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【小説】雪のひとひら 第二話

第二話 うずみ火に

❄️1

 ある夏の昼下がり。女木内おなきないの小石が敷き詰められた河川敷に、四、五人の少年の姿があった。陽は高く燃えるようで、少年たちの影が冷たい水面に伸びている。川は水源に近い上流であれば、傾斜が急で流れも激しいのだが、このあたりにもなれば川幅は広く、流れも緩やかだ。少年たちはシャツもズボンも身につけたまま、髪の毛の先端から水雫を滴らせ、冷たい流れに足を踏み入れている。水は深いところで彼らの腰くらいの高さがあった。時折、魚たちの影が足元をすり抜け、陽の光を浴びて滑らかな鱗をきらきらと輝かせる。岸には冬の間に勢いの増した流れによって運ばれた、大きな枯れ木の幹が天に向かってその腕を差し出している。棘の上にひざまずいて祈る狂信者のようにも見える。次の冬が訪れるまで、それが姿を変えることはないだろう。

 ぼくは一団から少し離れ、仰向けで水面に体を浮かせていた。目には水泳の授業でもつかっているゴーグルをかけている。足を突っ張って岩場に引っかけているため、下流に流されることはない。水面は絶えず表面の形を変え、そのたびに跳ねかえってきた陽光がぼくの目をまぶしく照らす。首筋から肩を通って水が体を軽くなでていくのがどうしようもなく気持ちいい。ぼくは枯葉のように漂っていた。

 頭上からぼくの名を呼ぶ声が聞こえた。寝転んだまま顔を上げると、視界の隅をゆらゆらと横切ってゆく細長い影。なんとはなしに焦点をあわせると、それは一匹の蛇だった。体を細かい鱗に覆われ、頭からしっぽの先まで縞模様が描かれている。身を懸命にくねらせ、風になびくリボンのように波打っている。驚いたことに、それは泳いでいた。水面に近いところを滑るように、対岸に向かって進んでいる。ぼくはあわてて身を起こし、その反動で鼻から水を飲みこんでしまった。水飛沫が周囲に飛散し、波紋が広がった。波紋は流れによって瞬時に消え去っていったけれど、少年の動悸は収まらない。咳きこみながら立ち上がる。上流からは友人たちの笑い声が聞こえる。この都会育ちの少年はなんて過剰な反応をするのだろう。たかだか蛇ごときに。こっちへおいで、大丈夫。こちらから手を出さない限り、噛みついてくるなんてことはないからさ。

 少年は顔を伝い落ちてゆく雫を手の平で拭い、友人たちと目をあわせていっしょに笑う。彼にとって友人たちから笑われることは習慣のひとつだった。友人たちは彼の言動の隅々まで注視し、なにかおかしなことがあると指をさして指摘した。彼らにとってこの少年は好奇の種だった。なぜならこの都会育ちの少年は、あまりにもものを知らなすぎるからだ。軟弱の証であるゴーグルまでつけている。少年は笑われても不快な気持にはならなかった。友人たちに悪意はなく、彼らはただ好奇と安心を求めていただけだった。この少年はそれらを惜しげもなく提供した。少年には意識にすらのぼらない形ではあるが、頭の隅であるひとつの確証があった。五年後、あるいは二年後、半年後かもしれないが、彼らの少年への態度が〝日常〟に変わったとき、関係は一変するだろう。全員ではないにせよそのときが訪れて初めて、彼らは凪いだ深淵に身を置き、この少年を理解しようと努め、その先に少年の世界を見るのだ。いずれにせよ、少年は笑われても気にすることはなかった。彼は遠くを見ていた。この都会育ちの少年は、偶然、たまたまではあるが、自分があまりにもものを知らないことを自覚していた。いつかそのときがきたら、ぼくらは互いに足りないものを補いあえるだろう。知恵や知識を提供し、知らないならば教えを乞うことができるだろう。いつか、きっと。

 少年たちのひとりが、このまま泳いで川下りをしようと提案する。その案はたちまち受け入れられ、彼らは流れに逆らうことをやめる。水は透明で汚れなく、少年たちの影が水底に映っている。このままどこまで行こうか? 次の集落までならすぐだよ。ならその先まで行こう。その先ってどこ? この川はどこに繋がっているの? わからないけど、どんな川もいつかは海に辿り着く。なら海まで行こう。こうして流れに身を任せていれば、永遠に泳いでいられるよ。

 夏はどこまでもつづいていくように思えた。

❄️2

 都会の夏に慣れていたぼくにとって、集落の夏は苦でもなんでもなかった。集落を縁取る杉林は太陽の光を遮ってくれたし、川は澱んだ熱も洗い流してくれるようだった。山の上のほうからは涼しい空気がおりてきていた。

 日曜日。ぼくは祖父の運転する軽トラックの助手席に座り、窓枠に肘をついて、過ぎていく景色を眺めていた。窓は全開で、木々の合間から漂ってくる涼気がほおを擦っていく。太陽が放つ光にさらされた川のにおいがここまで届いていた。田んぼに並び立つ稲穂は春からさらに背を伸ばし、先端にできた粒々とした実りの重みでわずかに頭を垂れている。イタドリが硬い茎をさらけだして、行く手を阻むかのように道路にはみ出ている。祖父が集落の連中と何度も刈っているはずなのだけど、雑草はそのたびに生命力の強さを見せびらかした。

 祖父の運転は荒かった。これも田舎暮らしをはじめて驚いたことのひとつだ。この集落に住みはじめて、最初に町までドライブに連れていかれたとき、過ぎゆく景色のあまりのはやさに、助手席で目を白黒させたものだ。終始ジェットコースターに乗っているみたいだった。目的地に着くと、シートベルトを外しながら、祖父は平然と言ってのけた。

「ほら、ここが休みの日におらたちがくる町だ。すまねえな。行きは前の車が邪魔だったから、あまりスピードを出せなかっただよ。帰りはもっとはやく走るからな」

 この日はいつもよりも落ち着いた運転だった。ぼくはミラーを見上げ、二台の車が背後からしっかりついてきているかをたしかめた。ぼくらのよりも、ひとまわり大きい車では、運転手が歯を食いしばりながら、祖父の車に置いていかれまいと、必死に距離を保っていた。やがて林道にさしかかると祖父は速度を落とし、背後の車もそれにならってアクセルを緩めた。舗装されていない道に乗り上げると、周囲の気温は下がった。車は一列になって、樹冠に覆われた暗がりのなかを山奥へ向かって進んだ。

 滝へと繋がる遊歩道の手前、整備された駐車場に車は並んでとまった。ぼくは軽トラックの横に立ち、装備を整えながら、二台の車から若者たちが降りるのを見守っていた。この日の客は全部で七人。全員が東京からきた大学生で、同じサークルに所属しているとのことだった。彼らは前日に女木内の民宿に泊まっていた。そして宿の主を通して、山のガイドを祖父は依頼されたのだ。ぼくは時々、こうして祖父に同行した。祖父は言う。

「こういった機会を大事にせねばならねえ。おらたちのことを外部の人間に知ってもらえるチャンスなんだ。こういったことの積み重ねで、おらたちの生活は潤っていくんだ」

 大学生はみな、色は違えど似たような格好をしていた。底の分厚い登山靴に、つばの広い帽子。生地は丈夫だが通気性もあるズボンとシャツ。脈や歩数まで計れる腕時計と、登山用の大きなリュック。彼らのと比べると、ぼくらの格好はみすぼらしいとさえ言えるかもしれない。だが彼らのだれひとりとて、腰に鉈をさげている者はいなかった。これはぼくの虚栄心を満足させた。

「本日はよろしくお願いします、鈴木さん」大学生のひとり、肩まで髪を伸ばした髭面の男がぼくらに近寄り、挨拶した。「ぼくが一応このサークルの代表をやってます。偶然ですが、実はあなたがたといっしょで苗字を鈴木というんです」

「おお、それは偶然ですな」
 と祖父は顔をほころばせて言った。
「鈴木という苗字はこの辺じゃ珍しくもなんともありませんがね。おらの集落では半分ほどが鈴木というんです。とはいえ、準備ができたら出発しましょう。ゆっくり行くので、みなさんはおらたちの後ろをついてきてくだせえ」

 ぼくは祖父と並んで先頭を歩いた。枝葉のすきまから降る陽光で、ぼくらのすぐ脇を流れる川の水面がきらきらと輝いていた。髭面の大学生はぼくらの後ろを歩いていた。彼のリュックの紐には熊よけの鈴が取りつけられていて、歩くたびに金属が重なりあう凛とした音が木の陰に響いた。彼は祖父と言葉を交わしていた。

「ぼくらのサークルはアウトドア全般を目的としていましてね」
 鈴木さんは言う。
「特にひとつに活動を絞っているわけではないんですよ。今日のようにハイキングや登山をする日もありますが、テントや寝袋を持参してキャンプをすることもあるんです。そういった日には食材やコンロや鍋も車に積んで、みんなで外で調理をして、たき火を囲みながら食べるんです。たき火はいいですね。何時間も見ていたって飽きません。ぼくらは夜中まで輪になって語りあいます。ぼくはひとりでキャンプや登山にも行くんですが、毎回そればかりだと寂しくなってきますからね。大勢でにぎわうのもたまにはいいものです。実は今回もはじめはキャンプをしようという話だったのですが、いまはあの民宿に泊まれてよかったと思います。熊の肉や山菜など、都会ではまず食べられない山の幸をいただけましたから」

