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ことばと不安を、なぞる

果たして

自分が思考していることは、果たして、本当に自分のものなのかどうか不安になることがある。この思考は、混じり気のない自分のものなのか確認しなくては、と思うのである。

人間は言語で思考を行う

言語とは、人間が発明したコミュニケーションの手段である。人類史は言語によって構築され、途方もなく長い時間をかけて磨き上げられてきたものである。

言語はある種「OS」的な存在であるといえよう。言語というOSを通して、何かを考え、そして何かを理解した気になるのが人間なのかもしれない。

用いているツールが同じ以上、思考もある程度共通化していると考えるのが順当であろう。

感情も

「感情」といわれるものも同様に共通なものなのかもしれない。

「言葉にならない感情」

というものを我々はたまに目にするが、突き詰めて考えれば、それは言語化が可能なものであり、言語化が可能である以上、「言葉にならない感情」は他者も抱き得る感情であるといえるのではなかろうか。

即ち

上記の点に鑑みると「思考」そして「感情」は自分だけのオリジナリティを保って立ち現れることは限りなく少ないのではないかと私は考える。

誰かが発した言葉、どこかで見かけた言葉によって、我々は思考する。そして感情に関しても、自分だけのものと錯覚しながら、隣の誰かと同じ感情を抱くのである。

人間と、AIに根本的な変わりはない、という言説は人口に膾炙している。能信号も突き詰めて考えれば二進数であり、コンピュータと我々には変わりがない。

我々は、特別でもなんでもない存在なのである。

とかく、「この感情は自分だけのものだ」「こんな思考は私だけのものだ」と思えてしまうことがある。

それは大きな間違いであるのかもしれない。

それでも...

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それでも、失望する必要はないのかもしれない。つまり、OSを共有している以上、「他者と、ある程度の部分までは、言語を通じて、わかり合うことが出来る」という点が導き出される。

我々は、実はお互いにわかりあえる生き物なのかもしれない。

と、誰かの考えた思考をなぞりながら、今日も生きる。

(taro)

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