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<朝ドラ先取り>来春スタートの「らんまん」。モデルの牧野富太郎さん、強烈な個性の持ち主だったようで…

NHK連続テレビ小説「ちむどんどん」が終了し、10月から「舞いあがれ!」がスタートします。東大阪市生まれの主人公の成長劇も楽しみですが、今回は来春放送が始まる「らんまん」を取り上げます。モデルは高知県出身の植物学者、牧野富太郎。一時神戸に拠点を置くなど兵庫ともゆかりの深い人物です。播州人3号がひと足早く牧野博士の功績を紹介します。

緻密な植物画の図鑑を学校の図書室でご覧になった方も多いのではないでしょうか。新種の発見や命名だけでなく、紙面では施設の歴史や特産づくりなどにも博士の名が登場します。
少し前の記事ですが、没後50年に合わせ、兵庫との関係のまとめものが見つかりました。

植物学のあけぼの残した標本40万点
独学で分類学の基礎築く
大正、昭和の神戸に足跡

 明治から昭和にかけて、独学で日本の植物分類学の基礎を築いた牧野富太郎(1862~1957年)が亡くなり、今年で半世紀を迎えた。新種や新変種の命名は1600種以上、残した標本は40万点以上に上る。学問の集大成である「牧野日本植物図鑑」は、刊行60年以上を経て、今なお読まれ続ける不朽の名著だ。一時、神戸を拠点に活動し、県内に残した足跡も大きい。その生涯を振り返った。
 牧野は1862(文久2)年、高知県佐川町の裕福な造り酒屋に生まれた。正式な学歴はなかったが、独学で植物学を学び、19歳で初めて上京。その途中、神戸で当時、はげ山だった六甲山を見て、「雪が積もっているのかと思った」という逸話も残している。
 明治初期は、伝統的な「本草ほんぞう学」から、科学的な植物学へと脱皮しつつあった時期だ。
 22歳からは、東京帝大植物学教室に出入りし、日本の植物を片っ端から調査した。日本植物学会長も務めた、兵庫県立人と自然の博物館(三田市)の岩槻邦男館長は「牧野によって、日本に西洋の植物学の基礎が築かれた。その功績は計り知れない」と評価する。
 対象となる植物を徹底的に観察し、記録するのがそのスタイル。精巧な図と、特徴の正確な記述は、世界的に評価されたという。
 兵庫県生物学会の白岩卓巳会長は「牧野の植物図は、時間を追って観察し、植物のライフサイクルを描き出す。その姿勢は科学的であり、本草学とは一線を画している」と述べる。

■啓発にも尽力

 95歳の長寿をまっとうした牧野だが、学者としての生涯は40歳ごろを境に二分されるという。
 「『研究者』であったのは、1902、3年ごろまで。以後は、新たな知見を明らかにするよりも、植物学の普及活動などが中心となった」と岩槻館長。研究が進展しつつあった、遺伝子や染色体には、まったく興味を示さなかったという。
 自らを「草木の精」と称したように、あくまで生きた植物に魅力を感じ、形態による分類を仕事とした牧野。そこに研究者としての限界を見ることもできるだろうが、名著「牧野日本植物図鑑」(1940年)が完成したのは、啓発に軸足を置いた後半生があったからといえるだろう。
 同博物館の鈴木武研究員(植物分類学)は「図鑑を通じて植物を学ぶというスタイルが確立したのも、牧野の大きな業績だ」と話す。

■兵庫に幻の研究所

 牧野には、経済観念が決定的に欠落していた。多額の借金を抱え、家族が貧乏にあえいでも、書籍の購入や調査には、惜しみなく金を注いだ。
 54歳の1916年、いよいよ困窮。そこに援助の手を差し伸べたのが、神戸の資産家、池長はじめだった。
 社会貢献を考える池長の頭には、兵庫区の会下山に、牧野の標本を収蔵、公開する「池長植物研究所」を設立する構想があった。しかし標本は運び込まれたものの、一向に整理が進まない。18年に開所式だけは済ませたが、結局、公開されることはなかった。
 「膨大な標本を、組織的な態勢を取らずに整理するなど無理。最初から見通しが甘かった」と、白岩会長は厳しい。
 構想はついえたが、牧野が神戸を拠点としたことで、足跡は大きい。
 折しもそのころ、阪神間には成熟した文化が花開いていた。鈴木研究員は、牧野を「阪神間モダニズム期にこの地を訪れた文化人の一人」と位置づける。神戸を拠点に活動する世界的学者の下で、関西には数多くの植物愛好家が育った。
 そして最大の功績は、「間接的にではあるが、神戸の市立博物館の礎を築いた」(白岩会長)ことだろう。
 牧野と距離を置くようになった池長は、南蛮美術の収集に没頭。40年に、神戸市中央区に「池長美術館」を設立した。そのコレクションは第二次大戦後、神戸市に委譲され、同市立博物館に継承されている。
 同博物館の勝盛典子学芸員は「関連分野の資料を数多く収集するなど、池長は牧野の手法を踏襲している。高い“授業料”だったが、池長は援助を通じて収集、分類の基礎を学んだ。それがなければ、美術コレクションの形成もなかっただろう」と話す。
 強烈な個性と激しい気性で、たびたびトラブルを起こした牧野だが、その才能は人を引きつけ、影響を与えた。やはり巨人であった。

