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【小説】雪のひとひら 第三話
第三話 燃える山
❄️1
祖父が亡くなった一年後に、瀬戸内海をのぞむ小高い丘に建つ、吟子さんの新たな住まいを訪ねた。こじんまりとした茶塗りの二階建てで、海に面した庭に、小さいながらも自由にできる畑が据えられていた。その場所からは海が見える。ぽつぽつと点在する島々。定期船が通ったあとにできる白い波濤。太陽の光をぎらりと反射する、どこまでも青すぎる海面。たしかに。電話で聞いたとおり、ぼくらの故郷とは、まるで対極にあるような場所だった。
長かった運転を終えて車を降りると、庭先で小さな人影が屈んで土いじりをしているのが見えた。ぼくは歩み寄り、声をかける。彼女は作業の手を止め、立ち上がってぼくを見上げる。ぼくの声を聞いた時点で、すでに彼女の口元には笑みが浮かんでいる。ぼくの姿を認め、彼女の微笑みは顔いっぱいに広がる。気恥ずかしさで思わず目をそらした。ぼくの姿は、あの頃とはあまりにも違いすぎただろうから。
家のなかから折り畳みのテーブルと椅子を引っぱり出し、庭に立てられたパラソルの下に広げた。気温は高く、シャツには汗が滲んでいたけれど、絶えず吹きつける潮風がそれを乾かしてくれた。まもなく玄関から吟子さんの孫だと名乗る女性が現れ、テーブルの上に氷の入ったグラスと薄緑色の液体で満たされたティーポットを置いた。彼女は、ゆっくりしてくださいね、と言ってぼくに微笑みかけ、家のなかに戻った。吟子さんは二人分のグラスに液体をそそぎ、ポケットから煙草を取り出して口にくわえた。
「好きなだけ飲んでいってくれ」
彼女はライターで煙草に火をつけ、うまそうに吸った。
「庭で採れたハーブを使ってるんだ。おらもこっちへきてから初めて飲んだんだが、なかなか悪くねえ味だよ」
「ハーブ?」
ぼくは驚いて聞きかえした。
「吟子さんが育てているのかい?」
「いや、おらじゃねえよ」
吟子さんは庭の端に並ぶ土の詰まった鉢植えを指し示した。
「孫がやってるんだ。あそこらへんは孫の領域なんだ」
ぼくは冷たいハーブティーを口のなかで転がし、飲みこんだ。さわやかな香りが鼻を抜けた。手入れの行き届いた庭を見つめ、尋ねた。
「こっちへきてからも畑はつづけてるんだね?」
「ああ、そうだ。息子たちがおらのために庭を改造してくれてな。おかげで日中は暇をしなくて済んでるだ。キャベツやら白菜やらきゅうりやらを育ててるよ。だがまあ、集落でやるのとは勝手が違って、最初の頃は苦労しただよ」
「そうなのかい?」
「ああ。きっと海に近すぎるのがいけねえんだろうな。潮風が作物にとってよくねえんだろうよ」
ランチは吟子さんの孫がつくったパスタだった。緑色のどろどろとした液体が麺の上からかかっていた。ぼくらは家のなかには入らず、ほかにひとの気配がしない庭で食べた。吟子さんが和食以外の食事を口にするのは初めて見たので、この日またしてもぼくは驚きで目を見開いた。
ぼくらは集落にいた頃と同じように、庭先に並んで腰かけ、気の済むまでおしゃべりをした。ぼくが集落を出てからのことを彼女は知りたがった。吟子さんが現在どのような暮らしをしているのかをぼくは知りたがった。彼女は相変わらず週に一度は自分の運転でパチンコへ通っているみたいだった。慣れない店舗では勝てる頻度も下がるのだとぼやいていた。娘夫婦とは良好な関係を保っているようで、食事は家族そろってテーブルにつくのがお約束だった。彼らが休みの日には近くの港からフェリーに乗って、島へ散策に出かけることもあった。吟子さんははじめ、海が怖かったらしい。ずっと閉ざされた空間のなかで生活をしていたのだから無理もない。フェリーに乗っても、いつ転覆するんじゃないかと気が気ではなかった。だがこの庭からは海が見える。畑仕事の合間に首を巡らせば、視界には青い水面。少しずつ、海に囲まれた生活にも慣れていったみたいだ。
時間は矢のように過ぎていき、この地域にも夕暮れが訪れた。集落にいた頃ならば、すでに太陽は山の向こうに沈んでいただろう。だがここならば、まだいましばらくはこの時間をつづけていられる。庭の端に設えられた柵からぼくらは身を乗り出していた。空に浮かぶ雲は赤く染まり、穏やかな風が海面を波立たせていた。対岸には見渡す限りに陸地が広がっている。少なくとも、その点はぼくらの故郷と共通していると言えた。
「こうして大輝くんが立派になった姿を見せてくれて、おらはうれしいだよ」
吟子さんがくわえた煙草からは薄い煙が立ちのぼっている。
「ずっと気にかかっていたんだ。元気にやっているか、怪我や病気はしてねえかとな。ところがこうしてわざわざ、おらなんかに顔を見せにきてくれた。大輝くんはおらの誇りだよ。だれに会わせたって恥ずかしくねえ」
「ぼくも吟子さんが元気そうでよかったよ」
ぼくは夕焼けに向かってつぶやいた。
「ほんとうを言うとな、大輝くんはおらたちにいい感情を持ってねえんじゃねえかと思っていた」
「どうして?」
「なぜならおらたちは大輝くんのためになにもしてやれなかったからだ。そうするべきだったのに、ただ見ていることしかできなかった。自分の不甲斐なさを悔んだものだよ」
「吟子さんがなにかを悔む必要なんてないよ。だれにも、どうにもできないことだってあるんだから」
吟子さんは首を横に振った。
「それでも、おらたちは恨まれたって仕方がねえよ。おらはそう思うだ。大輝くんが集落を出ていくと聞いたときに、まっ先におらが考えたのはそのことだ」
海猫が島の上空を緩やかに舞っていた。定期船が汽笛を鳴らし、水面を滑って港の境界へ入った。船から立ちのぼる蒸気が、風に吹かれて霞のように散った。太陽が水平線に沈み、空が最後の力を振り絞って赤い夕陽を陸地に降りそそいだ。やがては息が絶えたように夜が訪れる。ぼくらは暮れてゆく空を暗くなるまで眺めていた。
