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模倣理論】うまく語れぬ夢は自分のもの、簡単に語れる夢は他人のもの

新年を迎えたり、新たらしい職場へ入社したりすると「今年の抱負は何ですか?目標を教えてください」っと投げかけられ困った経験をしたことが少なからず誰の中にもあるはずです。とっさに出てくる定番の答えは取り繕って生み出された建前なので、血が通っておらず退屈な話になることもしばしばおこる。そもそも人は自らの夢を語ることが難しく、もし簡単に語れているのなら、それは誰かの夢を真似をしているだけなのかもしれません。例えば今年の抱負を書初めして年末までそれをやり通せる人がどれだけいるでしょう?実際には行動もしないし、もしくは継続しない。つまり簡単に語れてしまう夢ほど弱く、逆にうまく語れぬ夢ほど強い推進力を持っている。

どういうことか詳しく知るために夢の源である欲求をふたつにわけて考えてみましょう。自然由来と人工由来。自然な欲求は対象が持っている本質的な価値を求めており、人工の欲求は対象の放っているイメージを欲しがっている。お腹が空いたときを例に選択の違いを見てみましょう。①空腹を満たせるなら質素なものでも食べたい。と思うのか?それとも、②これしかないなら外食しよう。と思うのか?①は生きるのに本質的な価値を欲しがっていますが②は、セルフイメージを満たすことを欲している。いわば、そうすることでみっともない気分にならずなりたい自分を外側から強化できる。

哲学者ルネ・ジラールの書いた模倣理論によれば、私たちの欲求は人工由来のものがほとんどで、単に他人が憧れるものを真似しているに過ぎないっと語っている。行列ができてたら、きっと美味いに違いない。大勢がやってるなら、それが正しいと思う。1番人気なら、自分にもきっと合うはずだ。これらはすべて妄想にすぎませんが、集団が憧れている姿を目にした欲求は人工的な影響を受ける。お金や名声、ステータスやトロフィー。それさえ手に入れることができれば、みんなから認めてもらい、覚えてもらい、うまくいけば語り継がれるような伝説になれる。(だろうっと夢を見る)

だが実際に、このような超人的理想、叶えようとすれば、その道のり、そう簡単に達成できるものではない。だから、ほとんどの人は近道として、みんなが望んでいるだろう商品やモデルを目標に自分の夢をも擬態化させる。この思惑は非常にわかりやすく単純なので他人を安心させるのにも、自分を安心させるのにもうってつけの説得材料になる。しかし残念ながら、人工物を根源とした夢は想像以上に短命です。自分の考えが集団の流行りに根こそぎ持っていかれ真の自己決定からはどんどんと遠ざかっていく。さらに数に限りのある人工物はトーナメント制にしかなりえないので最終的には全体の99.9%が恩恵を受け取ることができません。不平等や自尊心への軽蔑、不自然なプレッシャーなどにさらされて、かなり早い段階でやる気を失い生産性が悪化してくと多くの心理学者が語っている。

それに対して自然な欲求はあまりにも複雑過ぎて他の誰かに理解してもおうなどと、あまり期待できません。舗装された平たい進路はどこにもなく、周囲は障害物だらけで視界も悪い。どこにでも、どこまでも歩いて行ける。時にはぬくもりを感じる日照りが差すこともあるでしょうし、一瞬にして冷たい残酷な雨雪に打たれることもあるでしょう。一言でこの絡み合う世界を形容する言葉が見つかるでしょうか?前にも後にも我が人生を生きた人間がいないのですから、あまりにも共通点が少なすぎるので、誰にも教えられないし、誰からも助けてもらえない。たったひとり、生まれてから死ぬまでの間で、その道を探索していくしかない。そんな姿を大衆が目にすれば「どうしてそんな方向に進むのか?」理解しがたい疑問も浮かぶ。なにも未来を変えようとか、意識的な努力とか、繁栄や進歩のためではなく、それが自然なんです。戸惑いも焦りも抵抗も、根をはるのに適した材料(ジョウホウ)なのであって自分をより深く自然(ありのまま)の状態へ戻す闘い。

さて誤解なきようお伝えしますが、人工由来と自然由来、どちらか一方だけで夢が形成されることはほとんどありません。人工物が自然を凌駕する時もありますし、やはり自然が人工物を飲み込むことだってもちろんある。混乱の果てきちんと要約された夢を語りたいのですが、自分の何かがそのまとめ方は退屈すぎると否定する。

さらに世間は人工物に価値を置くよう設計されていて、求められているのは個人の本音じゃないかもしれない。「夢は何か?」と聞かれれば相手に理解できるよう答えた方が評価は上がる。「誰々のようになりたい」とか「何々を手に入れる」とか。とりあえず明確な夢を語っておけば“この人しっかりしてるんだな”って安心してもらえる。逆に変化する興味や矛盾する本音を語ろうとすれば言葉が足りず相手には理解しれもらえない。最悪、愚か者や怠け者のようなレッテルを貼られてしまう危険性だってある。

世間の目は見当違いな偏見に眩んでいるのかもしれかもしれません。実際には、夢をうまく語れぬ人ほど自分に厳しく誠実な人で、簡単に語ってしまう人ほど実は見栄っ張りで中身のない人なのかもしれない。言い換えると静かな池ほど深いもので、せせらぐ川ほど浅いものです。

確かに人工物は私たちを夢中にさせてくれますが、その反面、本質的な自己を見損なってしまう恐れもある。自然体を信じられなくなれば感性を失い、日常が色褪せる。善悪も、正誤も、優劣も社会が導くために勝手に決めたことで、安易にそれに従って堕落してしまうのはもったいない。自然の声に耳を傾け原点にまで徹底的に遡り群衆を忘れ、終わりを忘れ、見返りを忘れ、本来あるべき姿に没頭する。その固有の世界観はもはや完成したことがなく、多分これからも結論付くことはないでしょう。限りなく純粋(とうめい)に近い自然との対話は未だ途中なのだから。

さて、模倣理論についてどう思いますか?私たちは誰かの真似をしているだけなのでしょうか?また夢をうまく語れる人とそうでない人を分ける違いは何にあるのでしょう?あなたの持論も教えてください。

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