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高砂義勇隊について|日本軍として戦った台湾の人々

少し前に、台湾人の友人に、「中国人に対してどう思うか?」と訊いてみた事がある。その時、彼は迷った挙句、「悪い感情を抱いているわけではないが、決して良く思っているわけではない。」と率直な気持ちを述べてくれた。

対して、日本人に対してどう思っているのかを尋ねたところ、「日本人は礼儀正しいし、とても親近感がわく人々だ。」と述べてくれた。

日本人である私を前にして、そのような言葉を述べてくれたのかもしれないし、もしかしたら「台湾人のアイデンティティの中に日本統治、日本文化が息づいていて欲しい」という【日本人の欲望】という色眼鏡を通して、彼の話を聞いていたのかもしれない。

日本ではあまり知られていない事実だが、第二次世界大戦中、台湾は日本統治下にあった為、台湾に住む人々は日本軍にも加わり各地で戦った。台湾の人々の中には「原住民」と呼ばれる、ポリネシア系の人々もエスニックグループとして存在する。彼らは、「高砂義勇隊」として編成され、東南アジアを転戦した。

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(実は台湾は多民族国家である。画像:【実は多民族国家】台湾人の内訳とインバウンド集客時における注意点。)

元々、森林での狩りに慣れ親しみ、夜目のきく彼らは、南方戦線に於いて重要な役割を果たした。

台湾では、この事実を、日本との関係を語る上では欠かせないファクターと見做しているにも関わらず、日本ではあまり知られていないことを私はとても残念に思う。何も台湾はタピオカやマンゴーかき氷が美味しいだけの国ではないのである。歴史的背景・文化的脈絡を抜きにして、手放しに「台湾って、いいよね〜」「台湾って親日国らしいよ〜」で終わる話ほどくだらないものはない。

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今回は、高砂義勇隊について改めて調査し、彼らにスポットライトを当てたい。

高砂義勇隊とは何か?

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(出征する高砂義勇隊。画像:台湾(烏來))

このセクションでは高砂義勇隊とはどういった経緯で設立されたのかを見てみたいと思う。

1896年に陸軍中尉であった長野義虎が台湾総督府軍務局に「義勇隊」なるものの編成を具申したことが記録として残っている。

また、台湾の原住民が日本に対して大規模な武装蜂起を行った霧社事件の際、陸軍大佐の服部兵次郎も高砂族の軍隊徴集方法を模索したことがあるようだ。

中村ふじゑ氏は、バターン半島の攻略作戦の際、当時の台湾軍司令部に所属していた本間雅晴中将が提起したという説を提示している(出典:中村ふじゑ「霧社蜂起から高砂義勇隊まで」『中国研究月報 (476), 1-13』一般社団法人中国研究所,1987年)。

それが具体的な実施に向けて強く推進されるのは、1937 年7 月に勃発した、盧溝橋事件の後であると考えるのが妥当であろう。その背景には、盧溝橋事件後の、皇民化政策の強力な推進によって台湾原住民に「日本人」という意識が広まり、大東亜戦争に原住民側も積極的に加わろうという姿勢がみられるようになったという点が存在する。

この機運の高まりを受けて、「武器を返還もしくは貸与しても、日本に対して反抗する可能性は低く、彼らを活用することに問題はない」と軍部が判断したと考えられる。

直接的要因は、日本軍がフィリピンのルソン島に上陸作戦を行った後、物資輸送が大きな課題として立ち上がった事を挙げることができる。そこで、道路や橋の補修、そして軍需品輸送という役目に対する原住民・高砂族への期待が一挙に高まったのである。

前述のように1937 年に日中間の決定的な亀裂によって、日本軍が中国への侵攻を開始すると、それに呼応して原住民への皇民化政策も徹底的に行われていった。

また、戦線の拡大に際し、台湾に在住の日本人が出征する時にあたって、出征兵士の見送りに原住民も駆り出された。

出征兵士の見送りには、広場や神社などに人々が動員されたようだ。また、“武運長久”とかかれたのぼり等を立てて、兵士を激励したそうである。

軍服に身を包み、歓呼の声に送られて戦場へ赴く兵士の姿は、かっこよくも映りました。そのうえ、中国への侵略戦争は、“東亜永遠の安定のための聖戦”であると宣伝されていたのです。悪いのは日本ではなく、シナなのだとも宜伝されていたのです。川中島の人たちも、わざわざ埔里や台中まで出かけていって、出征兵士を見送りました。そして出征兵士とその家族が涙を流しもせずに別れるのを見て、感動しました。これで日本の兵隊さんが強いのがわかった、大日本帝国の軍隊が、世界一強いのがわかったというのです。もちろん日ごろの教育もあって、こう言わせるのですが……。そして、“高砂族”であるために出征できないのが残念でたまらない、一日も早く立派な日本人となって、出征して、お国のために役立ちたいとまで、言わせるのです。出征兵士の見送りは、原住民の戦争協力に効果を発揮しました。教育所の児童が、出征していく恩師に血染めの日の丸の旗を贈ったという話も残っています。青年たちのなかには、駐在所に軍夫志願を申し出るものもいました。血でしたためた志願書を出すものもいました。こうしたことは、だれか一人がやると、たちまちほかの部落へ拡がりました。警察が思いきり宣伝してまわったからです。女たちは戦場の兵隊さんに送る慰問袋づくりに励みました。慰問袋の中には、なぜか褌を入れるのが流行っていて、若い娘たちが一生懸命兵隊の褌を縫いました。部落ごとに、戦地へ送った褌の枚数を競いあいました。