帰る間際に、吟子さんがぼくの右手を両手で包んだ。彼女が離れてから手の平を開くと、そこにはぴかぴかに光る五百円玉硬貨がのっていた。
「吟子さん、ぼくはもう子供じゃないのに」
笑いながら、そう言った。
「いいからとっておけ」
吟子さんは優しくぼくの二の腕を叩いた。
「おらみたいな老いぼれよりも、大輝くんみたいな人間にこそお金は必要になるだ。おらが好きでやってることなんだから、大輝くんは気にせずに受けとればいいんだよ」
泊まっていけ、と勧められたけど、すでに近くのキャンプ場を予約していたので断った。ぼくは車に乗りこみ、スターターを押してエンジンをかけた。ヘッドライトが吟子さんの小さな影をまぶしく照らした。ギアをバックに入れ、静かに車を発進させた。ブレーキを踏み、窓を開けて吟子さんに別れを告げた。また会う約束はすでに交わしていた。つぎに会うのがいつになるかはわからないけど、集落で顔をあわせていたときのように、気軽に再会できるだろう。丘をくだり、車の列に合流して、海沿いを東へ向かった。ふと見上げると、丘の上で小さな人影が、室内からの光を浴びてぼんやりと柵のそばに浮かびあがっていた。夜をその背中に背負っていた。人影は木々に隠されてぼくの姿が見えなくなるまで、その場から動かなかった。
❄️2
夕食のあと、和室でテレビを見ながら四人はくつろいでいた。ぼくの目の前には湯飲みに入った緑茶があり、残りの三人はグラスの縁まで泡立つビールを飲んでいた。酔いでほんのり顔を上気させながら祖父が正志さんに尋ねた。
「女木内の方では今年の団栗はどんな具合だね? 来年は子熊が山ほど生まれるだろうか」
正志さんはグラスを傾けてごくりと喉を鳴らし、頷いた。
「うん。どうやら今年は山の実りが去年よりも豊作になりそうだ。そのおかげもあってか、里までおりてくる成獣も少ないし、山にある蜂蜜の農園が荒らされることもなかった。もしかすると、今度の冬は子熊がたくさん生まれるかもしれねえだよ」
鈴木正志は祖父の弟で、女木内に住む猟師だった。兄の丸顔とは対照的に、あごは細く、ほおは痩せて皮がぴんと張っていた。長年眼鏡をかけつづけていて、鼻あてやフレームの跡が表皮に刻みこまれていた。その顔のつくりからは祖父や兄さんほどの柔和な印象は受けない。秋や春の猟期には愛用のライフルを背負って山々を駆け巡り、兎や山鳥、熊などの獲物を狩り、旅館や料亭などにその肉を卸した。集団でおこなう巻き狩りには参加せず、山にはひとりか祖父を伴って入った。だからもしも狩りに成功したならば、仲間と獲物を分けあう必要はほとんどなかった。前の年の秋に祖父と二人で撃ち殺した熊の解体作業は我が家の前でおこなわれた。そのときに切りとって乾燥させた熊の胆を、それから二週間後に見せてくれたことがある。
「熊の胆は江戸時代の頃から巷でも万能薬として扱われてたんだ」
と正志さんは言う。
「こいつは風邪や熱にはもちろん、腹痛や二日酔いにだって効く。砂粒くらいの欠片をいくつか飲みこめばたちまち効いてくる。財布にでも挟んでおけば出かけた先でも飲める。医者にかかる必要なんてねえんだ。むかしは買い手も多くてよく取引されていたんだが、法律が変わって薬として売れなくなってからはその数も減った。だがいまでもほしがる人間はいるだよ」
求める人間がいるならば、正志さんは喜んで取引に応じた。彼の言によると熊の胆は江戸時代において、その希少性と優れた効能から、金とまったく同じ値段で取引されていたらしい。正志さんはいまでもその相場を採用していた。熊の胆をほしがる客に対して、金とまったく同じ値段を要求した。ひとつ十万円近くする黒い塊を、いったいだれが買い求めるのだろうと疑問に思っていたが、意外にも買い手がないということはないらしい。それには正志さんが商売上手だという要素も混じってくるのだろう。彼は生涯一度も結婚したことはなく、独身を貫いていた。二十歳の頃から女木内で長いひとり暮らしをつづけていた。この地方の生活にしては贅沢なものだったといえるだろう。彼は精力的に働いてお金を稼いだし、養わなければいけない家族もいなかった。町のバーの女主人がロマンスのお相手だという噂も流れていたけれど、真偽のほどはわからない。ぼくの意見を言わせてもらうならば、その情報は疑わしいように思う。彼が一度、飛鷹のスーパーマーケットでレジの女性と話しているのを見たことがある。二十代半ばの若い女性だった。おそらく学校を卒業しても、地元に背中を向けなかった貴重な例のひとつだったのだろう。正志さんはレジの前で、どうやら返してもらったお釣りの金額が間違ってるようなことを、もごもごとつぶやいていた。女性とは目もあわせようとはせず、いつもの活気もなかった。耳元が真っ赤に染まっていた。レジの女性も言葉を聞きとれなかったのか、体を寄せて何度も聞きかえしていたから余計に始末が悪い。結局その場にいあわせた兄さんが助け舟を出したけれど、それがなかったらどうなっていただろうか。正志さんがまともに言葉を交わせた女性は、子供を産んだ既婚者とお年寄りくらいだった。バーの女主人とのロマンスなどなかっただろうとまでは言わないが、彼が女性を口説き落としたり、言い寄られたりしている場面を想像するのは難しい。正志さんのような男性はこのあたりでは特に珍しくもなかった。
話が途切れたので、ぼくは前のめりに正志さんの顔を見て尋ねた。二人の話をいつまでも聞いていたかったのだ。
「餌が多いと、子熊がたくさん生まれるの?」
「ああ、そうだ」
と彼は真剣な顔でこたえた。
「熊の交尾期は六、七月あたりだが、秋に充分な栄養を蓄えた個体だけが妊娠するように体ができてるんだ。熊は冬眠の間に子供を産む。よくできた仕組みだで。来年の春には個体数が増えているかもしれねえな」
「一昨年も団栗や栗がえらい豊作の年だっただ」
と祖父が言った。
