3畳、ドア無しの部屋に住んで気づいた大切なこと
今僕が住んでいる部屋はとてつもなく狭い。
例えるなら言葉は汚いが刑務所の独房部屋といっても過言ではない。
部屋にドアもなく、入り口はカーテンで仕切られている。窓も小さく、日照条件も良くない。
セミプライベートルームのため、ほかに住んでいる人の生活音なども時々聞こえたりする。
最近ではこの部屋の話をネタにして笑い話にしているが
この話を友人や知人にすると 私/俺は絶対に住めないわ〜笑という回答が返ってくる。
そんな部屋に住んで早4ヶ月。僕の今の率直な心境について今日は書こうと思う。
結論から申し上げたい。
今、僕のQOL(Quality Of Life) は高い。僕は幸せだ。
初めの2、3週間はこの部屋でやっていけるのかと思ったのが
今では自分の部屋に愛着が湧いたし特に不便に思うこともなくなった。
以前住んでいたシェアハウスの部屋は今の部屋のおよそ2.5倍の広さはあったが
はっきりいって今の方が僕の幸福度は高い。
理由はいくつかあると思う。
シェアハウスの友人と仲良くできていること。
立地が良く都心へのアクセスが良い。
周りに公園やランニングコースが多く、自分の趣味を楽しめる。
ただ今日ぼくがこの記事を書いたのは
部屋の広さは僕の幸福度に影響しない という大切なことに気づけたからである。
もともと僕は物欲が皆無に近い。
ブランド物を欲しいと思ったことはあまりないし(自己顕示欲を満たすためのブランドには興味がないが、長期にわたって顧客の信頼を積み重ねて来たブランドには惹かれる。)
服もユニクロ、GUでいい、車、家を欲しいとは思わない。
などとモノに対する思いがとても薄かった。
そして今回部屋の広さに対してもこだわりがないことに気づけた。
これは僕にとって大きな発見で
もし今後、経済的な収入が少なくなってしまったとしても
最低限の寝るスペースがあればいいから
家賃を極限まで削れば良い ということがわかった。
世間一般的な目で見れば
僕の住んでいる部屋を見た人は
「かわいそう」「負け組っぽい」などという人もいるかもしれない。
しかし大切なことだから僕はもう一度言いたい。
3畳、ドアなしの部屋に住んでいる僕は幸せだ。
僕は「勝ち組」「負け組」という言葉が大嫌いだ。
人はすぐに表層的な情報(学歴、会社名、年収、ルックス、交際者の有無 など)で人の優劣や価値を判断しがちだ。
でも 僕は人の幸福度はそんな表層的なもので決まらないと思う。
それぞれの人が良いと思う価値観、考え方がありそれがもっと尊重されるべきだと思うのだ。
僕は今社会の荒波に飛び込み始めたばかりだ。
そんな荒波の中で僕は自分にとって幸せを感じる瞬間、やっていて楽しいこと、好きなこと
を自分の五感を使って感じて行きたい。
そしてそれが世間や大衆から否定されたとしても自分は面白いと思うと主張できる、
そんな大人に僕はなりたい。
僕が理想的だと思う社会とは
あらゆる人がそれぞれが面白いと思うことを語ってその違いを「いいね!」と受け入れることができる社会だ。
そんな社会になればいいな、そして小さな寄与度でいいから僕もその社会作りに参画しているメンバーでありたい。