戦わない
ありゃー。
久々に終電逃すまで飲んでしまいました。
とはいえ、家の近くまで行けるのでそこから歩くかタクシーのるかは迷ってます。
つーかさ
お連れ様飲みすぎ
今日は健康保険のやってるレストランの、イタリアン納め。
けたたましく消防車が僕らの横を駆け抜けてゆき、「まさかレストランじゃないよね〜」とか言っていたらレストランのある建物をぐるっと囲むように指揮車まで来ている。。。!?
と思ったら健保会館の裏の住宅街で火災報知機が発報した模様とのこと。
白ワインは水じゃない
ここのイタリアン、飲み物を飲み放題にしないとコスパがかなり悪くなるので2回目以降は必ず飲み放題にしているのですが。
ティーフローのように、ワインがわんこそばのように注がれていくのです。。
仕舞いにはボトル一本近く開けたんじゃないですかこの人。
前回の中華のときもかなり飲んでいて、電車乗り過ごしているのに懲りないなあと。
そしてかなり久々のお店へ
ママ、太ったのは事実何で早く言って笑
いいんです。痩せますから。
とか思ったんですが、その割に飲みに来てちゃあかんよなあ笑
いや、付き合って何年も経ってもイチャイチャし続けるのって結構大変、、、じゃないのかな?
というか、そもそも付き合った頃からそんなにイチャイチャしてませんから!!笑
コロナで断絶された交流
めっちゃ大きかったんだなって改めて思いました。
あの空間でしか味わうことのできない多幸感といえばいいのか。
充実感というか。
ありますよね。
自分が自分らしく居られて、飾る必要もなくそのままで居られる場所。
なぜこの世界はこんなにも生きにくいのでしょうか。
自分が生きにくいようにしている。
のもあると思います。勿論。
でもそれ以上に、周りの目を気にしてしまう
これは、今自分が戦っている病気そのものなのかもしれません。
他人からの評価なんて、自分でどうしようもないところもあるし、なんなら本当の気持ちなんてフルオープンにしてるはずないんだから気にするだけ無駄なんですよ。
わかってはいる
これをわかっていないというわけではないんです。
だけど、前の会社では余りにも気にしすぎてしまった。
この期待に応えるためには、このくらいはできて当然。
出来ないのは自分が悪いんだ。
もっと出来ることはないのか、他の人がやってないことをやろう。
そう思えば、そう考えるほど空回りしているように見られてしまい結果はどんどん乖離していきました。
常に評価主義だった。
思えば小中学校とテストの点数や通信票の評定を気にしながら、両親の顔色をうかがう人生でした。
それは今も同じなのかもしれません。
そういう意味で、今のお連れ様は僕のことを値踏みせず精一杯の気持ちで接してくれます。
こんな人過去に居たかな。
いや、居たんだと思います。
が、結局自分で追いかけている愛は自分の気持ちがシュンとしぼんでしまうその瞬間を感じてしまうのです。
何が言いたいのかというと
人はそれぞれ色んなものを抱えながら生きています。
その重さや困難さはその人しかわからないのだと思います。
最後は。
共感したり、味方で居てくれたとしても、結局全ての人間はひとりひとり別人ですし、
それはたとえ親だろうが兄弟だろうが、
全てを理解するのは無理があります。
自分を守れるのは最後は自分だということ。
生きにくさを理解し、その生きにくさと折り合いをつけて生きていかなければいけないのです。
つい、ふとした時に自分の生きる意味、何のために生きているのかということを考えてしまいますが。
人間だけでなく、命があるものが生にすがるのはそのモノが生きているからなのだなと。