「一年前はそうでもなかった。ここ十年ぐらいは一年ごとで、交互に豊作と不作の年がつづいてるだな」
正志さんは頷いた。
「ちょうど十年ぐらい前にでかい台風がこのあたりを直撃しただろう。雷が山に落ちて、何本もの木が黒焦げになって途中からぽっきりと折れた。おかげで林道の整備が大変だっただ。あれを境に森が一変したような気がするだよ。兎の数は減るし、逆に熊の数は明らかに増えた。あいつらは杉の樹皮を噛んで傷つける。なんでそんなことをするのかはわからねえが、あれじゃいい木が枯れてしまうから勘弁してほしいもんだよ」
ここで正志さんはビール瓶をつかみ、傾けて中身を空いたグラスにつ注いだ。兄さんのグラスは先ほどからあまり減っていなかった。正志さんは大きな声で尋ねた。
「どうした、宗次郎? 今日はずいぶんと飲むのが遅いじゃないか。いつもより口数も少ないし、なにかあったのかね?」
兄さんは首を横に振ってこたえた。
「なんもない。ちゃんと聞いているよ」
「こいつ、最近はよくこうして物思いに耽っているだ」
と祖父が言った。
「例の女の子が東京に帰ってからずっとこうなんだ」
ぼくは咎めるように祖父を見た。
「そんなんじゃねえ」
兄さんは静かに言った。
「おれはただ、お父たちの話に耳を傾けていただけだよ。一生懸命話を聞いていると、しゃべるのはなかなか難しいものなんだ」
「そいつはうまくねえな」
正志さんは祖父の言葉にこたえた。
「とうに済んでしまったことをくよくよと悩むのは、だれにとってもよくない。特に、終わった恋をずるずるとひきずるのはな」
兄さんはなにも言わなかった。
「若い男女の関係なんぞ、その大半がいっときの気の迷いだ」
正志さんは慰めるように言った。
「働き盛りだってのに時間を無駄にするのはよくないぞ、宗次郎。そういうときはな、無我夢中になって仕事に打ちこむのが一番いいんだ。いやな気持ちを労働で覆い隠すんだ」
彼は右の手の平で左手の拳を包んでみせた。
「そうすりゃ、いつのまにか綺麗さっぱり忘れ去っているもんさ。おらたち生きている人間は未来のことを考えなくちゃならねえ」
「未来?」
兄さんは怪訝そうに聞きかえした。
「そうだ。自分の人生をどんなふうに生きてゆきたいか。十年後、二十年後、それから老後の自分はどんな生活を営んでいるのか」
正志さんは酔った目で兄さんを見た。
「いまのうちに先のことは決めておかないと、いざそのときがきたら、おろおろして時間を無駄にするだけだ。決めるのは、はやければはやいほどいい。こうありたいという自分を思い描いておけば、その分、理想に近づけるんだ。人間はそういうふうにできてるんだよ」
「ふうん、そういうものかね」
正志さんは口元へ笑みを浮かべて頷いた。
「ひとの未来を形づくるのはひとの意志だ。だから意志は強く持たねばならねえ。最近の若いもんは一度口にした言葉をすぐに翻すからよくねえんだ。それじゃあ未来がぼやけちまう。自分がなにをしたいのかもわからねえようじゃ、社会からも信用されねえよ」
「おれは焦って早計になるのは違う気がするよ」
しばらくしてから、兄さんは落ち着いて言った。
「おれには人間が叔父さんの言ったような強い生きものだとは思えないがな。願望なんてもの、ちょっとでも風が吹いてしまえば根こそぎ持っていかれる。願望ごときで人生が左右されるとは思えないんだよ。ここ最近のおれの人生は、襲いかかってくるものに対処するだけで時間が過ぎてゆく。好き勝手に振りまわされて、ただ必死にしがみついているだけだ。先のことはあまり考えてねえ。自分のことがそれほど大切だとも思えねえ。だからといって余裕をぶっこいてるわけでもねえんだ。おれはおれなりに一生懸命生きているつもりだ。悩んで、血反吐を吐きながら生きているつもりだ」
「それじゃあいけねえな、宗次郎」
正志さんは喉を鳴らしながら酒を飲んだ。
「鉄彦のやつもお前と似たようなことを言っていたが、いまあいつが生きているのか、どこかで野垂れ死んでるのかもわからねえ。なあ、兄貴?」
「ああ、そうだな」
と祖父は頷いた。
「鉄彦さんというと、お父たちの弟さんかい?」
「ああ」
祖父はふたたび頷いた。
「ここ何十年も音沙汰なしだ。どこでなにをしているのかもわからねえ」
「生きているにしても、よほどの苦労をしているに違いねえよ」
正志さんは遠い目をした。
「あいつはおらたちが童子の頃からまわりとは違ったんだ。無口で無愛想で、目つきが悪かった。たまにしゃべったと思ったら、言っている内容が目まぐるしく変わるんだ。地元で親父の跡を継ぎたいと言ったかと思えば、今度は岡山まで行って、日本刀の鍛冶職人になるなんて突拍子もないことを言い出すんだ。おらたちはずいぶんと振りまわされたもんさ。次第にだれもあれのしゃべることに注意しなくなった。だれもあいつのことを信用しなくなった。親父やお袋でさえ手を焼かされていたよ。あいつはおらたちとはどこかが違っていただ。いっしょに住んでいたのに、いったいどうしてあんなふうに育ったのかはわからねえ。結局、あいつは高校を卒業してから東京の企業に就職することになった。三月の末に、集落の若者たちが汽車に乗って運ばれていくのを家族で駅から見送ったよ。いくつもの家族がみんなで並んで、汽車が見えなくなるまで手を振っていた。風にたなびく白い蒸気が林の向こうに消えていくと、おらは気持ちがほっとするのを止められなかった。ようやく鉄彦のやつも自分の居場所を見つけて、国に人生を捧げる気になったんだと、ひそかに胸をなでおろしたもんさ。ところがそれから一年が経って、鉄彦のやつから実家に連絡があった。あいつは言うんだ。仕事はもう辞めた。これからは友人たちと新しい商売をはじめるってな。親父もお袋も、自分の耳が信じられねえみたいだった。鉄彦が就職した企業は、いまはもう潰れちまったが、当時は知らないひとのいない立派な会社だった。二人とも息子のことで鼻が高かったんだろう。だれかれ構わず自慢していたよ。