 彼の横を歩いていたのは女性だった。薄い水色のシャツのボタンを首元まで留めていた。袖のボタンもしっかり留めていて、そこからのぞく手首は驚くほど細い。肩幅が異様に狭く、いまにもリュックの重みでくずおれてしまうのではないかと、ぼくは見ていて不安になった。眠たげな低い声で彼女はしゃべった。

「ほんとうにこのあたりの自然は珍しいわ」
 斎藤と名乗るその女性は言った。
「ここまでひとの手で荒らされていない森も、いまどきなかなか見かけません。空気は清涼ですし、動植物の種類が豊富です。それらはその森の豊かさを表します。日本列島の西側でこのような自然を見つけるのは難しいわ」

「たしかにここの山ほど豊かなところは日本でも珍しいでしょうな」
 祖父は嬉しさの滲み出た声で言った。
「結局、冬のおかげなんです。一年のうちでもっとも厳しい大変な季節ですがね。寒さやら雪かきやらで、多くの時間と労力が費やされます。しかしそのおかげで森は潤うんですな。冬は植物にとってエネルギーを蓄える季節ですし、春になれば解けた雪が山全体に栄養と種を運びます。だれだったかな、むかしとある作家が雪国の春をこんなふうに表現していましただ。『まるで爆発するような春』とね。まったくそのとおりなんです。冬の間に蓄えられたエネルギーが春になって、一気に放出されるんです。ええ、爆発と言っても過言ではないですよ。そして放出されたエネルギーは次の冬まで持続するんですな」

「素敵だと思います、ねえ」
 女性は鈴木さんに向き直った。
「直前で目的地をここに変更してよかったわね? 次はどこへ行こうかみんなで迷っていたときに、だれかが『せっかくだから、ひとが普段あまり行かないところに行きましょう』なんて言わなかったら、わたしたち、ここへはきていなかったでしょうね」

「うん。正直に言うと最初は少し不安だったけれど、ぼくもここでよかったと思うよ」
 鈴木さんが言った。
「ひとが多いところに行っても、移動が大変だったり、出費が大きかったりするからね。今回泊まった民宿のご主人は優しかったし、貴重な料理も食べれた。こんなに満足できている旅行は久しぶりだよ」

「あそこの民宿は奥さんの料理がうまいことで有名なんです」
 祖父が振りかえって言った。
「季節ごとに出てくる料理も変わってくるんですよ。春は山菜、秋は茸、冬はおらたちが獲ってきた山鳥や野兎の肉が食べれます。熊の肉も、春と秋では味が違うものなんですよ」

「素敵です」
 斎藤という女性が言った。
「季節によって、それだけ森が見せてくれる顔が変化に富んでいるのですね。このあたりは夏の景色も素晴らしいですが、秋になればまた景色が一変するのでしょう?」

「ええ、ええ。そのとおりです」
 祖父は周囲から覆い被さるような木々を、手で指し示した。
「秋になればこのあたりの広葉樹はいっせいに紅葉します。森が血に濡れたみたいに鮮やかな色に染まるんです。そのなかを歩くのは、毎年見ていますが、いつだって気持ちのいいものですよ。春は春で芽吹いたばかりの草花を見ることができます。冬はなかなか山歩きは難しいですが、見慣れないひとにとっては一面の雪景色というのも乙なものです。雪に覆われた山も、不純なものがいっさいないようで、とても綺麗なんですよ」

「そんなことを聞いたら、またここへ足を運ばなければならなくなりますよ」
 鈴木さんが感心したように言った。
「紅葉の時期も、毎年サークルのメンバーで旅行に行くんです」
 鈴木さんは首を巡らせて、後ろからついてきている大学生たちを振りかえった。
「これは次の目的地が早々に決まってしまったかもしれませんね」

「ぜひそうしてください。おらたちは歓迎しますだ」
 祖父も笑顔でこたえた。

 二本の丸太をくくりつけて渓流の上に渡しただけの、高低差のある橋があった。このあたりの流れは急で、毎年春になると数メートルは橋が下流に流されている。これを毎年整備するのも祖父の仕事だ。ぼくらは渡り終えたところで、後ろの人間が追いついてくるのを待っていた。早瀬は周囲に轟音を撒き散らし、それを裂くように大学生たちの黄色い声が聞こえる。ぼくは大学生の女性たちが手を繋いで、地雷原を歩くがごとく、慎重に一歩ずつ橋を渡っているのを眺めながら祖父に尋ねた。

「ねえ、じいちゃん。今年はぼくも舞茸採りに連れていってくれる?」

 祖父がこちらに向き直った。
「うーん、舞茸採りかあ。どうだろう。まだ大輝にははやいかもしれないな。釣りや山菜採りとはまた違うんだ」

「そう言って去年も連れていってくれなかったじゃない。そんなに大変なものなの?」

「大変も大変だ。なにしろ急な崖を這うようにのぼっていかねばならねえ。鋲のついた靴は必ず必要だ。それに山の一番奥のほうまで入っていくからな。道案内に乏しい人間じゃ、まず見つけられねえだろうな」

「でも今年もじいちゃんは行くんでしょう?」

「ああ。去年見つけたとっておきの場所があるからな。いいか、大輝。舞茸採りに行くようになったら、どこで採れた舞茸なのか、どこに生えていたのかを、決してほかの人間にしゃべっちゃだめだぞ。でねえとたちまちその場所を奪われちまうからな。舞茸採りは競争なんだ。どこにでも、無限に生えているわけじゃねえ。みんな相手を騙してその場所を聞き出そうとする。そうなったら大輝は黙っていられるか?」

「ぼく、どこで採ったかなんてだれにも言わないよ。そんなにおしゃべりじゃないや。山へ入っても自分がどこにいるか説明できないくらいなんだから、訊かれたってしゃべれやしないよ。だから今年はぼくも連れていってくれる?」

「大輝よ。お前にはまだはやい気がするがなあ」
 祖父は渋面をつくり、川の流れを見つめた。
「まだ大輝が見たこともないような深いところまで分け入っていくんだぞ。生半可な体力では途中でダウンしてしまうだろう。おらは若かった頃に一度迷ってしまって、十時間も山のなかをのぼったりおりたりしたことがある。ずっと歩きっぱなしだった。深い藪で道を見失い、尾根までのぼって遠くを見渡し、いまいる現在地をたしかめる。そしてまた深い藪に分け入る。それの繰りかえしだったんだ。陽暮れまでに帰れなければ、どこかで野宿をしなければならなかったろう。ようやく見つけた沢を目印にして、なんとかふもと麓までおりることができたがね。大輝に同じことを経験させるわけにはいかねえ。もしお前が途中でへばってしまっても、おらには背負っていくことはできねえよ。大輝は歳の割に体がでかいからなあ」

「それじゃあ今年は無理でも、来年なら連れていってくれる?」

「いまここで約束することはできねえよ。舞茸採りは苦労するんだ。まあ、それだけの価値があるものなんだがね。でも大輝がいまよりもでかくなって、充分な体力がついたら必ず連れていってあげるだよ。おらの案内があれば、まず迷うことはねえからな。うん。そのときはいっしょに行こう。他人に食わされる舞茸より、自分で採った舞茸のほうが何倍もうめえものな。大輝にもその味を知ってもらいたいもんだ。来年か再来年かもしれねえが、大輝がもう少し大きくなったらいっしょに行こう」

「それじゃあそのときのためにたくさん体力をつけておくよ」
 ぼくは首を巡らし、これからぼくらが進む予定の、滝へと繋がる道を眺めた。
「ねえ、じいちゃん。じいちゃんにとって今日の道のりは屁でもなんでもないんだね」

「そうだとも。滝を見に行くくらい、おらにとっては、ふと思いついて散歩に出かけるのと変わらねえだよ」
 そう冗談を言って祖父は笑った。

「ぼくもここでしばらく暮らしていたら、そのうちじいちゃんみたいになれるかな?」

 大学生たちの歩みは遅く、ようやく全員が橋を渡り終えようとしていた。祖父は目をすぼめ、彼らの挙行を見つめていた。彼は静かに口を開いた。
「ああ、ここで暮らしていれば、すぐにひとりであちこち行けるようになるさ。だが長くここにいつづけるというのは大輝のためにはならねえかもしれねえ。大人になったら、きっとおまえはここを出ていかなくちゃならないだろう。若い人間にとって集落の生活は味がしないだろうからな。おまえの親父も幼かった頃はよくおらといっしょに山歩きをした。それでもここには残らなかっただ。あいつの求めるものはここではなく、もっとべつの場所にあったんだろう。本人の口からはっきりと聞いたことはないんだがな」