(2007年2月12日付朝刊より)

かなり個性的な人物だったようです。
ドラマでは神木隆之介さんがどんなふうに主人公を演じ、激動の時代をどう生き抜くかも見ものです。

牧野を一時支援した池長が南蛮美術に没頭し、集めたコレクションの中には教科書などでおなじみの「聖フランシスコ・ザビエル像」があります。今も神戸市立博物館に収蔵されている「ザビエルさん」の経緯をまとめた投稿はこちら

牧野と兵庫のエピソードはまだまだあります。
県花のノジギクもその一つでしょう。
県鳥のコウノトリと並び、県民に親しまれ、2006年に兵庫で開かれた国体名にも使われました。

かれんな花を咲かせたノジギクの群生=姫路市大塩町(2015年11月)

ノジギクはキク科の多年草で、牧野が1884(明治17)年、高知県で発見し、命名しました。
兵庫県では1907年に六甲山で最初に見つかり、08年に姫路市大塩町の大群落をみた牧野は「日本一の大群落」と評し、1955年に県花に選定されたと過去記事にありました。

牧野のお墨付きがなければノジギク以外の兵庫の花が生まれていたかもしれません。

ほかにも1879年に神戸の摩耶山で初めて採集され、牧野が名付けた「マヤラン」や、三木市志染しじみ町で見つかり、牧野が命名した水生植物「シジミヘラオモダカ」などが紙面で紹介されていました。

六甲山にもゆかりの深い施設があります。
六甲高山植物園です。1933(昭和8)年、牧野の指導を受け、六甲山頂近くの海抜865メートルに開園。北海道南部とほぼ同じ気候を生かし、高山植物を中心に育てています。

牧野はふるさと高知から上京する途中、はげ山だった六甲山を見て「雪が積もっているのかと思った」という逸話を残していますが、その六甲山を何度も訪れ、今も人気の植物園開設に関わりました。

高山植物園を舞台にコントラバスとピアノの演奏を収めた動画はこちら

神戸だけではありません。
牧野の足跡は日本海側にも残されていました。

新温泉 ほんのり春色
町天然記念物の正福寺桜

 新温泉町湯の正福寺で発祥し、同町の天然記念物に指定されている「正福寺桜」が同寺の境内で花を咲かせ、地元住民や観光客らの目を楽しませている。同寺によると今年は暖冬の影響で開花が早く、間もなく満開になる見込みという。
 ヤマザクラとキンキマメザクラの自然交配種で、同寺のほかに播磨地域にも分布。植物学者牧野富太郎が昭和初期、学名を「プルヌス・タジマエンシス・マキノ」と付け、和名では「正福寺桜」と呼んだ。淡い桃色の花びらは40~50枚で、雌しべは1~6本あり、頭を垂れるように花を開く。

(2020年3月28日付朝刊より)

牧野が命名した養父市の「朝倉山椒」が近年、注目されています。
トゲがなく、香り成分のリモネンが豊富いのが特徴といい、特産化に向けた取り組みが進んでいます。

▼牧野富太郎が登録

 朝倉山椒が、正式な品種として登録されたのは明治時代のことだ。1877(明治10)年、東京大学の初発刊物である小石川植物園の植物一覧に登場する。記述を担ったのは「花粉」「雄しべ」などの用語を考案した日本初の理学博士、伊藤圭介だ。
 さらに1912(明治45)年、日本の植物学の父と称され、来年のNHK連続テレビ小説「らんまん」のモデルに決まった牧野富太郎が、学会に「アサクラザンショウ」と登録した。
 元養父市職員で、ひょうごの在来種保存会会員の茨木信雄さんらの古文書の調査を経て今では、原産地は養父市八鹿町今滝寺、発祥の地は同町朝倉とされる。「いつからトゲがないのかなど、朝倉山椒の歴史発掘はまだ途上です」と茨木さん。〝日本最古の香辛料〟ともいわれる名産品はどのようにして、日本の食や健康の文化に深く定着してきたのか。多くの人の探究心によって、さらに実像が明らかになっていくだろう。

