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だいぶマニアックなプロ野球の話

こんにちは、シャープです。

神戸新聞社には、プロ野球好きの社員がたくさん在籍しています。僚紙「デイリースポーツ」を発行していることもあってか、その大半が、地元・兵庫の阪神タイガースファン。足しげく甲子園球場に通ったり(コロナ禍前の話です)、食事の途中でもこまめに試合速報を確認したりする虎党が数多くいます。

必然、タイガースをはじめとした、さまざまな切り口のプロ野球ネタが神戸新聞紙面を彩っている………わけでもないのですが(一般紙なので?)、さかのぼっていくと、思わず「へ~」とうなってしまうような記事がいくつか掲載されています。

今回は、プロ野球マニアの端くれを自称する私、シャープが、えりすぐりの3本を紹介していきたいと思います。

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まずは2003年、セ・リーグを18年ぶりに制覇したタイガースの話題から。ファンにとって、甲子園球場が「聖地」と呼ばれる理由がよく分かる記事です。

本籍は「甲子園球場」 現在180人以上 優勝で西宮市 問い合わせ急増

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 プロ野球阪神タイガースの本拠地・甲子園球場の所在地に本籍を移した人が、これまでに百八十人以上いることが西宮市の十二日までの調査で分かった。リーグ優勝した昨年は同市役所への問い合わせも急増。今年は同球場設立八十周年に当たり、球団側は「記念の年に喜ばしい話。試合のときにはぜひ本籍地に“戻って”きて」と話している。
 法務省によると、本籍は戸籍法で、地番などが定められた国内の土地であれば本人の意思で自由に決めることができる。他人が暮らす土地や路上でも構わない。
 現在、球場全体が位置する「西宮市甲子園町一番」に本籍を置いている人は約百四十人。さらに細かい表示の「同町一番地」には約四十人の届け出がある。ただし一番地は球場前のバス停に当たり、同市職員は「申請時に『同町一番』と間違えたのでは」と推測する。
 ちなみに三塁側スタンドの「一〇番地」には四人、一塁側グラウンドの「一三番地」には一人が籍を置いている。
 
 転籍は全国どこの自治体からでも申請できる。「結婚して新しい戸籍をつくる夫婦や、若い家族で転籍する人が多い」と同市市民課。毎年手続き方法を尋ねる電話が数件寄せられるが、昨年は二十件に急増した。
 実は、有名な場所に本籍を置くというのは意外と知られた話。例えば、東京都千代田区千代田一番の皇居には「約二千百人の本籍がある」(同区役所)。熱心なファンが多い中日ドラゴンズの元ホームグラウンド・ナゴヤ球場にも、三人が転籍しているという。                             

                 (2004年3月13日付朝刊より)


続いては、幻のプロ野球チームの話題。明石球場を本拠地とした、史上唯一の2軍だけの球団にスポットを当てています。

65年前 山電にプロ野球団 山陽クラウンズ 明石拠点、選手育成の2軍のみ

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 創業110年を迎えた山陽電気鉄道にかつて、プロ野球チームがあった。史上唯一、2軍だけの球団で、その名は「山陽クラウンズ」。ウエスタン・リーグの前身「関西ファーム・リーグ」にも参戦したが、わずか2年半で解散した。10月で解散から65年。関係者の多くが鬼籍に入った。資料も乏しい中、4月に亡くなった元選手の遺族が「父の足跡を知りたい」と情報を集めている。
 球団創設は1950(昭和25)年5月。当時のデイリースポーツによると、正式名称は「神戸クラブ山陽野球団」で、2軍を持たない球団から委託された選手を育成した。明石球場を本拠地に、兵庫県内外の選手約20人が所属。監督は早稲田大野球部OBの村井竹之助氏らが務めたという。
 エースとしてチームを支えたのが浮田逸郎さん(享年85)。長崎県の佐世保北高を卒業後、福岡県が本拠地の西日本パイレーツに入団したが、50年6月ごろに山陽へ預けられたという。
 当時のプロ2軍についての著作がある野球史ライター松井正さん(37)=東京都=は「セ、パの2リーグ制に移行直後で選手の引き抜きに大金が飛び交う中、山陽は無名の若者や他球団から預かった選手を育成するという隙間産業に目を付けた」と解説する。
 山陽は50年11月、2軍初の公式戦「第1回マイナーチーム選手権大会」に出場。52年4月、阪神など6球団と日本プロ野球初の2軍組織「関西ファーム・リーグ」を結成し、50年には3試合だった対外試合が52年には29試合に増えた。