「ぼくはここが好きだよ」
 ぼくは迷うことなくそう言った。
「東京での暮らしより全然楽しいや」

「そうかそうか」
 祖父は嬉しそうに笑った。
「それならここで暮らしていくことも考えていいかもしれないな。不便なことは多いが生活はしていけるからな。まあいま決める必要はねえだよ。時間はまだまだたっぷりあるさ」

「ねえ、じいちゃん。今日は若いお客さんがいっぱいきてくれてよかったね」

「ああ、そうだな。若いひとたちが訪ねてくるのは悪いことじゃねえ。集落の年寄りにはいやがる連中もいるがな。おらはこんなふうに外の若者と話すのは好きだよ。彼らは滞った空気の味を変えてくれる。若いひとたちがこうやって訪ねてくれるのは悪いことじゃねえんだ」

 道はよく整備されていたけれど、時折、小石や春に流された枯れ枝などの残骸を跨いで越えなければならなかった。三、四十分も歩きつづけると、ぼくらの目の前に滝が現れた。周囲を崖に囲まれ、遥か上から水流が滝つぼに落ちる轟音が響いている。大学生たちは苔の生えたベンチに荷物を置き、ひと息ついていた。ぼくのシャツは汗で濡れていたけれど、おかげで滝つぼから吹いてくる冷たい風が心地よかった。

「ここまでくると、夏なのに少し肌寒いくらいですね」
 斎藤という女性が言った。彼女と鈴木さんは祖父の近くに立って、水のあふれる空気を大きく吸っていた。
「とても空気がおいしいです。東京にも緑はありますが、ここのようにはいきません。水質もとてもいいんでしょうね。見ていればわかります。ここの水は飲んでも?」

「ええ、大丈夫ですよ」
 祖父は首にかけたタオルで額の汗を拭いていた。
「ここの水ほど綺麗なところも珍しいですよ。あんまり急に飲みすぎると、お腹を壊しちまうかもしれませんがね」

 何人かの大学生たちが靴を脱いで水際まで足を踏み入れ、互いにつついたり押しあったりするのをぼくらは眺めていた。滝つぼから舞い上がる水飛沫が、離れたぼくらの元まで届いていた。大学生のひとり、眼鏡をかけた女性が斎藤さんの横にやってきて腕を伸ばし、欠伸をした。

「こんなに気持ちのいいところにこれるなんて思ってませんでした」
 眼鏡の女性は言った。
「自分の家の近くにこんな素敵な場所があるなんて羨ましいです。わたしなら休みのたびにきてしまいそう」

「そうね。素敵なところだわ」
 斎藤という女性が言った。

「羨ましすぎて、わたし、住む家を考え直してしまいそうです」
 眼鏡をかけた女性が言った。

「どういうことだい、それは?」
 鈴木さんが笑って問いかけた。
「東京での生活がいやになってしまったのかな?」

「いやに決まってますよ、あんなところ」
 眼鏡の女性はうんざりしたように言った。
「毎朝ぎゅうぎゅう詰めの電車でもみくちゃにされるし、どこへ行っても車の排気ガスのにおいがするし、雨は汚いし。わたし、大学を卒業したら田舎に住むつもりなんです。都会のペースにはとてもついていけないわ」

「おやおや」
 鈴木さんが言った。
「そんなふうに考えてるなんて知らなかったな。たしかに、東京は便利なことばかりじゃないけどね」

「田舎の生活って憧れるんです。だって、みんな自分のペースで生活していて、特定の役柄を押しつけられることもなさそうじゃないですか」

「たしかに、東京とは違うだろうね」
 と鈴木さんは言った。

「田舎では、隣に住むひと同士で顔をあわせたら、挨拶しないなんてことはなさそうですもんね」
 眼鏡の女性は言った。
「散歩をしていると、声をかけられるんです。しばらく立ち話をして、お互いの畑でとれた野菜を譲りあったり、急に必要になったねじまわしや畑の支柱を貸しあったりするんです。そうやって、助けあって生きていくんだわ。困ってるひとがいたら、無視なんてせずに、みんなで手をとりあうんですよ」

 鈴木さんは祖父に向き直った。
「彼女はこんなことを言っていますがね。実際のところ、このあたりで若いひとが働ける場所はあるんでしょうか?」

「ありますとも」
 祖父は熱心に前のめりになった。
「町まで行けばいくらでも仕事はあります。みんな毎朝、車で通ってるんです。それに若い人間はどこへ行っても重宝されますよ。このあたりは年寄りだらけですからね」

「住む家はどうなんでしょう? 空き家はありますかね?」

「もちろんです」
 祖父は熱心に言葉をつづけた。
「ひとが出ていったばかりの空き家も多いですよ。役所にかけあえば、すぐに住むことだってできます。仕事だって、おらたちの紹介があればすぐに見つかりますだ」

「だそうだよ」
 鈴木さんが眼鏡の女性に笑いかけた。
「これは真剣に考えてみてもいいんじゃないかい?」

「ええ、そうですね。わたし、考えてみようかな」
 眼鏡の女性はため息をついた。
「とにかく東京を出たくて仕方ないんです。こういう静かで清潔なところで、だれにも邪魔されずにひとりで生きていきたいわ」

「いったいなにがあったの? まるで出家したがっている世間知らずな小娘みたいなしゃべりかたよ」
 と斎藤という女性が眼鏡の女性の顔を心配そうにのぞきこんだ。

「べつになんでもないんです」
 眼鏡をかけた女性は首を振った。
「ただわたし、疲れてしまってるんだと思います。質素な暮らしでいい。ただ平穏がほしいだけなんです」

 その後も祖父は集落の暮らしについての説明をつづけた。ぼくは静かに彼らから離れ、階段を上がったところからその様子を眺めた。大学生たちは礼儀正しく、時に相づちを打って祖父の言葉に耳を傾けていた。空気中に踊る水飛沫で、視界がわずかに白い光を帯びていた。祖父は自分の夢を語りつづけている。

 そんな光景を見ていると突然、なんの脈絡もなく、ぼくは気恥ずかしさをおぼえてしまった。祖父の話を聞く大学生たちがあまりにも礼儀正しかったからだろうか。滝の流れる音で、祖父の声がぼくの耳に届く前にかき消えてしまったからだろうか。それとも祖父がぼくの様子にまったく気づく気配がなかったからだろうか。祖父の柔和な丸顔を見ていると、その場から目を背けずにはいられなかった。ぼくは延々と流れ落ちる滝に目を向けた。大学生の何人かは上半身裸になって泳いでいた。鍛えられた肉体が陽の光を浴びて光っていた。視線を戻し、祖父の見慣れた立ち姿を見ると、再びぼくは恥ずかしさで首筋が赤くなるのを感じて、そのことにひどくとまどい、同時に胸が掻きむしられるような罪悪感をおぼえた。ぼくは根が生えたように姿勢も変えず、その場から動くことができなかった。

❄️3

「集落では空が赤く染まる前に陽が山の向こうに沈んじまう。だからおらは夕焼けというものを見たことがないんだ」

 帰りの軽トラックのなか、タイヤが砂利を踏みしめる音に負けないよう、祖父が声を張りあげていた。

「彼らはこれから日本海側の海沿いを走って、夕陽を眺めながら、のんびり東京に向かうそうだ。おらは見たことがねえし、見たいと思ったこともねえからわからないんだが、夕焼けとはそこまで綺麗なものなのかね?」

 そのときのぼくは祖父への罪の意識で頭がいっぱいで、返事もろくにできないほどだった。だが祖父は特段気にする様子もなく、今日の出来事を語りつづけていた。彼の言葉がぼくの胸底に浸透するのは、もう少しあとのことになる。

 家に着いてから、祖父を手伝って荷台の荷物を納屋に運んだ。作業が終わると祖父は家のなかに入ったけれど、ぼくはそのまま畑の横のベンチに腰かけ、暮れてゆく谷間を見つめていた。日照時間が長い時期だというのに、太陽は山の向こうに沈もうとしている。曲がりくねった集落の道に沿うようにして、暮れのそよ風が吹いていた。ここからでも吟子さんの小さい人影が、支柱の間で畑仕事をしているのが見える。しばらくその場から動かず、見慣れた景色を眺めながら、この日自分のなかに起こった変化を思いかえしていると、先ほどの祖父の言葉でなぜか心に引っかかるものがあるということに気づいた。

『おらは見たことがねえし、見たいと思ったこともねえからわからないんだが、夕焼けとはそこまで綺麗なものなのかね?』

 夕焼け。最後に夕焼けを見たのはいつだろう。あれはずいぶん前のことだった気がする。あの頃は隣に母がいて、父がいた。家族で海まで出かけたのだ。そのときに水平線に沈む太陽を見た。

 しかしあれは夕焼けだったのだろうか。記憶はあいまいで、思い出そうとすると、手の届かない場所に逃げてゆく。両親と海へ行った。でもあのときの空は赤く燃えるようだっただろうか。曇っていて視界が閉ざされた日ではなかっただろうか。あるいはもしかしたら、ぼくは本物の夕焼けを見たことがないのかもしれない。いずれにせよ、果たして夕焼けが美しいものなのかどうか、ぼくにもこたえることはできないのだ。

