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映画好きでさえ忘れがちな映画を楽しむ時に必要な準備の話。

先日、プロメアを観た。2019年五月からのロングランであるこの作品は、やはりそれに見合うだけの魅力がこれでもかと詰め込まれていた。満足感いっぱいで劇場を後にし、なぜこれをもっと早く見に行かなかったのかと自問自答を繰り返したほどだ。
そして、東京の摩天楼を見上げながら叫ぶのだ。
滅殺開墾ビーム!!!!!!

さて、映画と言えばそれが嫌いな人を探すのが難しいほど、普遍的に愛される大衆娯楽の一つであることは疑いようもないだろう。
だが、個々の作品ともなればいかに栄誉ある賞に輝こうとも、否、そのような評価がなされたことで広く人の目に触れられる作品ほど、悪し様に罵られることは必定である。
どんな作品もその人、個人のために生まれたわけではないのだから致し方あるまい。自分にとって完璧なものは自分自身の手で生み出すしかないのだ。

 ぼくは今回、映画館で作品を鑑賞したわけだが、この体験はひとしおに映画を楽しくしてくれると思う。しかし、それは映画館が提供する映画を満足してもらうための工夫ではなく、確かにそれもあるのかもしれないが、それ以上にそれなりの値段を払って劇場という場所に固定されることが大きく寄与しているのだと感じる。なによりも、それは全て鑑賞者自身の選択によってなされることだというのが大きい。
わざわざ観に来た。なけなしのお小遣いをはたいた。そういった痛みが、観るものに楽しもうとする心を強制するのだ。だからこそ、冒頭の展開が冗長でも座席を立つことはないだろう。

 しかしながら、もはや映画館で映画鑑賞するというのは通の楽しみ方になりつつあると思う。二千円近い映画館での鑑賞は相対的にレンタルや、定額ストリーミング配信よりも高級で特別な娯楽だろう。

ストリーミング配信の時代。

アマプラでもネトフリでもHuluでもいい。さあ、なんの予定もない休日。映画でも楽しもうじゃないかと、こういったサービスで作品を探す。人によっては見たい作品に気になるをつけているかもしれない。そういった映画をいざ再生してみると思いのほか面白くない。開始して十分が非常に長く感じる。そんな時あなたはどうするだろうか。おそらく、我慢して観るにはそれなりの理由が必要になるはずだ。なんとなく選んで再生しただけなら途中で閉じて別の作品をまた再生し直すと思う。

映画の体験は冒頭の10分が大切になった。

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多様な作品が定額で視聴できる時代、大切なのは本編全体の総合的価値よりも冒頭の10分に視聴者を釘付けにするフックが組み込まれているか。そして他人のつけた星の数がどれだけ多いかが大切になっているように感じる。冒頭で掴まれなければ、別の作品へ移ってしまうことの心理的ハードルはとても低い。そして、冒頭がつまらなかった時、もう五分我慢してみるかは他者の評価によるものだろう。多くの人が星をつける作品ならもう少しで面白くなることに期待できる。

他人が好きだからその映画は好きになれるのか。
確かに面白いと評価される作品は面白い。ハズレをひかないために誰かの意見を参考にすることは賢いように感じる。本当にそれで良いのだろうか。多くの作品が定額で楽しめる今だからこそ。大金をはたいてわざわざ観に行くには少し気が乗らない映画とも出会うチャンスではないだろうか。

世界の全てがこの映画をこき下ろそうとも自分だけは愛してやれる、そんな映画に出会える時代。

ぼくたちは幸いなことにそんな時代を生きている。サメが出てくるパニックは大抵ダメ映画だが、そんな中にも好きでたまらない作品があるかもしれない。日本国内では劇場公開されず、blue-rayもレンタル店の隅の足元の棚の中。店員もその存在を把握していない。ともすれば呪いのビデオのような扱い方を受ける作品の中に、もしかしたら生涯をかけて見続けるような一作が眠っているかもしれない。ストリーミングなら気軽に出会えるのだ、そんな映画に。

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他者の評価で自分の好きを見失わないために。

はっきり言って、誰かがつけた星の数はあてにならない。その誰かはあなたのことを微塵も知らないし、その映画をまじめに鑑賞してレビューをつけているかどうかも怪しい。そんなものに依りかかっても楽しい映画体験は望めない。まず大切なのは、映画を見る上でその映画が何を描きたいのかを勘違いしないことだ。
その映画が主に何を描いていて、どんなお客さんに向けていて、これを見た後どんな気持ちになって欲しいのかを見る側が理解するための心理的用意をコードと名付けたい。

レビューの中にはこれを履き違えて不当に評価を低くつけるものがある。タイトルとジャケットを見てサスペンスだと思ったのに、ホラーでつまらなかった。だから星1。このレビューをつける人はサスペンスを見るためのコードでホラーを見てしまったから映画の魅力をサスペンスの定規で評価しているのだ。正しいコードで映画を読解しなければ、正しい楽しみ方をしていない。

つまらないシーンにわざわざイライラしないこと。

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ミッションインポッシブルシリーズなどは冒頭に事件の発端となる短編が挿入されており、最初から非常に飽きない作りになっている。しかしながら、映画の全てがそうでないことは理解するべきだ。なぜなら劇場公開を想定している映画はホットスタートをせずとも客は逃げないことを作り手が想定しているからである。
前述の話に帰るが、映画は元々映画館で観るものだった。TV放送されるドラマやバラエティはチャンネルをなんとなくつけた時でも変えずに観続けてもらえるように編集に一工夫あるものだが、映画は違う。CMが挟まることはないし、お客さんが最初に座席につけば終わりまでその映画を観続ける。20-30分区切りの団子式で鑑賞者を煽るような作りをすると却って観る人を疲れさせてしまう。だから中盤には何も事件の起こらないパート(ダレ場)が挿入され、物語上での小休憩によって頭の中身を整理してもらうのだ。これは冒頭の十分間にも言える、なんの事件も起こらないシーンの積み重ねは事件後の主人公たちの状況との落差を演出するのにとても効果的だったりする。80-100分という決められた尺の中に無駄なものなどはない。全てのシーンに楽しんでもらうための意図が込められている。

右手にコーラ、左手にポップコーンがあること。
説明不要!

お気に入りの映画に出会えることを祈って。

(Kobo)

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