もしツル Scene 7

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 土曜日の朝、やよいがベランダから飛んで行った。また、明治神宮の森にでも行くのかもしれない。その後ろ姿を見送ってから、昨夜買ってきたバケットとレタスにゆで卵を添えたサラダで朝食を済ませ、コーヒーを飲みながら「鶴女房」の解説書の続きを読んだ。

 その本の文章は分かりやすく丁寧だったので、鶴女房の昔話について、おおよそのことが理解できた。驚いたのは、知らないことが意外にたくさんあったことだ。
 たとえば、鶴を助けた男の名前が出てくる昔話の方が少なく、単に「若者」「狩人」「爺」「樵」などと呼ばれている方が多いことや、年齢や仕事もバラバラだということも初めて知った。また、助けた経緯についても、狩人に殺されそうになっていた鶴を、たまたま通りかかった男が狩人から譲り受けて救うタイプもあれば、矢が刺さっていたり、罠にかかっていたりする鶴と出会った男が救うタイプの話もあった。
 さらにもうひとつ、結末で鶴の正体が発覚することは同じだが、男が覗いて正体が露見するものと、鶴みずからが正体を明かすものとがあり、鶴女房という名称でひと括りにされているけれども、個別にみていくと実はとても多彩であることがわかったが、これは僕にとって新鮮な発見だった。
あまりの面白さに、昼前まで三冊の本を読み耽った。三時間ほど集中して本を読んだので、目が疲れお腹も空いてきた。蕎麦が食べたくなったので、近くの店に食べに行こうと思い本を閉じた。

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 部屋を出ようとした時、開け放したままのベランダの窓が気になった。やよいが出入りするので開けておくのは仕方がないけれど、昆虫や鳩が部屋に入って来ないとも限らない。それはちょっと困ったことだ。どうしたものかとしばらく考えていたが、趣味の川遊びで魚掬いに使っている「たも網」があることを思い出した。その網では、昆虫や鳥をうまく捕まえることはできそうにないけれど、〈まあ、ないよりましだ〉と思い、寝室のクロゼットの奥にしまい込んだ「たも網」を取り出してきてリビングの隅に置き、ベランダの窓は開けたまま部屋を出た。

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 蕎麦屋は賑わっていた。天ざるを注文すると、『お運びするまで少しお時間を戴きます』と店員が申し訳なさそうに言ったので、先に板わさと生ビールを頼んで待つことにした。僕は、生ビールを飲みながら、マンションで読んだ本の「鶴女房」の内容を頭の中で整理してみた。
 この昔話にはいろんなタイプが存在していることがわかったけれど、その多くは、昔話の事典にあったように、「助けられた鶴が人間の姿となって男の前に現れて結婚し、機織りの部屋で自分の羽を紡いで反物を作るが、『中を見ないでください』という約束を夫が破ったために、本性が露見し、自分は助けられた鶴であることを告白して去っていく」というストーリーになっている。これがポピュラーな筋立てであることは間違いないようだ。
 ところで、これとは別に、同じく助けられた鶴が恩返しをするという「鶴の草子」というが動物報恩譚が古くから存在していることも初めて知った。最近、その古い写本が見つかり、この物語の成立が室町時代にまでさかのぼることが判明したという。しかし、その「鶴の草子」には、機織りと“見てはいけない”という内容が含まれていないらしく、この“タブー”を含む伝説の展開が歴史的にどこまで遡れるかについては、まだはっきりとはわかっていないようだ。

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 そこまで考えたとき、天ざるが運ばれてきた。まず蕎麦を一口、そば汁にたっぷり浸して食べ、次にごま油でカリッと揚がった大ぶりの海老を、今度は少しだけそば汁に漬けて食べた。僕は、そばと天ぷらを交互に口に入れながら、やよいと初めてこの店で天ざるを食べたときのことを思い出した。しかし、もう彼女と二人でここに来ることはないだろう。それを思うと少し物悲しい気分になった。
 〈僕は彼女の本性を見てしまった。昔話のように“見てはいけない”という約束をしたわけではなかったけれど、僕はなにか彼女に対して悪いことをしたのだろうか……〉と、そこまで考えたとき、ふと疑問が湧いてきた。

〈約束を破った男に、罪はないのだろうか?〉

 そういえば、僕が読んだ多くの昔話やその解説書には、本性を見られた側の鶴が「恥ずかしく思って去って行った」とだけ書かれていて、約束を破った男の責任について触れたものはなかった。
 〈どうして約束を破った男の罪が問題にされないのだろうか?〉――ひと口残った蕎麦を見つめながら、僕はしばらく考え込んだ。


[参考文献]
後藤丹治『改訂増補 戦記物語の研究』(大学堂書店, 1936年)
市古貞次校訂『未刊中世小説』(古典文庫第18冊, 1948年)
筑土鈴寛「お伽草紙と昔話」『国語と国文学』第12巻1号, 1935年
古川洋子「鶴女房説話小考」『伝承文学研究』第11号, 1971年7月
狩野博幸「土佐光信筆 鶴草子について」『学叢』5, 京都国立博物館, 1983年3月



つづく


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