「ねえ吟子さん。吟子さんは夕焼けって見たことある?」

「夕焼け? そんなもの、毎日見てるだよ。午後になってしばらくすれば、あっちの山に沈む夕陽が見れるだ」

「夕陽じゃなくて夕焼けだよ。燃えるように真っ赤なやつ」

「へえ、そんなものがあるのかね? おらには違いがわからねえな」

「夕焼けはとにかく赤いんだ。空一面を染めるんだよ。天候とかの条件が整って、ようやく見れるんだ。とても綺麗なんだよ。太陽が地平線に近くないと見れないから、ここみたいに西を山に遮られてちゃだめだよ」

「西?  どうして西なのかね?」

「吟子さん。太陽は東から昇って西に沈むんだ」

「へえ、大輝くんは物知りだな。ところで大輝くん。そこに刺さっている移植ごてをとってけれ」

 こうしてぼくをひとつの熱情が捕らえた。ぼくはそれを意識のなかに留めることで、成長に必要な栄養を与え、昇華に必要なきっかけを模索しつづけた。その熱情は伸びた幹が少しずつ太くなるように、ぼくのなかで広大な範囲を占めるようになっていった。少年の日の、ぱっと燃え上がるような、駆け抜けていくような夢。

 大学生を山へ案内した次の日曜日。昼ご飯を食べたあとに、ぼくは集落の入口付近にある熊鷹山くまたかやまの登山口に自転車をとめた。背中のリュックには飲みものと、自分で握ったおにぎりが入っている。家にはほかにだれもいなかったから、なにかを問いただされることはなかった。質問をされていたら、困ったことになっていたはずだ。ぼくを衝き動かすこの感情は、もはや抗える代物ではなかった。なんてことはない。目的を果たしたら、遅くならないうちに帰ればいいのだ。そうすれば万事は平穏、元通りになる。

❄️4

 山頂に近い尾根筋に一軒、二階建ての山小屋が建てられていた。祖父によるとその小屋はむかし、なんらかの理由で山をおりられなくなった登山客のために、臨時の宿泊施設としてつくられたらしい。内部には汲みとり式のトイレやストーブが設置されていて、灯油や水が、種類の違うタンクに入って棚に並べられていた。薄い毛布やストーブに火をつけるためのマッチや遭難したときのための地図まで用意されていた。

 麓からその山小屋に辿り着くまで三時間近くが経っていた。シャツは汗でべとつき、鉈を握っていた手は疲労でわずかに震えていた。ここから山頂まではまだ少しの距離がある。山頂に着きさえすれば、遥か数十キロ先に海を見ることができる。海岸線には潮風を受けて軽やかに回転する風力発電の風車が並んでいて、その向こうで水平線に沈む太陽が見えるはずだった。祖父といっしょに一度訪れたことがあるから知っている。顔を上げて空の模様をたしかめると、夕暮れ時まではまだ時間がありそうだった。ぼくはその山小屋で休んでいくことにした。

 小屋のなかにひとの気配はなかった。ぼくは長靴を脱いで段差を上がり、リュックを下ろして隅の適当な場所に腰を下ろした。古い木材の香りが鼻をつく。喉が渇いていたのでリュックから飲みものの入った水筒を取り出し、口をつけてごくごくと飲んだ。壁に背中を預け、しばらく天井にかかるはり梁を見つめた。風に木の葉がさやぐ音も、蛙の訴えかけるような鳴き声も聞こえない。着ている服の布が擦れあう音が妙に大きい。ここへくるということを、ぼくはだれにも告げずにやってきた。ぼくは置き去りにしてきた自らの生活を振りかえった。集落ではぼくがいなくなったことが話題にのぼっているだろうか。いや、夜まではまだ時間がある。なんにせよ、もういまさら引きかえすのは不可能だった。この一週間、ぼくはこれから数時間後に訪れる出来事のために生きてきた。目的を果たすためならどんなものでも犠牲にできる想いだった。ぼくが想像しうる限りのどんなものでもだ。

 疲労で頭がぼーっとしていた。安物の靴のせいか、土踏まずがじんじんと痛む。ぼくは迫りくる寂しさに抗うため、膝を抱えて足の間に顔を埋めた。

 次に目が覚めたとき、窓の外は紛うことなき闇だった。その深い色あいから、夜の帳が訪れてずいぶんな時間が流れていることがわかった。ぼくはいつのまにか腕を枕にして横になっていた。体は硬い床と寒さで凝り固まっていた。その体勢のまま、突発的なパニックに襲われた。集落や普段の生活のことはそのとき、頭にはのぼらなかった。心を占めるのはただひとつ。ぼくは恋焦がれた瞬間を、刹那の安らぎによって永遠に見逃してしまったのだ。そして生まれ落ちたときから背中にまとわりついていた、穿つような喪失感がついにぼくを捕らえたのがこの瞬間だった。育てあげた想いは届かず、ぼくの夕焼けは沈んでしまった。

 だれかが咳きこむ声が聞こえた。

 心臓が、ばくんと跳ねた。この暗く狭い山小屋に、どうやらぼくはひとりではないようだ。どうしようもなくあふれ出る涙を襟元で拭い、ぼくはゆっくりと体を起こした。恐る恐る振りかえると、ぼくから少し離れた部屋の中心でストーブの火が燃えていた。その炎に照らされるようにして、ひとりの男の姿が闇に浮かびあがった。男は床に胡坐をかき、背骨は重い荷物を背負っているかのように曲がっていた。針金のように細く、骨格の浮き出た痩せた男だった。襟がくしゃくしゃに柔らかくなったチェック柄のワイシャツの上に、ポケットがいくつもついた革のベストを身につけていた。それらはあまりにもくすんだ色あいをしているので、それが元々の色なのか、汚れの積み重ねでできたものなのか判別できない。くるぶし踝まで覆った靴下は土と汗で茶色く変色し、親指のつけ根と踵のあたりには、つかい古されてできた穴があいていた。繭のように脆そうな頭には色褪せた藍染めの手拭いが巻かれていた。すきまから、何本か白髪がのぞいている。節くれだった指を足の間で擦りあわせている。ちらつく炎にかろうじて見えたが、右手の親指の第一関節から先が鋭利なものに切断されたかのように欠けていた。指を途中で失った者がそうなるように、切り株には申し訳程度の爪が生えている。老いてたるんだほおの皮は、だが長い間風雨にさらされたために、頭の裏側へと引っ張られるようだった。ほおからあごに生えている繁殖力の強そうな無精ひげには、ちらほらと色の抜けたのが混じっている。高い鼻や縁の尖った耳は犬や狼のそれのようでもあって、見る者に油断のならない印象を与える。炎を見つめる黒い目には踊り狂う光と影以外になにも映ってはいなかった。

 男がこちらを見た。

「やあ、こんばんは」

 ぼくは男の背後の、炎の灯りがかろうじて届く、部屋の隅を見つめた。そこにはなにかが横たわっていた。ひとの形に近いなにかが。

「泣いているのかい?」
 男は落ち窪んだ目でこちらを見つめ、咳きこんだ。
「ストーブの近くにおいで。夏とはいえ、夜の高地は冷える」

 炎の加減で、男の姿は部屋全体を覆うように、闇夜に浮かんでいる。ぼくはもう一度襟元で目尻にたまった涙を拭き、目を凝らした。炎が揺れ、男の影が揺れ、ついで、部屋の隅の塊も揺れた。よく見ると塊からは細長い髪の毛のようなものが、流れるように床に垂れている。

「こちらへおいで」
 男が疲れたように言った。
「夜は寒い。こうも冷たい孤独な空気ばかり吸っていては、ひとは体を壊してしまう」

 ぼくは少しためらったのち、四つん這いになってストーブの熱が届く場所まで移動した。ストーブを挟んで、なるべく男から見えない、離れた斜向かいに膝を抱えて座った。目だけを動かしてちらっと男のほうを見やると、彼はすでにぼくから視線を外し、炎のなかのなにかを見ていた。しばらくぼくらは無言だった。部屋の隅の塊が、身動きをしたような気がした。

「きみは麓の子供だね?」
 やがて男が尋ねた。

 ぼくは頷いた。質問が喉から出かかり、飲みこんだ。ストーブでは炎が油を燃やす、静かな音が聞こえる。静かに、なにかを引き裂くような音。

 どちらも無言のまま、揺れる炎を見つめた。男の注意は、その炎に向けられているみたいだった。あるいは、淡い陽炎のなかに見える、べつのなにかに。

 男が乾いた声で咳をした。

「どうしてわかったの?」
 しばらくしてから、ぼくは男に尋ねた。数年ぶりにしゃべったかのような、か細く、しわがれた声が出た。

「なんだい?」
 男が顔を上げてぼくを見た。

「どうしてぼくが麓の子だってわかったの?」

 炎の灯りに目が慣れ、部屋の奥の暗がりが、徐々に輪郭を持ちはじめた。男と視線をあわせながら、彼の背後を意識した。

「それだけ荷物が少なければ、近場からやってきたとしか考えられない」
 男は短くそうこたえ、ふたたび炎に視線を戻した。

 ぼくは一瞬だけ部屋の隅を盗み見、視線を足元の床に移した。ひとのような塊はこちらに背中を向けていた。目の端で、輪郭がうごめいた。

「それにきみからはこの山のにおいがする」

 ぼくは目を瞬いた。男は炎を見ていた。
「におい?」

「ああ」
 男は味わうように息を深く吸いこみ、吐いた。男の背後にかけられた梁には彼の影が揺れていた。

「どんなにおい?」
 とぼくは尋ねた。

「大半は杉だ」
 かろうじて聞きとれる声で、男は言った。
「だがその間から顔をのぞかせるようにべつのにおいもする。獣たちの生ぐささ、風化した死骸、水楢みずならの足元から這い出した茸、剥き出しの欲望、冬の名残り」