それなのに就職してからたったの一年で辞めちまうだって? あれだけ苦労してつかんだチャンスだってのに? 聞くところでは当時ここらで働いていたおらや兄貴よりも、二倍以上のいい給料を鉄彦はもらっていたんだ。そのまま六十歳まで勤めあげれば、老後の心配をしなくても済むほどの退職金をもらえた。生活に不安を抱くこともなく、安定した生活を送っていけたはずなんだ。おらたちはあいつの心配なんてしてなかった。順調に、追い風に吹かれて生きていると思ってたんだ。だから鉄彦が電話をしてきて、会社を辞めちまったなんて言うと、親父と喧嘩になった。お前はもううちの息子じゃねえ、二度と帰ってくるなって、親父は受話器に向かって怒鳴っていた。お袋は泣いて悲しんでいた。鉄彦は末っ子ということもあって、二人にはよくかわいがられていたんだ。自分の両親を悪く言いたくはねえけど、少し甘やかしすぎたんでねえかとおらは思う。それ以来、鉄彦のやつから連絡をしてくることはなくなったんだ。あれからあいつがどういう人生を送っているのかわからねえ。仕事はつづけているのか、飢えていやしねえか、どこかでひとさまに迷惑はかけちゃいねえか。いずれにせよ、山ほど苦労しているのは違いねえよ。友達付きあいもあまりいいやつじゃなかった。ひとの縁を大事にしないやつは周囲から見放されて当然だ。あいつは孤独が好きだったんだ」
兄さんはなだめるように言った。
「でも、もしかしたら奥さんにも子宝にも恵まれて、孤独じゃない人生を送っているかもしれない。大金持ちになっているかもしれない」
「どうだろうな。とてもおらにはそう思えねえけどな」
正志さんは口元に笑みを浮かべた。
「どうあがいたって、ひとはひとりでは生きていけない。周囲の助けがあって初めて人間らしいまともな生活を送れる。鉄彦が社会のペースにあわせて歩んでいけたとは思えねえんだ。なあ、兄貴?」
祖父はしばらく考えたあと、つぶやくように言った。
「一度、鉄彦のほうから連絡をくれたことがある」
「へえ、そいつは初耳だな」
正志さんは目を見開いた。
「どんな連絡だね?」
「結婚をしたんだそうだ。少なくとも、子供がひとりいる。たった一度きりの連絡だったから、そのあとのことはわからねえ。三十年くらい前のことだ」
正志さんは聞こえないくらいの声でぶつぶつとなにかをつぶやいた。
「鉄彦はおらたちとは違ったんだ」
祖父は言った。
「あいつのことは考えたって、おらたちにはわからない。むかしっからそうだった。いま思えば、一谷は鉄彦に流れていた血を色濃く引き継いでいたのかもしれねえ」
ここで祖父はぼくに目を向けた。酔ってはいたけれど視線はたしかだった。
「二人には似たようなところがある。うちの家系には時々そういうのが現れるのかもな。一谷も子供の頃からなにを考えているのかわからなかった。そして結局、おらたちには見えないものを求めてこの地を出ていっちまうんだ。とにかく、おらは鉄彦も一谷も幸せに暮らしていればいいと思うよ」
先に風呂へ入ると言って正志さんは席を立った。ぼくらは三人で無言のままテレビを見ていた。画面の向こうではバーのスツールに座ったスーツ姿の男性が、焦点のあわない目で虚空を見つめながらウィスキーの入ったグラスを仰いでいる。ぎりぎり耳へ届くくらいの小さな音量が流れていた。
ぼくは緑茶を飲みながら、湯飲みの陰から兄さんの顔色をうかがった。たしかに祖父の言うとおりで、朱美さんがいなくなってから、兄さんは物思いに耽ることが多くなっていた。ふとした瞬間に彼を見ると、口を閉ざし、目は遠い場所を見ていることがあった。兄さんがなにを考えて、なにを感じているのかはわからなかった。以前は彼を理解するのは容易いことのように思えたけど、少しずつ、ベールの陰に隠れていくように、兄さんは自己の中心へと沈んでいった。だれも手の届かない場所へと。
祖父がからのビール瓶とグラスを持って台所に引っこむと、ぼくはそれ以上口を閉じていることができなかった。
「兄さん。次の休み、また釣りに行こうよ。最近は全然連れていってくれないじゃない」
兄さんはぼくに視線を向けた。泥沼に浸かったかのような、遅々とした動きだった。
「大輝よ。すまねえ、つぎの休みはいけないよ」
「どうして? 用事でもあるの?」
兄さんはゆっくりと首を振った。
「そういうわけじゃない。用事なんてないよ。ただ、これはおれの問題だ。それが解決するまで、おれはこの場所から身動きがとれないんだ」
ぼくは項垂れ、すでにからになった湯飲みの底を見つめた。緑色をした茶の滓が、わずかに残った水滴のなかを泳いでいる。自分の顔がカーブを描く陶器に映りこんでいた。下唇を噛み、必死に涙を堪えていた。
気まずい沈黙がしばらく流れたあと、どこまでもつづくシンメトリーのような声で兄さんが言った。
「なあ、大輝よ。おまえにはほんとうにすまねえと思う。だがいまのおれにはこれくらいのことしかできないんだ。仕事をしているときも、自分の部屋で過ごしているときも、やってることはおんなじなんだ。遠い春の、あの日からずっと・・・」
そうか。兄さんはあの春に、いまでも囚われつづけているのだ。
「おれはずっと、考えつづけてきたんだ」
兄さんはからになったグラスを硬く、手の平に収めていた。
「生まれて初めてのことだから、自分の変化に自分で驚いているよ」
ぼくは顔をあげて兄さんを見た。中身は空なのに、彼はもう一度グラスを仰いで、すでにないものを飲み干そうとした。
「なあ大輝よ」
兄さんがぼくを見た。一瞬だけ二人の視線が絡んだあと、目をそらし、彼は再び自己の世界に身を隠した。
「朱美さんがいなくなってから、おれは思うんだ。なにかを愛することができるのは、愛された経験を持つ人間だけなんじゃないかって。おれたちにできるのは、ただもらったものを返すことだけなんじゃないかって」
ぼくは兄さんを固く見つめつづけた。兄さんはつぶやいた。
