見出し画像

無意味な世界で意味を見出す誠の自信

生きる意味って何でしょう?

ある人は宗教を通じて、ある人は社会貢献を通じて、またある人は誰かを育てたり、芸術的な表現に生きる意味を見出してる。でも、ある人はそれら全てをやり尽くしたとしても見出せない場合もしばしば起こる。それが必要なのか、不要なのかは別にして誰しも「自分なりの生きる意味」を考えたことがあるでしょう。

物事のすべてには必要不可欠な要素:本質があり、その本質が失われてしまえば、もはやそれは別のもの。例えばナイフの柄が木製だろうが金属製だろうが、その名前に変化ありませんし、まぁ気にしない人もいるでしょう。しかしそのナイフに刃が無ければ、もはやそれはナイフとは呼べません。ナイフをナイフたらしめる決定的な本質が刃にあるからです。

故に人間もまた本質を求める。親からもらった名前だけでは自分が何者なのかよく分かりません。つまり生まれつき授けられた運命も、従うべき道筋も用意されていないということ。確かに親や先生、神や仏などがいるかもしれませんが、外部の誰も真なる答えは持ち合わせていません。いくら泣こうが喚こうが何の返答も返ってきません。明らかにそれっぽいものがこの世にあると多くの人は言いますが、最終的には本人が選ぶまでそれは答えではありません。ただの選択肢であって人生を決定付けることは本人以外は誰にもできない。

つまり重要な本質を持たぬまま産声を上げ、答えのない世界で答えを探す。私たちは意味を必要とする生き物ですが、無意味な世界で生きている。

最も恐ろしい事実は豊富な自由。

根本的に「生きる意味はない」と言われると絶望を抱く人もいるのかもしれません。ですが、最も恐ろしい事実は意味の欠如ではありません。本当に恐ろしいほどの豊富な自由があることです。自由は一見するととても素晴らしいように思えます。奴隷や拘束からの解放は幸せの象徴です。しかし、自由であることは同時に、無限の悩み、耐え難い孤独、強烈な責任を背負うことになる。故に管理されたり、指示に従って生きた方がよっぽど心地よいと感じる人もいるでしゅう。その人たちにとって生きる意味など大した意味を持ちません。

いい例かどうかは分かりませんが三角形をイメージしてください。どんな三角形だろうと内角の和は180°になる。これは誰も反論することのできない絶対的な答えであり、はっきりしていて教えることができるし、それ以外は間違いになる。一方、180°を構成している3つの角度には答えなんかありません。どんな角度を答えようとその総和が180°ならそれは三角形です。

これってよく考えると生きる意味と同じです。神の質問に答えはありますが、人の質問には答えがありません。全員が生きていますが生きる意味はバラバラです。生きる意味に答えなどないのですから自分がはっきりとさせてしまえば、それが答えです。正解を自分で成り立たせてしまえば良いのです。
気を付けたい点は他人の意見や社会の常識に左右されないこと。お節介というか、かなり余計に口を出してきます。よほど気を付けていないとそれに流されたり押し付けられたりすることがある。子供を産み育てると幸せ。出世して金持ちになると幸せ。多くの人に自己表現を伝えるのが幸せ。もっと端的にいえば「幸せになることは人間の義務だ」とも言われるかもしれない。そんなことを見聞きしていると、それが人並みの幸せだということになってるから、そんな生き方に従っておこう。って考える人も中には出てくる。私はそれらが間違ってると言いたいのではなく、それに意味があるかどうかは本人以外に決められないものです。

潜在的な選択肢は無限に存在する。しかし、実際に選べるのは常に自分だけです。

自信の強度

とはいうものの無限の選択肢だからこそ、それが正解なのか疑わしくなる。意味を確立するときに必要なものがひとつあります。“誠の自信”です。なぜなら本当に意味があるかどうかは本人の【自信の強度】によって変わります。【自信の強度】とは自分の選んだ選択が、可能な限り最高のもであったという内なる確信。簡単いえば自分の選択をどれだけ正しいと思っているかの尺度です。

例えばレストランがあると想像してみてください。お客さんはビールをあなたに注文したとしましょう。しかし途中で忘れてしまい注文をコーラだと勘違いします。そこで自信が無さすぎると疑惑に満ちて一切、身動きが取れません。そのためサービスを提供できなくなる。逆に自信があり過ぎると、たとえそれが勘違いであったとしても行動につながります。そのため最善の選択はビールであったとしても、間違ったコーラを運んでしまう。

自信過剰であれば、あれもこれもと衝動的になり、より良い選択肢を考えられない。一方、自己不信であれば、あれかこれかと懐疑的になり行動には移せません。自信のない人生と同じように、自信過剰もまた人生の可能性を奪います。

誠の自信は自己不信でもなく自信過剰でもない正しいバランス。言い換えれば自分がどれだけ主観的に正しいのか客観的も正しいということ。最善の策は怒られるかもしれないけれど、もう一度、注文を聞きに行くことです。より多くの調査を行い、情報を蓄え、仮説を修正し、信頼のレベルが高まるので最善の選択でサービスを提供できる。彼はいま自信過剰でも自己不信でもなく誠の自信を持つ人です。

誠の自信は専門家になること

核心部分へと近いてきました。誠の自信はどうすれば手に入るのでしょう?専門知識を持つ者が誠の自信を手に入れます。あらゆる専門家は常に誠の自信をもっており、それこそが彼らを優秀にしてくれる。

生きる意味を決めると世界からはよく試されます。だから拒否されたり否定されたり失敗のリスクも一緒に伴う。そこで困り果て迷い歩き、様々な人と出会い、色々な本を読み、自分の経験や知識を使って何が譲れない要素なのかを必死に考える。だから生きる意味なんてボヤっとしていて答えもないし考えるだけ無駄だ。っと思考を停止した人は永遠に専門家にはなれません。

景気の悪化、技術の進歩、消費者の変化など難しい時期を乗り越えて成長せねばならない人は必ず専門家でなければいけない。なぜなら生きる意味を持たずして恐怖や困難、障害を克服することなどあり得ないからです。生きる意味が確立するほどあらゆる問題は無意味になる。逆に生きる意味を持たないから、あらゆる問題が意味を持ち始める。

始まりはいつも小さな決断です。そうして、生きる意味を失って初めて本当の意味を知るのです。

🎥動画でおさらいはYouTubeチャンネル↑↑

++-------------------------------------------------------------------------------++

今回の記事、最後まで読んんでいただき
ありがとうございました。

このnoteでは生活を豊かにする-ためになる系-記事を書いています。
次のライフレッスンも定期的に配信しておりますのでフォローもお忘れなく♪

面白かった!と思った方は♥ボタンをお願いします。

また次回のエピソードでお会いしましょう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?