 ぼくは目を見開いて男を見た。瞬間、ほかの懸念など忘れてしまっていた。

「それがこの山のにおい?」

「そうだ。豊かな山だ、ここは。だがずいぶんとひとに踏み荒らされている」と男は疲れたように言った。

「踏み荒らされている?」

「ああ」

「でもぼくのじいちゃんは自然破壊とは無縁の森だって言ってるよ。この山は何百年も前の姿を保ってるんだって」

「そうかもしれない。だが破壊と侵食は異なるものだ」

 それっきり、男は黙った。男の背後の人影が、腐肉漁りのようなうめき声をあげた。

 ぼくは努めて意識を炎と男に集中させた。心臓が膨張し、速度を上げて脈打つ。男はちらっと背後に視線を向け、ふたたび炎に注意を戻した。

「そ、それがこの山なの? ひとの手によって荒らされてるのが?」
 ぼくは震える声で尋ねた。

 男がこちらを見て、静かに言った。

「この目で見る限り」

 男が視線をそらしたので、ぼくは男を観察した。身動きひとつしない。百年も歩きつづけた人間のように、頭が前に垂れている。白目は赤く充血し、ほおには擦り減った魂の持ち主だけだ持つ、薄汚い、完熟した染みが散らばっている。

 ふたたび男は咳をした。

「心配しなくてもいい」
 ふいに男が言った。
「わたしの母だ」

 ぼくは男の言っている意味がわからなかった。

「あれはわたしの母なんだ。いまは疲れて眠っている」

 ここでようやく男の言葉の意味を理解した。ぼくは首筋が熱くなっていくのを感じた。

「長い道のりをきたんだ」
 男は言った。
「長い長い一日だった」

 ぼくは男の背後を見た。人影は呼吸のリズムで、膨らんでは縮むのを繰りかえしている。時折、空気が漏れるような、甲高い音が聞こえた。

「この山はひとに荒らされていて、わたしには空気が少々きつい山だ」
 男はつづけた。
「だが母にとっては思い出深い山なんだ。むかし、父と母は、よく休みのたびにこの山を訪れた。春になって雪が解けたなら、彩り豊かに咲く山の花々を見に、秋は燃えるように山並みを覆う紅葉を見に、二人でこの山をのぼったんだ。わたしがもう少し若かった頃はこの山にもスキー場があった、知っていたかね? 季節風が西から運んでくる雪は手触りもよく、柔らかかったので、引っかかりもなく滑りやすいと多くの客に評判だった。父と母に連れられ、よくわたしも通っていたものだ。二人とも、とても上手に滑った。麓から山頂近くまでゴンドラが通っていてね。スキー板がいっしょだと、狭いゴンドラのなかはそれだけでいっぱいになった。雪がけぶ煙る山の斜面を、ゴンドラはゆっくりと時間をかけて進んだ。よほど風が強い日でもなければ、運行が中止になるなんてことはなかったんだ。ゴンドラから降りると我々の前には、凍りついた樹氷の群れが立ちはだかっていた。木全体が雪に埋もれて膨らんでいるみたいだった。初めて見たときはひとのような形だと思って、ひそかに恐怖を抱いたものだ。そこから麓までは、いくつかのコースに分けられていた。我々は決まって、仲よく三人で麓まで滑りおりたのだ。母はこのスキー場で、父から滑ることを教わった。二人とも、上手に滑ったものだよ。いまとなっては、遠いむかしの話だがね」

 男はふたたび咳きこんだ。ぼくは口を挟むでもなく、黙って男の言葉に耳を傾けていた。ストーブの炎は盛んに燃えているのに、小屋を包む夜の闇が、一段と深くなった気がした。

「時の流れははやい」
 男が静かな声で言った。
「なにもかもが、つい昨日のことのようだ。父が生きてあちこち旅行に出かけていたのも、母の顔に笑顔が見られたのも」

 ぼくは無言でストーブの炎を見つめ、痛くなってきたお尻の位置を入れ替えた。男は咳こみ、少しだけ、肩の力を抜いた様子を見せた。背後の人影が、油の乾いたブレーキ音のような音を出した。

「ここでの生活は楽しいかね?」
 と男がぼくに尋ねた。

「うん、楽しいよ」
 ぼくは言った。
「スキーはあまりやったことがないけど」

「学校で習わないのかね?」

「ぼくはまだ一回しかここでの冬を経験していないんだ。今年の冬は授業でスキーを習ったけど、まだまだ上手には滑れないな」

「きみはここで生まれたのではないんだね?」

「ぼくは元々ここの人間じゃないんだ」
 ぼくはなるべく低く落ち着いた声を出そうとした。
「都会からきたんだよ」

 男はぼくを見た。
「こっちへきてからどれくらいになるんだね?」

「一年とちょっとくらい。でももう何十年もここで暮らしているような気がする」

 男は頷いた。
「ひとによっては充分な期間だ。きみからはこの山のにおいがする」

 ぼくは着ているシャツをぱたぱたと扇ぎ、自分のす饐えた汗のにおいをかいだ。

「ぼくにはよくわからないな」
 ぼくは言った。
「自分のにおいなんて、自分じゃわからないよ」

「きみからはこの山のにおいがする。望むと望まざるとに関わらず」

「どうしてそんなことがわかるの?」

「わたしは、山から山へ渡り歩く人間なんだ。むかしはわたしのことを山伏やまぶしだという人間もいた。それが真実かどうかはわからない。わたしはそんなふうに自分を定義したことがなかったから。少なくとも、訪れる山によって独自の性質があることはわかる。その山々の恵みを受けて生を営む人間の性質も」

「すごいや。でもぼくにはよくわからないな」

「長く時間をともにしていると見えてくるものもある。わたしは人生の大半を山と関わって過ごした」

「それじゃあ、ぼくのじいちゃんや、集落のひとたちとおんなじかもしれないね。じいちゃんたちは、山について知らないことはないんだよ」

 男は首を振って短く咳きこんだ。
「わたしは山から山へと渡り歩く人間だ。それ以上でも以下でもない。ひとつところに留まって、生活の基盤を築きあげたことは一度もない。わたしは自分が山について知り尽くしたとはこれっぽっちも思っていない。なにもかもを知ってしまう前に、つぎの山へ向かってしまう」

 男は炎を見ていた。その姿は、ぼくの奥底にあるなにかを揺さぶった。

「あなたは旅人なんだね?」
 ぼくは畏怖の想いでそう尋ねた。

「わたしのような存在をなんという言葉で言い表すのかはわからない」
 男は言った。
「わたしにわかるのは、いくつかの〝そうでない〟ことでしかない。わたしはきみのおじいちゃんと同じような人間ではない。わたしは自分を立派だと言って胸を張れるような人間ではない。わたしはきみの考えているような人間ではない。わたしは自分を幸福な人間だとは思っていない」

 ぼくはしばらく黙ってストーブの炎を見つめた。やがてふたたび話しかけた。

「きっと、あなたのようなひとを旅人と言うんだよ。旅人は数えきれないくらいのいろんな知識や知恵を持っているんだ。旅人たちは孤独で、厳しい人生を送るんだけど、人々の記憶にその名を残すんだ。そして生まれつき旅人だったひとは、死ぬまでずっと旅人なんだよ」

「わたしには自分をなんと言い表せばいいのかわからない。少なくとも、わたしは立派な人間ではない」

「ふうん」

 ここでぼくは男の脇に置かれた荷物に気づいた。古い登山用のバックパックがはちきれんばかりに膨らんでいた。見えるところに寝袋やテントがくくりつけられている。腰に固定するためのベルトは擦り切れて千切れそうだった。

「あなたたちはどこからきたの?」
 とぼくは尋ねた。

「ここから尾根筋を伝っていった下のほうだ。西側の」

「そこに住んでる?」

「いや」

「それじゃあ住んでるのはどこ?」

 男はしばらくなにも言わなかった。静かに咳きこむ。やがて手で周囲を示した。
「今日はこの山に住んでいる。ここが今日の家だ」

 どちらも無言でストーブの炎を見つめた。部屋の隅の人影から、虫が這いまわるような、なにかが擦れあう音が聞こえた。

「それじゃあ帰る場所はないの? 家族は?」

 男は首を振った。
「我々は二人きりだ。この世界に、わたしと母しかいない。家はある。だが、もはやそこは帰る場所ではない。どこが帰るべき場所なのか、どこが出発地点だったかなど、我々には些細な問題でしかない。わたしはただ、目的地に向けて進んでいくだけだ。つぎの季節、つぎの山々へ歩いて向かうだけだ」