 一方で「養成した選手を他球団に移籍させる」ことで見込んだ収入はほとんどなかった。山陽電気鉄道100年史によると、「旅客誘致に多少の効果はあったが(中略)経営が成り立たなく」なり、52年10月、わずか2年半で解散した。
 一部の選手は他球団に移り、浮田さんは大洋松竹ロビンス(後の大洋ホエールズ)に移籍。わずか1年で引退したが、母校の野球部監督などを歴任。今年4月、「ひつぎに野球帽を入れてほしい」と言い残して亡くなった。長女の和田祥子さん(57)=大阪府岸和田市=は「野球を心から愛していた」と振り返る。
 一方で、野球人生をあまり語らなかった父が短いプロ生活について書いた手紙が「悔いはない」との言葉で結ばれていたことを最近知ったという。
 当時の情報を集めたいと、数少ない父の知人らを訪ねる日々。解散から65年。歴史に埋もれた小さな球団に、再び光が当たる。

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▼2年半で解散、残存資料乏しく

 65年前、創設からわずか2年半で解散した「山陽クラウンズ」。当時の資料は「山陽電気鉄道100年史」(2007年発刊)にわずかな記述と選手らの写真が残るだけで、所属選手や監督の詳細やその後については資料がない。
 1952(昭和27)年3月10日付の「スポーツ毎日」に掲載されているメンバー表には、総監督以下26人の名前と出身校が並ぶ。浮田逸郎さんを含め、少なくとも高橋真輝外野手(徳島工高)や永井康雄投手(大阪商高)ら計4人が広島カープなど他球団に在籍したことは確認できるが、残りの選手は記録が残っていない。
 野球史ライターの松井正さんによると、投手としての浮田さんの成績は、スポーツ紙などに掲載された記録を集計すると通算8勝8敗。チームの通算11勝24敗1引き分けに照らしても、エースとして活躍していたことが推察される。
 浮田さんは52年9月、大洋松竹ロビンスに移籍。53年5月、東京・後楽園球場の巨人戦で登板。2死満塁の場面で「打撃の神様」と呼ばれた川上哲治内野手と対戦し、センターフライに打ち取ったという。
 監督を務めた村井竹之助氏は34年、米大リーグのベーブ・ルースやルー・ゲーリックらが来日した日米野球で全日本代表として出場。同じチームには巨人の沢村栄治投手らがいた。
◆鉄道会社ゆかりのプロ野球チーム◆ 阪神電鉄が1935(昭和10)年に「大阪野球倶楽部(くらぶ)」(後の阪神タイガース)を創設したのを皮切りに、阪急が「大阪阪急野球協会」(後の阪急ブレーブス)を、南海も38年に球団を結成。50年ごろには、セ・リーグに阪神、国鉄スワローズ、パ・リーグに阪急、南海、東急フライヤーズ(東急電鉄)、近鉄パールス(近畿日本鉄道)、西鉄クリッパース(西日本鉄道)などが存在した。  

             (2017年10月1日付朝刊よりーリンク

   

最後の3本目は、僭越ながら私が書いた記事を1本、取り上げさせていただきます。毎秋、数々のドラマを生むドラフト会議導入の起源をたどると、神戸のホテルに行き着いたーーという話題です。