(2022年6月26日付朝刊より)

兵庫県西部にある上郡町のクライモモも牧野ゆかりの果物です。こちらも町おこしに一役買っています。

上郡高生と鞍居地区住民
固有果物で町おこし
クライモモ収穫始まる

 上郡町鞍居地区に自生する固有種の果物「クライモモ」の収穫が6日始まった。地区の名が付いたモモで町おこしを目指し、栽培を続ける住民と上郡高校の生徒らが、直径5~6センチに成長した実を丁寧にもぎ取った。
 クライモモは、「植物分類学の父」と呼ばれる牧野富太郎(1862~1957年)が、同地区を訪れた際に固有種と確認したバラ科サクラ属の植物。
 「珍しい植物で地元を元気に」と考えた住民有志が4年前から、同校園芸科と協力し栽培と繁殖に取り組む。
 現在、地区内4カ所の農園で47本を栽培。収穫した果実は、コンポートやジャムなどに活用しようと、料理法の研究を重ねている。
 この日は、同町野桑の農園で今年初めての収穫を実施。生徒と住民が協力して行った枝切りや水やり、袋掛けなどが実を結び、これまでで最も甘みが強く、大きな果実になったという。
 同校園芸科3年の生徒(17)は「世話は大変だったが、大きなモモが取れてうれしい」と喜んでいた。

(2016年9月7日付朝刊より)

植物一筋の牧野ですが、兵庫の人々との交流の跡も残されていました。

「ノジギク」命名牧野富太郎
六甲の植物に愛切々と
西宮の女性所蔵 大正・昭和の写真、短冊

 植物分類に多くの足跡を残した植物学者牧野富太郎(1862~1957年)の貴重な書簡や写真などが、西宮市の女性(91)方で保管されていることが分かった。35(昭和10)年に六甲山で詠んだ短冊など専門家に知られていない資料も含まれる。今年は牧野の生誕150年。女性は「牧野さんと神戸とのつながりに光を当てる資料になればうれしい」と話す。
 牧野は高知県生まれ。植物学を独学し、東大に籍を置いて全国で植物を採集、兵庫県花ノジギクなど1500種以上の草花を命名した。神戸には一時期植物研究所を置くなど、ゆかりが深い。六甲山でも調査し、六甲高山植物園の開園(33年)を指導した。
 女性が所蔵する封書やはがきは36年に書かれたものが中心。「六甲山も今はツツジの満開」(5月15日)と、東京から神戸に思いをはせている。いずれも女性の父宛て。父は当時、六甲山で旅館経営や高山植物の販売などを手掛けていた。
 写真は約10点残されている。25(大正14)年、栃木県の日光で撮影したとの書き込みがある1枚は、60代と思えないほど若く、さわやかな笑顔が印象的だ。
 短冊は計6枚。うち1枚は上部に「昭和十年 九月一日 六甲山にて」とあり、「六甲の山にこけもゝ生ふと聞き 吾れ見に来れハ其処そこに在りけり」と、六甲でコケモモの自生を確認した感激を歌に詠んでいる。左隅下に「牧野結網けつもう」の号。力強く、流麗な字で記す。
 牧野の蔵書や遺品を収蔵する高知県立牧野植物園によると、この歌は知られていないという。
 牧野は六甲山調査などの折に女性の家に立ち寄った。「お酒を飲んでは父と話し込んでいた。やさしい、にこやかなおじいさんだった」と振り返る。
 牧野植物園牧野文庫司書の村上有美さんは「大正期の撮影と確認できる写真は珍しい。手紙や短冊は、神戸での牧野の交流や足跡を伝える貴重な資料」と話している。

(2012年11月13日夕刊より)

ほかにも植物採集の際の訪問先に自筆の書と多年草を送ったという記事がありました。頑固な研究者と思いきや、温和な一面も残していました。

<播州人3号>
1997年入社。一部の学者に対しては攻撃的ともとれる文章も残している牧野ですが、妻に対しては感謝の言葉を繰り返しています。研究に没頭するあまり、膨大な借金を抱えることになったことへの反省もあったのでしょうか。ドラマでは浜辺美波さんが妻役を演じます。どんな夫婦として描かれるのかも楽しみです。

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