 ぼくはもじもじと手の平を擦りあわせた。男の言葉は難解で、幼いぼくの理解がおよぶものではなかった。いつのまにか、不安のしこりのようなものが、胸の中心に居座っていた。心臓が脈打つと、かすかな痛みが胸を刺す。その不安は男と言葉を交わすたびに、少しずつ膨らんできたものだった。

 背後の人影が、かすれるうめき声で、言葉のようなものを紡いだ。それはこんなふうに聞こえた。

「ゆきお、ゆきお、ゆきお・・・」

 男はなにも言わず、目を閉じた。つぎに彼が目を開けたとき、その黒い瞳には先ほどまでは見られなかった、こことは違う男の心の奥底に眠るなにかが映っていた。彼はそれをみなぞこ水底からすくいとり、ぼくにも見える高さまで浮上させた。それは子供の精神ではまだ知覚できない、触れたものを引きかえせない場所へと誘う、遠い過去の凝縮だった。

 長い沈黙ののち、男は静かに自分の荷物へ手を伸ばし、バックパックから紐でしばられた竹の皮の包みを取り出した。彼が紐を引っ張って包みを解くと、なかから海苔に巻かれた三つのおにぎりと、萎びた茶色いたくあんが顔を出した。彼は静かな眼差しでぼくを見た。

「食べるかね?」

 ぼくは呆けたようにそのおにぎりを見つめていたけれど、彼の問いに頷こうとしたとき、昼に自分で握ったおにぎりのことを思い出した。あれからずいぶん時間が経った気がする。ぼくは立ち上がって部屋の隅に行き、荷物を抱えて元の場所に戻った。リュックのなかからアルミホイルに包まれたおにぎりを三個と水筒を取り出し、足元に並べた。その様子を見て男は頷き、竹皮の上のおにぎりをひとつ手にとって大きな口でかぶりついた。大きな口は噛むたびに端から端まで波打つように動いた。顔中に新たなしわができては消えていった。時折たくあんを一切れ指でつまみ、ぼりぼりと大きな音を立てて食べた。そんな彼の様子を眺めていると、忘れていた空腹感が胃のまん中あたりを締めつけるようで、ぼくは自分の包みを解き、食料を持参した幸運を感謝し、おにぎりを口に運んだ。

 やがておにぎりを二つ食べた男は、最後の一個を持って立ち上がり、部屋の隅の人影に歩み寄った。ひざまずき、老婆の肩を優しく揺さぶった。

「母さん。母さん。おにぎりを食べるかい? 昼からなにも食べてなかったから、お腹がすいているだろう? 起きて、少しでも食べるといい。食べたらまた休めばいいんだよ。明日はもう少し歩かなければならないから、食べて力をつけておくといいよ」

 老婆はかすかなうめき声をあげ、男の力を借りて体を起こした。男は左手で老婆の背中を支え、右手で彼女の口の前におにぎりを差し出した。老婆は染みの浮いた、か細い両手で男の右手を包み、おにぎりのてっぺんを弱々しくくわえた。少量を口のなかに入れ、力のないあごでゆっくりと噛んだ。咀嚼したものを小屋中に響き渡る音を鳴らして嚥下すると、ふたたびおにぎりの端っこをくわえた。男は黙って母親を見つめ、優しく背中をなでつづけた。

「もういらないのかい?」

 老婆はうめき声をあげ、わずかに首を振った。男は水筒を引き寄せ、ふたにお茶をそそいで、老婆の口元に近づけた。老婆はそれをごくごくと飲むと、満足そうなため息をつき、なにごとかをつぶやいた。

「うんうん。大丈夫だよ、母さん」
 男は水筒のふたを閉めながら言った。
「ゆっくり休むといい。ここにはだれも邪魔するやつなんていないんだよ。だから気の済むまで、ゆっくり休めばいいよ。明日はきっと、ぼくらの目的の場所に辿り着けるからね」

 老婆はまぶたを震わせて、黄色く濁った瞳を左右に動かした、一瞬、その視線がぼくを捉えたような気がした。だがそんな素振りを見せることもなく、老婆は男の腕に体重を預け、少しずつ体を倒した。ふたたび横になるとこちらに背中を向け、小さな手を胸にかき抱いて、それっきり動かなくなった。

 そんな様子を、ぼくは咀嚼するのも忘れて見つめていた。おにぎりを持つ手の感覚はどこかへ消え去り、口のなかのものは味を失っていた。男はしばらく老婆のもとにひざまずいたまま、肩を優しく叩きつづけていた。やがて立ち上がると、先ほどまで座っていた場所に戻り、竹の皮の包みと水筒をバックパックへと仕舞った。彼はふたたび背中を曲げて胡坐をかき、無言でストーブの炎を静かな眼差しで見つめた。

 ぼくはなにも言わずに考えこんだ。あごを休め、揺れる火を見つめた。足元で食べかけのおにぎりの影が揺れている。夜が深くなるにつれ、山小屋の気温も下がっていく。

「夕焼けを見たことがある?」
 気づくとぼくはそう尋ねていた。
「ただ沈んでいくだけの太陽じゃなくて、燃えるように真っ赤なやつ」

 男はこちらを見つめ、それから揺れる炎に視線を戻した。

「もちろん、何度もある」
 男の口の端がわずかにほころんだ。

 ぼくは目を見開いて男を見た。
「どんなふうなの? 綺麗だった?」

 男は目を閉じて考える素振りを見せた。

「たいがいは美しい」
 男は静かに言った。
「運がよければ空にはほどよい量の雲が浮かんでいる。細く、たなびくような雲だ。それが鏡の役割を果たす。赤い夕陽が雲に反射し、空が一面、焼けただ爛れたようになる。わたしはそれを海の上から見ていたんだ」

「海ってどこの海?」

「さまざまな海だ。数えきれないくらいの。わたしは一時期、海の男だった。いまこうして山から山へ渡り歩くように、海から海へ渡り歩いていた。波に揺れる甲板から水平線に落ちる夕陽を見たんだ。何度も何度も」

「それを見たとき、どんな気持ちになった? わくわくする? 寂しくなったりする?」

「なにもない。ただ美しい。ほかの感情はすべて抜け落ちていくようで、穏やかな気持ちにはなる。昇る朝日を見たときもそうだ」

「朝日?」ぼくは知らず身を乗り出していた。「それも海の上から見たの?」

「そうだ」

「それもただ美しいと感じるの?」

「朝日は一日のはじまりだ。水平線から顔をのぞかせた太陽は、我々の街、枕元、ありとあらゆる生活を照らす。夕陽は違う。沈む太陽が照らすのは空。過ぎた時間だ。どちらもともに美しいが、同じものではない」

「ぼくにはわからないや」
 ぼくは塞いだ気持ちになった。
「ぼくは両方とも見たことがないから。写真やテレビでしか見たことがない。この目で見たいと思ってここへきたのに、なにもかもだめになっちゃった。きっとこれから先もなにかを願うたびに邪魔が入るんだ。そんな予感がする」

 男は静かにぼくを見た。ストーブの熱で彼の輪郭がわずかに歪んでいた。

「そうかもしれないし、そうではないかもしれない。わたしにはわからない」

 ぼくは項垂れて男から表情を隠した。失望の念を見られたくはなかった。男は軽い衣擦れの音を立てて立ち上がり、壁に設えられた棚へ歩み寄って三枚の毛布を抜きとった。一枚を老婆の体に優しくかけ、一枚をぼくに手渡した。もう一枚は自らの体にくるんで横になった。

「ストーブはつけっぱなしにしておくといい。これからさらに冷えることだろう。寝るときはその毛布を体にかけなさい。でなければ風邪をひいてしまうだろうから」

 すぐに男は静かな寝息を立てはじめた。ぼくに背中を向け、腕を枕にしていた。彼が呼吸をするたびに体が膨らんでは萎むのをしばらく眺めていた。隅の老婆も、いまでは静かに、安寧のなかで眠っているようだった。ぼくの手にはまだ食べかけのおにぎりがあった。話し相手がいなくなったことで、ぼくは物思いに耽りはじめた。静まりかえった山小屋のなかで、背後に置いてきた集落での生活が脳裏に蘇ってきていた。

