民主社会の前提を問う
これだけ社会が複雑になり高度化すると分業となり、色々な分野の専門家が必要とされるようになってきていることは周知の事実として認めざるを得ない。
更に専門家の情報は、インターネットを通じていとも簡単に入手できるようにもなってきている。
また、情報通信の環境の著しい発展とその手軽さにおいて、 自分の考えや意見を簡単に表明できるようにもなってきている。
意見表明は表明するだけでは、終わらずその反響をも返すことができる。
反響だけを楽しんだり、反響で収入を考えるようになると、偽りニュースのようなものへと発展させてしまう。
にわかの情報取得による専門家のような意見表明は、専門家のlような学問に対する訓練や学習がなされておらず、「メタ認知能力」も低く、「確証バイアス」に支配されているため、他の視点からの問題把握を難しくするし、思い込みは強固なものとなり揺れ動くことはない。
このような状況は、専門家に対する侮辱となり、専門的見解に対する不信と反発という形で顕在化される。
「民主社会においては、専門家が公共のために貢献するのは、社会契約の一部だ。市民はさまざまな問題をめぐって意思決定権を選挙で選んだ政治家と政治家にアドバイスする専門家に委ね、一方でアドバイザーたちは自分たちの努力が、合理的な判断を下す上での十分な情報を与えられた大衆に誠実に受け止められることを期待する。」
衆愚政治に陥るのか、エリートのテクノクラシー統治へと向かって行くかは、専門家と市民との関係が大きく影響する。
お互いに信頼と尊重をしなければ社会が効率的に運営できなく、民主社会の危機となりうる。
但し、専門家も間違いについては直ぐに訂正しなければならない。そのような心構えがなければ、専門家は成長しないし、信用もされない。
「専門家に対して一般人は懐疑心と謙虚さを兼ね備えたバランスのある態度をとるべきだ。」とは、哲学者バートランド•ラッセルの言葉である。
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