ドラフト会議 神戸に起源 新人契約金が高騰「歯止めを」 64年 六甲山ホテルで西鉄提案

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 26日に東京都内のホテルで開かれるプロ野球ドラフト会議。今年は高校通算最多本塁打の新記録を打ち立てた清宮幸太郎選手(早稲田実業)らに注目が集まるが、その起源は1964年の六甲山ホテル(神戸市灘区)にあったという。数々のドラマを生んできた会議の原点に迫った。
 「中心議題は新人の契約金高騰への対策」「なんとか合理的な契約制度を」。1964年7月25日付のデイリースポーツは、前日に六甲山ホテルで開かれたパ・リーグのオーナー、代表者による合同会議の記事を掲載した。当時の西鉄球団社長の西亦次郎氏が、それまで事実上自由競争だった新人選手獲得の窓口一本化を提案したのだ。
 日本野球機構(NPB)によると、当時、高卒選手との契約金が1球団の年間チケット収入を上回るなど、有望選手をめぐるマネーゲームが激化。球団経営悪化や戦力の不均衡を防ぐため、パ・リーグを中心に一定の歯止めを求める声が上がった。
 そのため導入されたのが、米プロフットボールNFLを参考にしたドラフト制度。セ・リーグも巻き込んで具体的な検討が進み、65年4月に合意すると、同11月に最初のドラフト会議が東京で開催された。
 NPBによると「(ドラフト会議に関して)初めて公に意見が交わされたのが六甲山ホテルでの合同会議」という。ただ、なぜ六甲山ホテルで開かれたのかについて「資料は残っていない」と同ホテル。
 
 一方、野球殿堂博物館(東京)の関口貴広学芸員は、同ホテルでの会議の経緯を64年シーズンの日程から読み解く。7月24日はオールスター第3戦が大阪球場で行われた2日後。「オールスター開催に合わせて各地の球団幹部が大阪周辺に集まり、彼らの宿泊先だったか、会場として手ごろだったかで六甲山ホテルが選ばれたのでは」とみる。
 プロ野球の一大改革の端緒となった制度にはその後、選手からの逆指名導入や球団の自由獲得枠創設など、時代に応じてさまざまな修正が加えられた。
 期せずしてプロ野球史にも名を刻んだ1929年開業の老舗ホテルは、リニューアルに伴い今年末で看板を下ろす。しかし、施設は引き継がれるといい、来春にも旧館が営業を再開する予定という。

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▼当時のデイリースポーツ 球団駆け引き 連日報道

 1964年7月の六甲山ホテルでの合同会議によって本格的に導入の検討が始まったドラフト制度。当時の激しい選手獲得についてはデイリースポーツの紙面からもうかがえる。
 64年7月21日付「辻投手巨人入り」▽22日付「高橋投手が二重契約」▽23日付「池永投手西鉄入り?」▽24日付「菱川中日か南海」▽25日付「(菱川獲得へ)鶴岡監督乗り出す」▽26日付「山崎中日、東京が有力」▽27日付「橋本獲得へ近鉄リード」―。
 合同会議の記事が載った25日前後、デイリースポーツは高校生の獲得をめぐる各球団の動きやトラブルを連日掲載。スポーツ新聞も激しいスクープ合戦を繰り広げた。
 時期はまだ夏の甲子園の予選シーズン。敗退した高校の有望選手が次々に取り上げられた。選手側が要求した膨大な契約金に「中日が難色を示し、巨人がこれをOKした」など生々しい表現も並ぶ。投手コーチが「ウチは2千万円ぐらいなら取るだろうが、それ以上なら手を引く」と実名でコメントしている記事もあった。

                (2017年10月24日付夕刊より)

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いかがだったでしょうか。「3本とも、全て知っている内容だった」という人は、「端くれ」ではなく、正真正銘のプロ野球マニアだと胸を張っていいレベルでしょう。

神戸新聞では、このようなプロ野球の話題だけでなく、兵庫に根ざしたさまざまなスポーツ記事を電子版「NEXT」(https://www.kobe-np.co.jp/で紹介しています。ぜひ一度、ご覧になってください。


<シャープ>2006年入社。東京の西武池袋線沿線で生まれ育ち、1980~90年代のライオンズ黄金時代を地元で体感する。関西で暮らすようになってからも、希少種とされるライオンズファンであり続け、史上最高の強肩選手は、イチローでも新庄剛志でもなく、羽生田忠克だと信じて疑わない。

             

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