「おれはたしかめたいんだ」
❄️3
集落を飾り立てていた黄金色の稲穂は、夏が終わると田植えのはやかった田んぼから順番に収穫された。大半の田んぼでは箱のような形の不格好なコンバインがエンジン音を轟かせ、収穫から脱穀までの作業が進められた。大きな袋に入れられた籾は男たちの手によって軽トラックの荷台に積まれた。それらは女木内にあるライスセンターまで運ばれ、全身から熱を発する大型の機械で乾燥、精米、選別、出荷までまとめておこなわれた。田んぼには綺麗に整列した切り株が取り残され、北から飛来した白鳥たちが落ち穂をついばみに訪れた。だがむかしながらの手法をとる農家もあった。集落を歩いていると、収穫された稲穂が田んぼの中心で稲架にかけられ、干されている光景が見られた。この天日干しは籾を乾燥させるために二週間ほどの間つづけられた。柱に渡された梁に、束になった稲穂が逆さになってぶら下がっている。稲架にのりきらない分は、道端の白いガードレールにずらりと被せて干された。集落で見られる毎年の光景だ。充分乾燥したのちは穀粒のみ絞りとられる。残った藁は畑に植えて害虫や雑草の侵食を抑えたり、家畜の飼料になったり、いまは履くものも少ないが、草履の材料になったりする。
集落で最後の収穫が終えられた頃、女木内の自宅にある浴室でひとりの男性がシャワーホースを巻いて首を吊った。まだ三十歳にもなっていない若者で、家には両親と奥さん、三歳になる娘がいた。遺書は遺されていなかったので、はっきりとした原因や理由はわからない。その知らせにはだれもが驚かされたみたいだった。男性は結婚をして家族にも恵まれ、仕事は妻と同じく役所勤めで金銭的な余裕もあった。その男性がだれかに、家族にさえ悩みを相談したという話はなかったし、妻や両親と不仲でもなかった。村の人間はいっせいに首を傾げた。前途有望な若者だったのにどうしてこんなことになっちまったのかね。不満なんていっさいねえだろうに。残された家族はいったいどうする。娘はまだ小さいし、両親は歳をとっている。あれじゃ奥さんが不憫でならねえだよ。
その男性と兄さんは知りあいだったらしい。夕方になると、祖父と兄さんは黒い喪服を着て女木内の寺まで出かけていった。ぼくは我が家に取り残され、ひとりで冷めた豚汁と冷めたご飯を食べた。数時間後に帰ってきた兄さんは疲れ果てた様子で椅子に座り、あの自分の内に閉じこもるような目でビールの入ったグラスを傾けた。そんな彼を遠巻きに見守っていると、兄さんはひとり言をつぶやくように言った。
「なあ、大輝よ。ままならねえもんだな」
ぼくはどうすることもできず、それを悔みながらも兄さんの縮んだ背中をその場に残し、そっと二階の自室に引きあげた。
❄️4
吟子さんの家の近く、川にかけられた石づくりの橋がある。欄干の金属は錆びて赤みがかっている。車一台がようやく通れるほどの幅しかない。対岸にはイタドリやすすきに覆われた広い丘がある。だれの土地というわけでもなく、犬の散歩や、つかわなくなった肥料を捨てるのに利用されていた。
その日、ぼくと祖父と兄さんはその丘を訪れていた。砂利敷きの車道には我が家の軽トラックがとめられていて、いつでもそこから荷物を取り出せた。このあたりでは八月も半ばになれば、そのあとの気温は低下の一途を辿る。すでに十月だった。半袖では過ごせないほど肌寒かった。兄さんと祖父は草刈り機で一帯の雑草を刈っていた。長靴を履き、手には滑り止めのついた軍手をはめている。祖父の目論見ではこの丘をすべて、観光客を呼び寄せるためのわらび畑にしようというのだ。その案は我が家の内においてのみ発言されていた。集落のほかの人間に言っても相手にされないであろうことは、祖父もどこかで理解していたのかもしれない。兄さんは手伝いのために祖父に連れてこられた。
「宗次郎。どうせ家にいてもなにもしないのだろう? ならちょっぴりおらの手伝いをしてくれや。たまには集落のために貢献するのも悪くねえだろう」
この頃、兄さんは山へ入る頻度が減っていた。休みのたびに釣りに出かけていた習慣は、だれにもこたえられない場所へと消えていた。最近では家の自室で過ごすことが多くなっていた。集落の通りを物思いに耽りながら歩いている兄さんを何度か見かけたことがある。彼は頻繁に立ち止まっては、川が白波を立てて過ぎ去っていくのを眺め、草葉の陰から囀り渡る小鳥の鳴き声に耳を傾けた。そんな彼を目にすると、ぼくはなるべく気づかれないように、足を忍ばせてその脇を通りすぎた。彼の目にぼくが映っていないのを見るのがどうしようもなくいやだったのだ。
草刈り機のエンジン音が鳴り響いている間、ぼくは丘の頂上から集落を見下ろしていた。この場所は我が家よりも高い場所に位置していて、視界が開けていた。山々では楓やナナカマドなどの広葉樹が赤く色づいていた。集落に並ぶ栗の木の足元には、熟して落ちた栗の実が棘に包まれ、斜面に茶色い斑点を描いていた。稲穂はすでに収穫され、田んぼのまん中に藁の束が山となって積まれていた。家々の屋根はありとあらゆる色に発色している。雪が滑りやすくなるために、それぞれ自分の手で屋根にペンキを塗るのだ。雪囲いはすでに完了している家が多かった。一階の窓の前を柱に渡された木の板が覆い、積もった雪がガラスを割るのを防ぐ。庭の木には雪が積もらないよう、丈夫なロープが傘のように梢から梢へ渡されていた。我が家では冬への備えは終わっていた。ペンキ塗りも雪囲いも、祖父がいつのまにかひとりで片づけていた。
「大輝よ」
気づくと兄さんが背後に近寄ってきていた。
「おれたちは少しの間、休憩する。向こうに缶コーヒーがあるからいっしょに行って飲もう」
ぼくは頷いた。
「ねえ、兄さん。今年は雪が降るの、はやいかな」
「どうだろうな」
兄さんは首を傾げた。
「あと一か月もすれば降りはじめるとは思うが、お天道様の気分次第ではもっとはやいかもしれない。今年はカメムシが顔を出すのがはやかったからな。そういう年は、雪が降るのもはやかったりするんだ」
