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消えゆく砂浜と故郷

数年前、家族で能登半島を旅行した。
祖父母の代から大阪で育った私たち家族は、大阪が地元である。
けれど、父は石川の羽咋を田舎として夏休みには里帰りして育った。

わたしはそれが、大変羨ましかった。

父は、田舎がない私たちに夏はキャンプや牧場へレジャーに連れて行ってくれたが、私は幼い頃から妙に和の物が好きで、陰気な子どもだったため、
夢は大きな蔵つきの旧家を探検し、蔵の木箱を開けまわってお宝さがしをすることだった。今もその趣味嗜好は殆ど変わらない。

父の母、わたしからすると祖母だが、その母は羽咋では有名な旧家のお嬢様だったそうで、奉公に来ていたという賢く堅実で優しい青年と結婚させ、わたしの祖母が生まれた。
なぜ奉公に来た青年と結婚したのか、つまり婿をとって家業を手伝わなかったのかというと、曾祖母は本当にお嬢様らしく、「虫はきらい」というそれだけで実家の養蚕事業を継ぐことを嫌がったそうだ。
そして祖母はなぜか、曾祖父との思い出話はするが、曾祖母の話は殆どしなかったので、もしかすると実の母子にも関わらず、愛着が薄かったのかもしれない。未熟児で生まれ小柄だった祖母は、産後まもなくは家に出入りの者が蒸気を焚いて温めながら育ててくれたから死なずに済んだとよく言っていたので、ばあやさんのような人が育てていて曾祖母は子育ては殆どしなかったのかもしれない。

とにかく、もう血も薄れかつての親族は他人となりつつある中、やはり父は田舎の思い出もあるらしく、わたしもその田舎というものへの憧憬があり、家族で羽咋市をたずねたのである。

車で千里浜のドライブウェイを走りに行ったのだが、生憎風が強すぎることと、漂着物が多く、砂浜を車で走ることが出来なかった。

そして父いわく、この砂浜はかつてもっと広かったという。

環境問題のためか、砂浜は削られ沈み、消えつつあるようだ。
父は現地に来られたことを喜んではいたが、残念そうにしていた。とても寂しい思いを感じたようで、父にとっては故郷と呼べる場所なのかもしれない。

わたしは大阪で生まれ育った。家から歩いてすぐ淀川の堤防があり、少し行けば大阪湾に出る。散歩にゆけばヨットハーバーがあり、小さな旗をはためかせ、持ち主もよくわからぬ白い小舟がひしめくように波に揺れている。
一見キラキラと輝いて見えるヨットは、湾から上がってくるヘドロの匂いでたちまち河岸に打ち上げられたボラの白い腹のように無粋なものに見えてくる。得体の知れず、得意げで、金持ちのいけ好かない道楽道具ども。
わたしの故郷の海は、残念ながらこうなのだ。
幼い頃、父が連れて行ってくれた思い出の中にだけ、本当に輝く美しい海がある。それは須磨や舞鶴の海で、故郷の海ではないが、わたしの心象風景の海なのだ。
その一つに、随分もう大きくなってからになるが、羽咋の千里浜が加わった。父から聞かされたように広く輝く美しさは無く、颯爽と走り抜けることも叶わなかったが、かつて父が西瓜割りをした少年時代や祖母が遊んだというこの海が、わたしの名前の由来の海だ。

故郷というにはよそよそしく、しかし自分と繋がりのある海。
親族の誰にも似ていないと言った私に、父は「ひいおばあちゃんが、一番似ているかもしれない」と言った。
会ったことのない曾祖母。養蚕を継いでいたら叶っていたかもしれない私の夢。あるいは、私は生まれなかったのかもしれない。
そんな曖昧で中空の関係を、わたしは一生名前とともに生きていく。

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