 一年前、ぼくが集落での暮らしをはじめた当時、集落内にひとの住んでいた家は八軒あった。吟子さんの家の隣、雪の重みで片側が崩れたわらぶき屋根の古い家にはかつて、高堰たかせきという名の老人がひとりで住んでいた。高堰老人ははやくに奥さんを亡くし、ひとり息子からはなんの音沙汰もないまま十年以上慎ましやかな独身生活を送っていた。女木内で所持していた田んぼをひとに貸して得た利益と、集落の近くで所持していた山に生えている樹齢十年の杉を組合に売って得た利益でなんとか生計を立てていた。曇った日であろうが雪の降る日であろうが、外出をするときには必ず帽子を被り、斜に構えた眼差しで対象を睨むように凝視しながら集落を歩きまわった。毛並みがぼさぼさに乱れた白い犬を一匹飼っていて、出かけるときにはたいていこの犬を連れていった。赤い軽トラックの荷台でくすんだ毛を風になびかせ、目の前を涼しい顔で通り抜けていくその犬は、集落の生活というものを体現していたように思う。夕方の散歩の時間には高堰老人が運転する軽トラックに並走するように、伸びた爪でアスファルトを弾きながら道路を駆けた。ぼくが知る限り、その犬は一度もリードに繋がれたことがない。学校帰りに集落の道路をあてもなくさまよい歩いているその犬を何度も見たことがある。しっぽを振りながら用水路の縁に生える雑草に鼻先を突っこんだり、だれかの庭の畑に入りこんで粗相をしたりした。長い舌が歯のすきまからだらしなく垂れ、口を開けて荒く漏れるように呼吸をした。ひとが近くを通るのに気づくと必ず吠えたて、その場に引っくりかえって足を天に差し出し、お腹をなでまわしてくれとせがんでくる。実はこの癖が身についたのはぼくが原因だった。その犬は目についた人間に片っ端から吠えたてたけれど、それは威嚇でもなんでもなく、ただ遊んでほしかっただけなのだ。その犬はだれにでもすぐに懐いた。ぼくが集落で最初に仲よくなったのは人間ではなくその犬だった。ぼくは彼を喜ばせたくて、指の先に軽く力をこめ、長い間洗っていない毛布のようなにおいがする体を優しく引っくりかえし、両手で乱れた毛の上からお腹をかいてやった。その犬は口の横から舌を垂らしながら荒い吐息を漏らし、瞼を半開きにして全身の力をだらりと抜いた。ぼくらは会うたびにその儀式を繰りかえしていた。いつしかその犬は出会う人間すべてにぼくがやっていたことを要求するようになった。

 集落の年寄りたちは高堰老人の犬について小言を並べた。またあの犬っこがうちの庭にくそ糞をしていきやがった。これで今月二度目だ。おかげで自分の家なのに糞を踏んづけやしねえかと、びくびくしながら歩かなきゃならねえ。なんとか高堰さんが留守の間だけでも繋いでくれやしないもんかね。たしかにうるせえだけで優しい犬だが、あんなふうに好き勝手させているのは間違いだよ。いつかとんでもない事故に巻きこまれちまうだ。

 そして事実そのとおりになった。とある集落の人間が車で帰宅する途中、道路脇の茂みから飛び出してきたその犬を轢き殺してしまったのだ。ぼくは運よくその場には、いあわせなかったけれど、なかなかに凄惨な現場だったらしい。タイヤの下敷きになった彼の体は胴が潰れ、内臓がアスファルトの上に飛び出していた。四つの脚は事故からしばらく時間が経ってもぴくぴくと痙攣をつづけていた。ぼくが目撃したのはアスファルトに残った血だまりの跡だけだったけれど、事故後、何日経ってもその跡は消えなかったため、現場の前を通るたびにぼくは目を背けて呼吸を止め、素早く走り抜けなければならなかった。

 高堰老人の心のなかで、その事故を境にどのような変化があったのかはよくわからない。彼は集落の集会には顔を出さなかったし、ぼくと関わることもほとんどなかった。道普請や用水路の水門を開けるときは集落の男たちに混じっていっしょに作業をしたけれど、そのあとの酒盛りに参加することはなかった。でもきっと悲しかっただろうと思う。気質のいい犬だったし、老人は孤独な生活を送っていた。平気であるはずはない。

 だからといって、事故から数日後、高堰老人の家の前で、杭に鎖で繋がれた獣を見たときに驚かなかったわけではない。それは一匹のたぬきだった。高堰老人がある日、山で捕らえて連れ帰ってきたのだ。その首には黒い革の首輪が巻かれていた。目のまわりと鼻だけが黒く、残りは茶色と白が混ざった毛で全身を覆われていた。鼻先は犬のように尖っていて、しっぽは太かった。毛並みの艶やかさから判断すると、まだ若かったのだろう。ぼくの手の平にのってしまいそうなサイズだった。

 たぬきは人間が高堰老人の家の前を通ると怒りで鼻先にしわを寄せ、甲高い声で盛んに喚いた。鎖を引っ張り、金属を軋らせながら飛びかかろうとした。あれは見ていてとても不安になる光景だった。たぬきの目は人間に対する敵意で不気味に輝き、全身の毛並みは逆立った。だれに対しても同じ反応を見せた。高堰老人も例外ではなく、彼が餌をやるときは、離れたところから野菜や果物などを投げて与えていた。

 学校帰りにその獣の前を通るたび、ぼくの心は恐怖で縮んだ。毎日毎日、牙を剥き出しにして飛びかかってくるのだ。たとえ鎖に繋がれているとはいえ、地面に固定された細い杭やたぬきの勢いから判断するに、それらはあまり信用の置けるものではなかった。ぼくは追い立てられるようにその家の前を走って通り抜けた。背中を追いかけるようにたぬきの邪悪な鳴き声が耳に響いていた。傷つけられるのではないかという不安から心臓が跳ね、家に帰っても動悸はなかなか収まらなかった。

 ぼくがその獣に怯え、安穏とした生活を送れずにいるという情報は、たちまち集落の間に知れ渡った。彼らは子供を大切に扱うひとたちだったから、だれもが高堰老人に抗議の声をあげた。吟子さんなどは隣家に怒鳴りこんだほどだ。

「高堰さん、いったいあんたはどういうつもりなのかね?」
 吟子さんは声を荒げた。
「若い子供をこんなふうに怯えさせて、趣味が悪いったらありゃしねえ。集落の人間も迷惑してるだ。いい加減そのたぬきを山に返してきたらどうだね?」

「おらがどういうつもりかなんて、あんたには関係ねえ」
 高堰老人も同じように声を荒げていた。
「こいつはおらが世話をするために山から連れ帰ってきただ。これから少しずつひとに慣れさせて、芸をおぼえさせるんだ。だれにも邪魔はさせねえ。こいつがだれかを傷つけたわけでもあるまいし、あんたらは小さなことで騒ぎすぎだ」
 ここで老人はぼくを睨んだ。
「だいたいその童子わらしはどこのだれなんだね? 同じ集落に住んでいるからって、うちへ挨拶にきたこともない人間のことなんておらは知らねえ。そもそもおらは生まれたときからこの家に住んでいるんだぞ。なんであとからきた者のわがままに耳を貸さなきゃなんねえんだ。そこの童子はこの集落の人間じゃねえ。そんなやつにおらの生きかたについて口出しされるいわれはねえだよ」

 ぼくは吟子さんの裾を引っ張り、もう帰ろうとうながす。高堰老人の言葉がどうしようもなく核心を突いているように思えたからだ。

 祖父や吟子さんを発端に、抗議は集落中を巻きこんで膨れあがった。やがて女木内も含めた地区の集会で、ある合意がなった。それは高堰老人に正式な直訴をするというもの。ある日、祖父や女木内を代表する人間たちが高堰老人の家を訪れ、話しあいがおこなわれた。それがどんな内容だったのかは知らないけれど、半ば強制的なものだっただろう。そこで下された結論は、到底ひとりの貧しい老人が抗えるものではなかった。その次の日にはたぬきは檻に入れられ、祖父の運転する車で山奥に連れていかれた。あとから聞いた話では、そのたぬきはあまりにも人間に悪意を持ちすぎていたために、のちに悪さをしないよう殺してしまうのが安全ではないかという案もあったらしいが、ほっとしたことに、これは却下された。たぬきは祖父によって解放され、振りかえることもなく林のすきまへと走り去った。

 こうして高堰老人はふたたびひとりになった。新たに獣を捕まえてくることも、犬を飼うこともなかった。老人はひととすれ違っても、だれとも目をあわせようとはせず、言葉を交わすこともなかった。それからまもなくして、彼の姿は集落のどこにも現れることがなくなった。風の噂ではひとりで暮らしていくのが困難になったため、息子が出した費用でひだか飛鷹の施設に入所したらしい。彼は集落のだれにも別れを告げなかった。やがて冬が訪れ、雪下ろしをするもののいなくなった家は、雪の重みによって半壊した。風が割れた窓から侵入し、もうつかわれることのない家具に土やほこりを積もらせた。玄関先の杭や鎖は片づけられないまま錆びつき、凍るように冷たい雪に埋もれた。あとに残されたのはだれの役にも立たないがらくたと廃墟のみ。ぼくは時々その家の前に立ち止まって、あの白くぼさぼさした毛並みの、リードに繋がれることのなかった白い犬との思い出や、人間に恨みを抱いていた哀れな獣との記憶を手繰り寄せた。それらの出来事はぼくに言いようのない居心地の悪さを呼び起こさせた。高堰老人との邂逅を経て、ぼくは抗いようのない運命の渦に巻きこまれた。ぼくの生活は、集落の営みと切っても切り離せないものになった。ぼくの言動はそれがどんなものであったにせよ集落の一部となり、また、この地の土や空気やひとの想いもぼくの一部となった。高堰老人との出来事が、ようやくそのことをぼくに気づかせた。もしかしたら彼が永遠に集落を去ったのは、このぼくが原因だったかもしれないのだ。

