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『ヘベムニュラの落星(おちぼし)』03

(01) https://note.com/kobo_taro/n/n52895d13d196 
(02) https://note.com/kobo_taro/n/n2fa61e863c7d 


傷は思いのほか深く、大げさな手当の跡がかえって痛々しい。利き手とは逆の手であるのが幸いして、日常の作業に支障はなさそうだった。ブラウン管テレビと、死にかけの白熱電球の頼りない明かりがリビングを照らしている。
テレビのニュースではどうやら失踪事件を報道しているみたいだった。
「心不全が死因との発表です。警察は七月一日 未明午前三時ごろから行方が分からなくなっていました――とみて捜査を進めています」
わずか十秒にも満たないニュースだった。ぼくが興味を引かれたのは、さっきまでぼくがいた場所が画面に映されていたからだった。
身元不明の死体が裏山で発見されたというのだ。今年に入って五人目、すべてがこの街から三十キロと離れていない範囲内で、そのいずれも心不全だった。警察が本腰をあげるのは時間の問題だということでマスコミ各社動静を注視しているのかもしれない。
「クク……ククク」
ぼくの足元で異様な鳴き声を上げるそれに向かって、ぼくはさっき切り分けた肉を数切れ与えてみる。ぼくのカバンに入っていた生き物は今まで見たことのない異様な見た目をしていた。爬虫類や両生類のように体毛のない肌に、キチン質のような硬度のある組織が骨格のように張り巡らされている。正面に付いた二対の目は黒目がちでまん丸だった。四肢は発達しており、筋肉質で石のように固い。

 そしてなにより、
「あ、ばか動くな」
「クク、クククゥ」
生き物は肉をついばもうと体を乗り出そうとした途中力が抜けてうなだれた。
 なによりその生き物はケガをしていたのだった。どこからぼくのカバンに入ったのか。ともかく弱り切って害意もないその生き物を、ぼくはかわいそうに思って世話をすることにしたのだ。クリシェは後ろから不安そうにぼくたちの様子をうかがっている。
ぼくは生物の口元に肉を近づける、弱弱しくだが、確かに食いついて咀嚼し始めた。
「クク、ククク」
「お前、ククはどうだ? ククって鳴くし」
「クク? クククク」
「いいのか嫌なのかわかんないや。でもしっくり来た。お前は今日からクク」
明日は何事もなければ図書館でククのことを調べてみよう。振り返ればこの時、ぼくは食器を洗いながら、ありえもしないことを考えていたと思う。何事もないなんていう贅沢なことを。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
 こんなぼくでも、好きな人がいる。あの時ぼくが勇気を振り絞ったのはそういう気持ちが理由だった。
市波彩瀬が図書室に通うのは、古代生物の書籍を読むためだという。

「私たち多細胞生物はカンブリア紀になって初めて目を持ったんだよ」
「ごめん。カンブリア紀ってなに? 」
「生物が誕生してから地質学的な証拠が初めて確認されている地質時代だよ」
 図書室にはぼくと市波をおいて他に誰もいなかった。これがぼくの通う学校の程度でもある一方、利用者の少なさに不釣合いな蔵書の数は見る人が見れば驚くのかもしれない。
ぼくはこの場所が好きだった。ぼくをいじめる青山もそれを傍観する他の誰かもいないぼくだけの空間。実際には市波がいるのだけれど、市波は他のクラスメイトとは違った。
「地質学……? 化石とか? ティラノサウルスとか? ジュラシックパークみたいな」
「はあ。古生代が始まるカンブリア紀はおよそ五億四千百万年前。恐竜の時代が始まる中世代は二億五千二百万年前。そしてティラノサウルスはジュラシック、つまりジュラ紀じゃなくてそれより後の白亜紀末期の恐竜だ。私がティラノサウルスならクライトンとスピルバーグを訴訟するよ」
「訴訟って古代生物のくせに文明的……」
「おや、どうして文明的な恐竜がいないと決めつけるんだい? あるいは私たちの文明社会にはもはや原始的で野蛮な生物は存在しないのだろうか? 」
「……」
 ぼくはだまった。無意識に左手の大袈裟な包帯をさする。市波は古代生物談義に戻った。彼女は傷については踏み込む気配もなかった。
「さて、なんで私たちは目を獲得したんだと思う? 」
「花粉症で苦しむため? 」
「きみさあ。古生代に生まれなかったことを神様に感謝したほうがいいよ。きみなんかアノマロカリスに一口なんだから」
 ちなみに、アノマロカリスとはまさに彼女の言うカンブリア紀に繁栄したとされる大型節足動物だ。巨大な目と触手が特徴的なエビのような見た目の生き物で、体長は諸説あるものの一から二メートルほど。当時としては最大級の捕食性生物だったとされている。しかし、身長一五五センチのぼくを一口で食べるのは不可能だ。アノマロカリスの食性はいまだに謎が多いが、口は非常に小さいので誰が見ても、自身の体長以上の生物を捕食できるはずがないと思うはずだ。
「つまり、目は捕食者が獲物を捕らえることに寄与したし、被捕食生物にとっては外敵から逃げるのに目を持っている方が都合が良かったんだね? 」
ぼくの答えに市波はやや悔しそうにしていた。完璧すぎたんだと思う。ぼくは知っていて知らないふりをしていたのだ。
「あらあら。私と仲良くなりたくてわざわざ勉強したでしょう。うぜー」
「は? え、そ…ちが……」
 慌てて言葉を濁すぼくに、市波はなぜか沈黙した。気まずい数秒の後、市波はぼくをからかってきた
「なんでそこで慌てるんだよ。マジっぽいぞう? うん? 」
「いや、古代生物、思いの外面白いなって。それだけ」
「……なんだ」
 そっか違うんだ。残念そうな声音で小さく市波がつぶやいた。おそらく無意識にこぼれたその言葉を彼女は聞かれていることに気が  ついていない。ぼくは、それが忘れられなかった。もしかしたら、ぼくと同じ気持ちなのかもしれないと小さな期待を芽吹かせてくれた。
「そういえばさ、最近野良猫とか鳩とか見ないよね――」
ぼくは不意に覚えた恥ずかしさをごまかしたくて話題を変えようと奮闘した。却って恥ずかしいくらいに必死だったのか市波が良く笑ったのを覚えている。

 そして、その日、ククについて何か調べようと訪れた図書室には誰もいなかった。しかし、ぼくは市波とたしかに図書室で目があった。おかしな話だが、真実だ。

(続く)

(Kobo)




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