「今年はあまり積もらないといいね」
「ああ、そうなるといいな」
そのあとは黙って祖父のいる場所へと戻った。祖父は三人分の缶コーヒーを持ってぼくらを待っていた。ぼくらは並んで、刈られたすすきの穂でできた絨毯に座り、谷間を見下ろしながら缶コーヒーを飲んだ。ぼくらより高い場所にひとはいないのだと思って、不思議と気分が高揚したのをおぼえている。やがて三人が缶の中身を半分ほど飲み終えた頃、祖父が口を開いた。
「こうしたがんばりが実ってくれればいいなと思うよ。この山奥に、こんないい土地があるんだ。だれにも知られないでいるのはもったいない」
ぼくらはなにも言わず、冷たいコーヒーを少し飲んだ。祖父が言った。
「わらび畑なんて、全国どこを探しても、そうそう見かけたりしねえだろう。一回五百円で採り放題だ。我ながらいいアイデアだと思うんだ」
兄さんはなにも言わず、缶に口をつけたまま天を仰いだ。ぼくと祖父もつられて見上げると、曇り空を背景に、上空で一羽の鷹と黒い影が、空気中を円を描くように舞っていた。目を凝らすと黒い影はくちばしの太い鴉だった。二つの航跡は徐々に近づきつつあり、互いに交わるのは避けられないことのように思えた。やがて黒い影が針路を急激にそらし、くちばしを大きく開け、速度を上げて鷹の翼の根元へと潜りこんだ。鷹は衝撃に体勢を崩し、二羽はもつれあって回転した。体が触れあっていたのは一瞬で、すぐに二羽は翼をばたつかせて離れた。黒い影は空中で体勢を立て直し、しわがれた叫び声をあげながらふたたび突進した。鷹は鉤づめを差し出して応戦し、鴉はくちばしで相手の急所をとらえようとした。二羽の翼は絡まってひとつになった。ふたたびもつれあい、高度を下げながら二つの影は木々の向こうへと姿を消した。
「ここにひとはこねえよ」
兄さんがつぶやいた。
祖父が静かに兄さんを見た。
「どうしてそう思う?」
「どうしてだろうな。ただ、若い人間を呼べるのは若い人間だけじゃないかって、そう思ったんだ」
祖父は目をそらし、七つの家が建っている集落を見つめた。そこでは無数の廃墟が生きている家の間に生まれた間隙を埋めている。
「宗次郎。おまえ、最近おかしいぞ」
祖父は言った。
「組合の連中とも話したが、仕事中もどこかうわの空で、上司の指示をろくに聞いてねえみたいじゃねえか。おらはいつかおめえが大怪我でもしないかと心配だよ。なにかあったら、お前に仕事を紹介したおらの立場はどうなる? お前だって恥をかきたくはねえだろうに」
兄さんは無言で頷いた。
「この間の選挙にもいかなかったじゃねえか」
祖父はつづけた。
「あのときはなにも言わなかったが、投票権のある人間がそんなことでいいのかね? いったいなんで投票しにいかなかったんだ?」
「なんもねえ。ただおれはもっと考えたかったんだよ。おれはいままであまりにも考えが足らなすぎた。その理由と原因も知らずに行動を起こすのは違うと思ったんだ」
祖父は深いため息をついた。
「考えてばっかで腹を満たせるのなら苦労はねえ。宗次郎。おらはお前が心配だよ。そんなことではいまに足元を掬われて、とても引きかえせない道に迷いこんじまうだろう。人生には考える必要のねえことだってあるんだ。おらにはお前がわからねえよ。それにな」
ここで祖父は少し言葉に力をこめた。
「ここへひとがこないなんて、そんなことは言わせねえぞ。おらはひとを呼ぶと決めたんだ。それが叶うまではどんな努力や苦労も厭わない。何人もとは言わねえ。この地に永住してくれとも言わねえ。だがおらたちの日常に少しくらいの刺激をもたらす出会いを望んだっていいじゃねえか。それが叶うまでは、おらは立ち止まったりはしねえ」
「ならお父はお父の好きにすればいい」
兄さんは立ち上がった。
「それでいいさ、おれは応援するよ。けど、これからはおれもおれの好きにする」
祖父と二人で、兄さんの小さくなってゆく背中を見送った。夜が近づく気配が聞こえる。気温は下がりつつあった。祖父がこたえを求めてつぶやいた。
「なあ大輝よ。あいつはどうなってしまうんだろうな。この集落はどこへ向かっているんだろうな」
ぼくにわかるはずもなかった。
❄️5
祖父に連れられ、木彫りの像の設置を手伝ったことが何度もある。軽トラックの助手席に乗り、祖父があらかじめ決めていた目的地に向かう。設置場所のすぐ横に車をとめると、ぼくらは像の端と端を持ち、息をあわせて荷台からゆっくりと下ろす。像の位置と向きを細かに調整している間、祖父はぼくに言う。
「いつか、どこかでこの像のことが話題にのぼって、巷に噂が広まる日がくるかもしれねえ。そうすりゃ、この地に興味を持って訪れる人間も増えるかもしれねえ。おらはな、大輝よ、かつてほどとは言わないが、この集落が若者たちでにぎわえばいいと思うよ。おらたちが若かった頃のようにとは言わねえ。むかしは家を建てるにも、集落中の人間が設計から建設まで協力したものだ。作業をした日は毎日酒盛りをしたし、家が完成したらみんなで祝い事もした。あの頃のようにとは言わねえ。ただひとりでもいいから若者が増えればいいと思うよ。そうすりゃ、宗次郎も大輝も、退屈することがねえものな」
集落からほかの住民が立ち去ったあとも、祖父は木彫りの像を彫ることをやめなかった。祖父が畑の横で額に汗の玉を浮かばせ、舞い踊る木片の中心でチェーンソーを巧みに操っている場面を、容易に想像することができる。久方ぶりに集落を訪れると、木々の足元や廃墟の軒先に、見おぼえのない像が立ち尽くしているのにぼくは気づいた。そう、ぼくはかつてこの地で暮らしていた頃に存在していた像のことは、その横顔から、表情に浮かぶ心持ちや、姿勢に読みとれる手癖まで、鮮明に記憶していた。だからぼくにとって見慣れない像は、ぼくがこの地に背中を向けてからの、祖父の生の証でもあった。祖父の生き様が、色彩の奔流となってぼくの目に飛びこんできたのだ。ぼくは日がな一日を集落を歩きまわることで費やした。とうに廃線となった鉄道の、レールや枕木の持ち去られた線路を辿りながら、祖父がひとりで像を設置し、その角度や姿勢を調整している姿を思い浮かべる。喉元になにかがこみあげてきて、ぼくはしばらく立ったまま動けなかった。集落の中心で木々の樹冠に縁取られた空を見上げ、陽が暮れるまで立ち尽くしていた。
