もしツル Scene 2
《それは日本の昔話の責任だ》
と、鶴の世界を束ねているタンチョウ鶴の長老が、若い鶴を集めてそう話してくれたことがあった。それは人間の慎之介と出会う前、まだ鶴の世界で暮らしていた頃だった。
《大昔から、人間の男と暮らす鶴はけっこういてな、まあまあ仲良く暮らしていた。鶴が選んだ男たちは、だいたいは貧しかったけれど働き者だったし、鶴たちも鶴の世界の貧乏に慣れていたから、とくに不平不満もなく暮らしていたんだ。あの昔話が有名になるまでは……》
『あの昔話って、なに?』
と、私たちは羽根をバタバタさせながら尋ねた。
《鶴女房という昔話だよ。そのなかでは、「男に正体を見破られた鶴たちが、それを恥じて元の世界に還っていく」というのが、お定まりの結末になっている。そんな話がこの国で広まってしまったお陰で、生活に疲れた仲間たちが、ワザと正体を晒して人間の世界から逃げ出すものが出てきたんだ》
長老は70歳を過ぎていて、タンチョウ鶴のシンボルである頭の赤い色がすっかり薄くなり、長い首もかなり前に曲がってしまっていた。その首に乗っている頭を重たそうに私たちに向けて、ため息混じりに、さまざまなトラブルが起こったことを話してくれた。
《それがいけなかった。ただでさえ狭い生息地に人間世界から戻って来た鶴たちが溢れて、たちまち食べ物が不足した。そのうえ、新しいパートナーの奪い合いまであちらこちらで始まった。その結果、小ぢんまりと仲良く暮らしていた鶴の世界が混乱してしまったのだよ》
それに困り果てた長老たちが、喧々諤々の話し合いをした結果、【いったん人間と暮らしはじめたら、二度と鶴の世界に戻ってはならない】という掟を作った、ということだった。
それからというもの、鶴の世界に戻ってくる鶴たちはいなくなったし、鶴たちも正体が見破られることを恐れて、慎重に暮らすようになったという。
それでも、ちょっとした偶然やこころの緩みが原因で本当の姿を見られてしまうこともあり、さらに新しい悲劇が生まれるようになった。 と、やせ細った羽根で涙を拭いながら長老は言った。
《おまえたちもときどき、池や川辺に一羽だけはぐれて佇んでいる鶴を見たことがあるだろう。あれは、人間に正体がバレて、人間の世界に居られなくなり、鶴の世界にも戻れなくなったホームレスの鶴たちなんだ。おまえたちも、もし人間と一緒に暮らしたいと思うなら、このことはしっかり覚えておきなさい。いいか、絶対に正体を見られてはいけないよ。なんとしても人間として暮らし続けるのだよ。さもないと、ホームレス鶴になって、もう二度と帰って来られないから》
私たちは驚いた。人間と暮らすことに憧れていた何羽かの仲間は、この話を聞いて諦めてしまった。でも、自分は大丈夫と思った何羽かの仲間は、やがて人間と暮らすようになった。私もそのなかの一羽だった。人間と暮らし始めた仲間とはときどき会って、お互いの情報交換をしていた。みんな、慎重に上手くやっているようだった。
私も、用心深く暮らしてきたつもりだったけれど、今夜はまずかった。朝出かけるときに、慎之介が『今夜は少し遅くなるかもしれない』と言って出勤したので、まさか八時前に帰って来るとは思っていなかった。つい気が緩んでしまい、バスタブの中で水浴びをしていた。久しぶりに鶴の姿に戻ったので、ついご機嫌な鳴き声を上げていたところに帰ってきたのだ。
「ヤバい!」と思ったけれど、あとの祭りだった……。
そこまで考えて、私は短く小さな声で鳴き声をあげた。
ベランダの外を眺めていた慎之介が驚いたように振り返った。彼の目には、怯えたような表情は消えていたけれど、それに代わって深い困惑に縁どられた堅い顔が私を見つめていた……。
つづく