部分のところで止まっているのだが、ヒントを見つけた。

それは

https://www.amazon.co.jp/サピエンス全史(下)-文明の構造と人類の幸福-サピエンス全史-文明の構造と人類の幸福-ユヴァル・ノア・ハラリ-ebook/dp/B01LVTWOVT

である。

この下巻の終盤に幸福の定義がある。

いわゆる一般の幸福の定義は2つであるとのこと。

1 生物学的に快感を覚えること
2 人生には意義があると感じること

1に関しては、じゃあ覚醒剤を使う人間はとてつもない幸福感を得ているため、幸福と定義できるかと言えば当然、その人間は幸福ではない。

2に関しては人間が人生に見出す意義は全て単なる妄想に過ぎないとのこと。
個人が無理やりにでも自分の人生に意義があると思い込むという「自己欺瞞」
https://kotobank.jp/word/自己欺瞞-518609

をして本当に幸福なのか?そうではないだろう。

この2点の快感にせよ、意義にせよという見方には共通項がある。

それは

主観的である

とのこと。つまり

ある人の幸福度を測る際にはその人に「あなたは幸福ですか?」と尋ねるしかないのだ。ここで「幸福です」と答えたら、もうその人は幸福なのである。

しかし、サピエンス全史ではこの考え方を否定する。

その個人の主観的な幸福の尺度自体が、現代の自由主義が生み出したものであると。
幼少期からこの自由主義のもとで育てられた人間は

幸福=主観的感情であり、自分が幸福か、不幸かどちらかなのかは自分自身が1番理解している

という考え方をするそうだ。(当然、私自身もまさにこれなのであるが)

しかし歴史上では、大半の宗教やイデオロギーや美は客観的な尺度があって初めて成り立つものであるから、凡人の個人の主観など、信用に値しないとされている。

だからこそ、個人の主観での幸福だとか不幸だとかは自分で判断し、思い込むのは間違っているそうだ。

では、幸福とは何かと、改めて問うと

「汝自身を知れ」

どのような意味かというと

普通の人は自分自身の真の姿を知らず、それゆえに真の幸福についても無知である

とのことだ。
ではどのような方法で「自分自身の真の姿を知る」のかというと
キーになるのは仏教だそうだ。

大半の人は、快い感情を幸福と言い、不快な感情を苦痛と思う。
そしてなるべく、快い感情を追い求め、不快な感情は排除しようとし続ける

つまり、この刻々と変化する掴むことのできない波のような感情を追い求めること自体が、そもそも幸福ではないのだ。

一時、幸福が訪れても苦痛が発生したら、また1から幸福の追求をしなければならなのだ。

このような絶えず変わり続けるものを追うのは果たして意味があるのか?

そうではなく、特定の感情を渇愛するのはやめてあるがままを受け入れれば、心が澄み渡る。これこそが幸福なのだと。

喜びの感情を必死に追い求めるのはやめろということだ。

どうだろうか?

個人的な思いとしては、理解はできるけど本当に感情を追い求めることをやめたら幸福なの?といったところだ。

私が考えるにおそらく、人間の幸福の感じ方はステップになっていると思う。

フェーズ1 生物学的な快感を幸福と感じる
フェーズ2 人生の意義を見つけて幸福と感じる
フェーズ3 喜びの感情を追い求めることを止めることで常に幸福と感じる

このフェーズはおそらく、階段飛ばしで到達することはできないだろう。

フェーズ1からフェーズ2にいって、最後のフェーズ3の域まで自分が死ぬまでに到達できるかどうかだ。

フェーズ1からフェーズ3にいきなりはいけないだろう。
それは「フェーズ2は幸福ではない」ということを体験していないからだ。

ここで自分の実体験を記そう。

大学4年時に考えていた幸福は「名のしれた企業に就職すれば世間体も良いし幸福だろう」と思って今の会社に入社した。みんなから認められたとか、良い給料をもらって贅沢な生活を夢みる、いわゆるフェーズ1だ。

しかし、社会人4年目になってどうだろうか?

全く、幸福ではない。

そこで今はフェーズ2の「人生の意義」を見つけようとしている。

そして何年後かにフェーズ2を体験して、恐らくこれでも幸福ではないと言っているのであろう。

ここで寺院の存在意義に戻るが、私が考えるに寺院は

フェーズ2とフェーズ3を体験できるきっかけを与える場所であると思う。

葬式や法事は「人の死」を通じて自分の生きる意味を見つけるフェーズ2のきっかけ。

そしてフェーズ2に至ったら、座禅や瞑想をすることでフェーズ3の感情を追い求めることを止めることができるのであろう。

今日はこんなところだ。

誰かこの幸福の定義に対して答えを持っている人がいたら是非、教えて欲しい。

















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