❄️5

 少しずつ冷えていく山小屋のなかで、揺れるストーブの炎を見つめながら、ぼくはそんなことを考えていた。手にはすっかり冷めて粘りけの増した食べかけのおにぎり。ぼくはそれをゆっくりと口に運び、水筒のお茶で飲み下した。食べ終え、少しの間ぼーっとしてから男に渡された毛布を広げた。ぼくはそれにくるまり、リュックを枕にして横になった。目を閉じると炎の残影が瞼の裏に残っていた。それが消える頃には眠りが訪れ、ぼくは深い虚空に沈んでいった。

 翌朝。大きな手に優しく肩を揺り動かされ、ぼくは目を覚ました。眠りから浮上し、意識を覚醒させると、すでに外は明るいことに気づいた。隣では兄さんが覆い被さるように膝をつき、ぼくの顔をのぞきこんでいた。

 咄嗟とっさに言葉が口をついて出た。
「ごめんなさい、兄さん。ぼく・・・」

「心配したよ、大輝」
 兄さんは安心して力の抜けた声を出していた。
「おれもお父も昨日からお前を探しまわってた。お前の身になにかあったんじゃねえかって不安で仕方なかった。お父なんて気が狂いそうになってたよ。山で遭難したのかもしれない、熊に食われちまったのかもしれないなんて、悪い想像ばかりしちまった。麓でお前のマウンテンバイクを見つけたときは、ほっとしたらいいのか焦ったらいいのかわからなかった。陽が昇ってからすぐにここまできたんだ。とりあえず、無事でよかったよ」

 ぼくはゆっくりと体を起こし、部屋の反対側を見た。ストーブの炎は消えて久しいようで、鉄板の覆いはすっかり冷めていた。前日に男たちが寝ていた場所に人影はなく、毛布は畳まれて棚に置かれていた。ぼくは思わず兄さんに尋ねていた。

「ねえ、兄さん。ここへきたとき、ぼくら以外にひとはいなかった?」

「もちろんおれたちだけだったよ」
 兄さんは怪訝そうに眉をひそめた。
「なんだ、ほかにだれかがいたのかね?」

 ぼくは旅人がいなくなった床をしばらく見つめた。いま頃、二人はこの山のどこかを進んでいるのだろうか。崩れそうな老婆の体を、男が支えている場面を想像した。吹きつける風に身を寄せあい、前を向いて歩いていく。この山のどこかに、彼らの終着点がある。我々のだれもが求めてやまない場所。男が励ましの言葉を紡ぐ。老婆は残った力を振り絞り、震えるまぶたをあけ、濁った瞳で世界のこ来しかたを見つめる。口元で、現代では意味をなさない、遠い過去の忘れられた言葉をつぶやいている。そうして二人は歩きつづけている。

 やがてぼくは首を横に振ってこたえた。

「なんでもない。だれもいなかったよ」

 兄さんがおにぎりを持ってきてくれていたので、山小屋のなかでそれを食べた。具はなく、塩で味つけされているだけだったけど、ぼくが握ったどのおにぎりよりもおいしかった。毛布を畳み、荷物をまとめてから二人で外に出た。太陽は稜線から顔を出して時間が経っているみたいで、丈の低い木々の隙間から温もりのある陽光が流れ落ちていた。

「疲れてやしないか?」
 兄さんがぼくに尋ねた。
「硬い床ではよく眠れなかっただろう」

「大丈夫だよ。ぼく、ぐっすり眠れたよ」

「それじゃあ急いで帰ろう」
 兄さんが空を見上げて言った。
「集落の連中にも探すのを手伝ってもらったんだ。はやく帰ってみんなを安心させてやらねばな」

「ねえ、兄さん」
 ぼくは登山道の山頂へとつづく方向に視線を向けた。
「ここから山頂までは近いんだよね?」

「ああ、もうまもなくだよ」

「すぐそこなんだよね?」

「うん。手を伸ばせば届きそうなくらいだ」

「それじゃあ寄っていくわけにはいかない? ぼく、昨日は途中で暗くなっちゃって、山頂まで行けてないんだ」

 兄さんは静かにぼくの横へ並び、同じ方向を眺めた。小石の敷き詰められた登山道の脇には、竜胆りんどう百合ゆりなど、色鮮やかな花が足元のあたりで咲いていた。岩場を覆うように赤い毛氈苔もうせんごけの葉が張りついていた。斜面に広がる大白檜曽おおしらびその向こうに、碑の建っている山頂らしき影が見えた。ああ、ほんとうに、手を伸ばせば届きそうなくらいだった。

「大輝よ」
 兄さんがぼくを見つめた。
「お父や集落の人間が麓で待っている。おれは彼らをはやいところ安心させてやりたい」
 それから目を細めて山頂のあるほうを見やった。
「それは大輝にとって大切なことなのか?」

 ぼくはしばらくなにも言わなかった。過ぎた夢は次第にぼくのなかで形を失っていくように思えた。それはかつてほどの輝きを伴っておらず、くすんだ色あいをしてぼくの手から離れようとしていた。あとは握った手を開きさえすればいいのだ。燃え尽きた灰にいつまでもしがみついていたって仕方ない。頭でわかってはいても、ぼくはその場から動けず、兄さんの問いに対するこたえも持ちあわせていなかった。

「大輝。お前がどうしてもというなら」
 兄さんの声がぼくを現実に戻した。
「どうしてもというなら行っても構わない。そのために危険を冒してここまできたのなら、それは大輝にとって大きな意味があることなんだろう」

 やがて、ゆっくりとぼくは首を横に振った。

「いや、いいんだ」
 最後に昨日までの夢を一瞥し、背中を向けた。

「いいのか? 行って帰ってくるだけなら構わないぞ」

「いいんだ。もう終わったことだから」

「またくればいい。そうしようと思えばいつでもこれるさ」そう言って彼はぼくの肩に手を置いた。

「うん、ありがとう、兄さん」

 ぼくらは麓に向かって出発した。足元をよもぎの葉がくすぐり、時折イタドリの茂みが登山者を邪魔するように生えていた。兄さんは草をかき分け、前方を進んだ。ぼくは兄さんの背中を見つめ、彼のたしかな足どりについていきながら話しかけた。

「ねえ、兄さん。じいちゃんはぼくのことを怒ってるかな?」

 兄さんはしばらくなにもこたえず、邪魔な藪を鉈で叩き切った。やがて彼は言った。

「お父はきっと、兄貴のことを考えていたんだと思う。大輝の身になにかあったら、おれたちは恥ずかしくて兄貴に顔向けできない。おれたちには大輝を預かっている責任があるんだ」

「それじゃあじいちゃんは怒ってるんだね。ぼくのことをどうしようもないやつだと思ってるんだ」
 ぼくは項垂れた。

「そんなふうに思っちゃいないさ。ただ、おれたちは心配だっただけだ。おれたちには家族としての責任があるんだ」

 麓に辿り着く頃には、太陽は天頂にさしかかろうとしていた。藪をかき分け、木々の間を抜けると、ようやく前日に自転車をとめた場所が目の前に現れた。そこでは陽の光が夏の温もりを伝えていた。登山道入口の看板が立っている開けた空き地に、祖父と何人か集落の人間の姿があった。祖父は真っ赤に染まったほおをぷるぷると震わせながら、こちらへ歩み寄ってきた。ぼくは反射的に兄さんの背中に隠れようとしたけれど、祖父の手がぼくの腕を万力のような力でつかんだ。

「お前のために集落の人間が何人も一晩中走りまわっただ」

 憤怒ふんぬのあまり、祖父の声は震えていた。腕を握る力が強すぎて、ぼくは痛みに悲鳴をあげそうになった。

「一晩中、一睡もすることなくだ。女木内や町まで捜しにいった連中もいる。あっちの人間にもたくさん迷惑をかけただ」

 まわりの人間たちは同情するような表情でこちらを見ていた。ぼくは腕があまりにも痛むので、祖父の手から逃れようともがいた。

「こっちへこい。お前にわからせてやるだ。おらたちがどれだけ多くの人間に、どれだけ大きい迷惑をかけちまったのか、お前にわからせてやるだよ」

 ぼくは泣き喚きながら身を捩らせたけど、祖父の力はどうしようもないほど強かった。ぼくは泣いて悲鳴をあげながら許しを求め、空いているほうの手で祖父の体を虚しく叩いた。祖父はますます強固な力でぼくの腕を締めあげた。ぼくは鼻水を垂らしながら抵抗し、引きずられていった。暴れまわるぼくの足元で、土埃が陽光のなかに舞った。薄れゆく視界の向こうで、兄さんが憐れみのこもった視線でこちらを見ていた。ぼくの叫びが山々の間に木霊した。

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