(出典:中村ふじゑ「霧社蜂起から高砂義勇隊まで」『中国研究月報 (476), 1-13』一般社団法人中国研究所,1987 年,pp5-6)

高砂義勇隊は軍事的必要性によって生まれたものではあるが、日本の皇民化政策の結果、台湾及び原住民の中で「我々も大日本帝国の一員である」という機運が高まったという要素は見過ごせないファクターである。

高砂義勇隊の任務

肝心の高砂義勇隊の任務であるが、高砂義勇隊は基本的には非戦闘員であった。歩兵銃などの武器は一切所持せず、日常生活のために蕃刀(原住民の用いる刀)を帯びるだけであった。

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(画像:1942 日本帝國最強叢林戰士)

その作業内容は武器や弾薬・爆弾、そして食料などの積載や運搬はもちろんのことながら、特に飛行機やガソリンの掩体、道路工事などを受け持った。灼熱の炎天下の中、「くる日もくる日も不平不満の一言半句すら訴えることなく、黙々として敢然任務に邁進」した。つまり、原則的に高砂義勇隊は兵士ではなく、あくまでも「非戦闘員」・軍夫であったということである。

しかし、ニューギニア戦線では、時として遊撃戦に投入された。潜入攻撃は遊撃戦の中でも最も困難であったが、高砂義勇隊のその類まれな勇気だけでなく、身軽な体さばき、暗夜でも見える目、鼻と耳の突出した敏感さ、それにジャングルを素足で歩き、音を立てないという原住民ならではの能力が活かされたという。

そして、現地部族と日本人との仲介役をしたのも高砂義勇隊であった。また、ニューギニア戦線において食料が絶対的に不足してくると、彼らが捉えた獲物や、木の実がとても重要なものとなっていった。末期には、人肉食が日本軍の間でも、高砂族の間でも横行したが、高砂族の献身的な働きにより敗戦まで生き延びることができた日本兵も少なくないようである。

戻った者の証言

この項目では、高砂義勇隊として出征した原住民たちや、それらの人々に関わった、日本軍の兵士たちの証言をみていきたい。

イヨンハバオ(加藤直一)氏の証言:彼は総督府の依託生として台北帝大の専門部で農林学を専攻した後、企業へと派遣される。そして、志願兵として海軍特別陸戦隊へ入隊する。その後、数々の修羅場を潜り抜け、帰還したものの、時の国民党政権に疎まれて肩身の狭い思いをしたそうである。イヨンハバオ氏は以下のように結んでいる。

特に高砂族は、日本精神をとても大事にする。日本でいえば大和魂だ。台湾にはまだ大和魂が残っているよ。国を助ける、国民全体の安全を守ることが大和魂、結局は武士道ということだろうか。戦地に於いて、高砂義勇隊は、多くの場合担送要員として糧秣を運んだ。50kg の米袋を担いで、40km の道を歩いたが、自分は到着すると同時に飢え死にしても、命をかけて責任を果たした。日本兵や朝鮮人兵は要領がよくて、途中でこぼれ落ちたとか何
とか理由をつけて食べてしまい、到着した時には5kg 位に減っていた。私はそうした現場を度々見てきた。状況がそういった極限状態だったから、いまさら彼らだけを責めるわけにもいかない。高砂義勇隊は日本人以上に日本人であった。私も戦争中は日本人の加藤直一でした。私の気持ちも精神もいまなお日本人で、大和魂は残っている。台湾の高砂族の山地同朋から、大和魂は永久に消えるものではない。

(林えいだい『証言 台湾高砂義勇隊』草風館,1998 年,p283)

ここからわかることは、高砂義勇兵が命を賭して、日本の為に戦っていたという点である。

台湾人でありながら少数民族でもあり、日本人でもありながら中華民国人である、という複雑な感情も読み取ることができる。

まとめ

この記事では、高砂義勇隊について調べたことをまとめてみた。高砂義勇隊は「日本の皇民化政策」の盛り上がりの結果の一つであるのではないかと私は考える。

つまり、日本の現地人に対する教育の方針というものが、能動的にせよ強制的にせよ、良くも悪くも実を結んだ結果だといえる。

しかし、高砂義勇隊として戦った人々や現代の台湾人が日本統治時代に関して、必ずしも悪感情を抱いているわけではないことは興味深いと考える。例えば、中国や韓国において、日本は絶対悪のようにして語られ、「皇民化政策」などというものは愚の骨頂のように見做されている。それに対し、台湾では日本の政策に対して、アンビバレントな感情を抱きながらも、概ね肯定的に捉えられている。このことは、日本と台湾の関係が複雑ながらも、概ね双方を好意的に捉えている事と類似しているように思う。

日本が去った後、台湾は国民党に接収されることになる。「犬(日本人)が去って、豚(国民党・大陸人)が来た」と語られることもあるが、国民党は台湾の知識層・親日派を虐殺して回った(二・二八事件)。この反動から、「日本統治時代は良かった」という憧景が生まれたと考えられるが、その際に日本との特別な関係を語る上で、この高砂義勇隊の存在は台湾において重要な役割を果たしていったのではないだろうか。

今回、調べてみて台湾原住民が本物の戦闘民族であることを思い知らされた。それと共に、イギリス軍がグルカ兵という、こちらもまた戦闘民族を用いていたことを知ったので、機会があれば、そこにもスポットライトを当ててみたい。

(taro)

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