我が家の前、石段をおりて道路を挟んだ向かい側。いまは何者もいないその空間に、かつて首の細い、二本足で立つ鹿がいた。奇妙に捻じ曲がった角を額につけ、艶があるはずの瞳は木目で濁っていた。いまはないその像のことをぼくは忘れていない。あれは冬も目前に迫った、ある夜のことだった。
ある日の夕食のあと、祖父と兄さんが大喧嘩をした。ぼくは二階の自室から扉をわずかに開いて耳を傾けていた。どうやら兄さんが祖父に黙って職場に辞表を提出したらしい。祖父は耳を塞ぎたくなるほど乱暴な言葉を吐いていた。兄さんの口調も激しかった。ぼくは扉をそっと閉じ、布団を頭から被って、なにもかもを心のなかから締め出した。
その日はうまく寝つくことができなかった。先ほどの喧嘩が、夜遅くになっても頭のなかでぐるぐると響いていた。深夜になっても布団の下でもぞもぞと体を動かし、さまざまな夢想に耽りながら寝がえりを打っていた。家のなかは静まりかえっていた。隣の兄さんの部屋からも物音は聞こえない。ぼくは諦め、とうとう布団から這い出すと、ハンガーにかかっていたダウンジャケットを羽織り、足音を忍ばせて階下に向かった。祖父は普段ならば寝ている時間だったので、電気はつけなかった。闇のなかを手探りで玄関に着くと、靴箱の戸を開けて、奥に仕舞われていた懐中電灯を引っ張り出した。どうせ眠れないのなら、祖父から話を聞いたことのある遊びでもしようと考えたのだ。家を出るときに、この時間ならばいつもは置いてある兄さんの靴がないことに気づいた。ぼくは特に気にすることもなく、音を立てないように玄関を出た。
外に出た瞬間、冷たい空気がほおを刺し、肺まで凍らせるようだった。真っ白い霧がおぼろな夢のように谷間を覆っていて、周囲の視界を狭めていた。ぼくは立てた襟にあごをうず埋め、懐中電灯を持っていないほうの手をポケットに突っこんだ。周囲に一本だけ立っている街灯の明かりは薄暗かったけど、懐中電灯のスイッチは入れなかった。家の前の石段をおり、山奥へと向かう方向へ歩いた。
我が家の裏手に、田んぼにつづく水路へ水を流しこむためのため池があった。斜面の上からパイプがおりてきていて、そこから湧水が水面に滴り落ちている。あたりは真っ暗で、頭上では霧の合間から冬の星々が瞬いている。ぼくは気配を殺してため池に近づいた。耳を澄ませると、かすかになにかが水面を叩く音が聞こえる。生きものの気配だ。ぼくは息を潜め、しばらく様子をうかがった。生きものたちがぼくの気配に気づく様子はなかった。それならばと、ぼくは懐中電灯を構え、親指をスイッチの上にのせた。
スイッチを押すと、熱を持った光線が一瞬で闇に閃いた。懐中電灯を振りまわすと、光は鋭利な刃となって夜を引き裂いた。一拍を置いて、けたたましい鳴き声が闇夜に響く。水面を翼が激しく叩き、外へ広がる波紋が光の隅に浮かびあがる。ため池に羽を休ませていたのは鴨の群れだった。彼らはぼくが光線で切りかかるたび、叫び声をあげながら逃げ惑った。それはパニックと阿鼻叫喚の渦だった。ぼくはため池の縁から身を乗り出し、何度も水面をなで切りにした。やがて一匹残らず獲物を池から放逐したあと、ようやくひと息ついて光の刀を下ろした。あたりに生きものの気配はなく、静けさが戻っていた。高揚した気分は、だが急激に萎んでいった。胸には動物を無為に痛めつけたという苦い罪悪感。ぼくは自分の鬱憤を罪のない生きものへぶつけてしまったことを後悔した。もしも自分が鴨の身になったら。そう考えた。彼らの恐怖や混乱を、自分のことのように思った。水気を持った寒さが服のすきまから忍びこもうとしていた。虚しい気持ちに肩を落としながら、懐中電灯のスイッチを切った。
とぼとぼとうつむきながら歩き、きた道を引きかえした。左手からは川のせせらぎが聞こえる。家の前、石段の麓へ辿り着こうというとき、この時間帯に耳慣れない音を耳にして、ぼくは立ち止まった。それはなにか硬いものと硬いものがぶつかりあう音。規則正しい間隔。ひとの気配だった。音は道路の反対側から聞こえるようだった。目を凝らしても、あたりに漂う霧でそこまで見通すことはできなかった。ぼくはもう一度息を潜め、足を忍ばせて道路を横切った。不吉な予感で思考が静止した。一本の杉の木の陰に隠れ、土手の上に立つ人影らしきものを見つめた。それがだれだったのかは判別できなかった。腕を上げ、振り下ろすたびに鈍い音が鳴る。そのあたりには祖父が彫った、二本足で立つ鹿の像があることをぼくは知っていた。やがて人影は片足を持ち上げ、勢いよく動かす動作をした。なにか重いものが土手を転がり、水飛沫をあげて川の水面に落ちた。人影はしばしその場に佇んだあと、背中を向けて霧の向こうへ消えた。
ぼくは待った。胸が締めつけられたように苦しくなって、しばらく呼吸するのを忘れていたことに気づいた。二分ほど経った頃に寒さでかじかんだ体を動かし、木の陰から這い出した。懐中電灯で足元を照らし、つま先で乾いた雑草を探りながら土手をおりた。川岸に立ち、周囲を見まわすと、なにか大きな塊が水辺に横たわっているのが見える。光をあてた。それは祖父の彫った鹿の像だった。首は裂け、角が折れた頭部は離れたところで流れにさらされている。冷たい目にはなにも映っていない。胸から尻にかけて、のみで削られたような無数の刺し傷があった。あまりにも生々しいその傷を見ていると皮膚の裏側をいじくられるようで、首筋に鳥肌が立った。声にならない悲鳴が喉元から漏れた。懐中電灯の光が、ぼくの意志とは関係なく、激しく振動した。ぼくは走り出した。
家に帰り、懐中電灯を靴箱にしまった。寒さと恐怖で足の感覚が失せていたために、靴を脱ぐのに手間取った。ぼくは屈んで靴紐に手をかけた。
「おかえり、大輝」
ぼくは顔を上げて声のするほうを見た。暗がりに、ぼうっと影が浮かんでいた。影はぼくのほうを向き、口のない口でしゃべっていた。
「こんな遅くにどこへ行ってたんだ?」
ぼくは先ほど霧のなかで目にした光景を思い出していた。影がぼくを見つめている。品定めをするように。
「いったい外でなにをやってたんだ?」
ぼくは渇いた喉を唾で潤し、声が震えないよう努めた。
「なんでもないよ、兄さん。眠れなかったから風にあたってたんだ」
「それにしたって、こんな遅い時間に外へ出るもんじゃないぞ」
「うん、ごめんなさい」
ぼくは兄さんが右手に持っているものへ視線を向けた。
「畑の横のベンチに座ってたのかね?」
「家の裏手のため池の方向へ行ってたんだ」
「寒かっただろう。なにか温かいものでも飲むか?」
「いらないよ。ぼく、もう寝れそうだから自分の部屋に行くよ」
「そうか」
影は次第に大きさを増していくように思えた。
「帰ってくるときに、なにかを見たかね?」
「なにかってなに?」
兄さんはしばらく黙ってぼくを見つめた。ぼくはうつむいて框の模様を眺めた。沈黙に耐えきれず、ぼくは靴を脱いで段差を上がった。人影の脇をすり抜け、二階へつづく階段に向かった。
「大輝」
ぼくは立ち止まって振りかえった。「なあに、兄さん?」
兄さんはこちらを見ずに言った。
「夜は冷えるから、ちゃんと首元まで布団を被って寝るんだぞ」
部屋に戻って布団に潜りこんだ。動悸ははやく、落ち着くまで時間がかかった。やがて眠りが訪れる頃になっても、隣の部屋にひとの気配は戻ってこなかった。
❄️6
次の朝。ぼくは聞き慣れたスーパーカブのエンジン音で目を覚ました。それは遠く隔たり、別れの音色を伴っていた。カーテンから透ける光で、空が冬の雲に覆われていることがわかった。ぼくは布団から起き上がり、数瞬だけためらったあと、一段飛ばしで階下へ駆けおりた。
玄関を出ると、納屋の前のスペースでカブが唸りをあげていた。兄さんが荷台にフックつきのゴムで荷物を結わいつけていた。彼は顔を上げてぼくを見た。
「おはよう、大輝。ここでこうしていれば、きてくれると思ったよ」
ぼくは少し離れたところで立ち止まり、小刻みに震えているバイクを見つめた。以前一度、集落にロードバイクに乗った若いバックパッカーが訪れたことがある。全国を巡り、日本列島を一周するのが目的の旅人だった。兄さんのバイクにはその旅人と同じくらいの荷物が積まれていた。
「どこかへお出かけするの?」
とぼくは尋ねた。
「ちょっくら遠いところへ行ってくるよ」
と兄さんはこたえた。
「今日も山に入るの?」
「いや、山じゃない。おれは山から遠ざかっていくんだ」
「それじゃあ、遠いところってどこ?」
「ここにいてはどうあがいたって辿り着けないところだ」
「いつ帰ってくるの?」
兄さんの目に悲しみの色が浮かんだ。
「ああ、大輝よ。お前を置いていかなければならないのが一番の心残りだよ。おれはもうこの地に帰るつもりはない」
兄さんはぼくから目を背けた。その先には命が潰えようとしているかのように静まりかえった集落。抱えきれないほどの重荷が、兄さんの強張った肩にのしかかっているのが見える。いままさに、ぼくの世界と彼の世界を分断しようとする、悪しき刃物が振り下ろされようとしている。
「いいんだよ、ここにいても」
ぼくは細分化された彼の背中へ縋るように手を伸ばした。
「ぼくは兄さんの味方だよ。もし兄さんを悪く言うひとがいたら、ぼくはそのひとの敵だ。だれだって許しはしないよ。だからここにいていいんだよ。ぼくをひとりにしないでよ」
鼻先を氷のように冷たいなにかがなでた。手を触れると、それは指先に名残惜しげな感覚を残して溶けた。ぼくらは空を見上げた。雲の縁から、白い雪が一片ずつ、ひらりひらりと風に翻りながら地上へ舞いおりてきていた。それらは木の梢、集落に立ち並ぶ木彫りの像、アスファルトの隙間に触れると瞬く間に雫へ変わった。
「なあ、大輝よ」
兄さんは雪が舞うようにつぶやいた。
「おれはいつまでも愛するこの土地で、愛する時間がつづけばいいと思う。心からそう思う」
兄さんは宙に手を差しだした。広げた手の平に、風に舞う雪が羽のように着地した。それは溶けて雫に変わり、その上からまた新たな雪が舞い落ちる。
ぼくらはこたえを求めてさまよい歩いている。ぼくにはわかった。彼がぼくを置いて、すでに手の届かないところへ行ってしまっていることが。ぼくは凍てついた冬とともに、この地に置き去りにされたのだ。
「なあ、大輝よ。お前がしてくれたことをおれは忘れない。だがおれは、たしかめに行かなければならないんだ」
これで何度目になるだろう。ぼくはまたしても、木々の合間に去っていく背中を見送った。残された集落は、山々に挟まれ、孤独に佇んでいた。ぼくはその場に立ったまま、目の前の空間を埋めていく白い欠片を見つめていた。太陽は分厚い雲に遮られ、地上に光は届いてこない。黒いアスファルトの上を、白い雪の膜が覆いはじめていた。
隣で声がした。
「あいつは行っちまったんだな」
ぼくは頷き、空を見上げた。悲しみが胸を衝いて、喉から静かなうめきが漏れた。まぶたが冷たさで凍るようだった。ぼくの肩や靴にも、冷たい雪が積もっていた。
「ねえ、じいちゃん。どうしてこんなことになってしまったんだろう? どうしてぼくらはこんなふうでしかいられないんだろう?」
そんな乱暴な問いに、祖父がこたえられるはずもなかった。
——完
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