(創作)The Girl

 私が喋らなければいけないことに気づいたのは、観客の視線が一挙に私へ向いたときだった。白熱したスポットライトが体に当たった。火照った顔の内側で必死に次のセリフを思い出そうと努力するが、それは徒労にすぎず、もはや直前まで自分自身が何者だったのかも思い出すことが難しかった。私は誰だろう。これから何をするつもりなのだろう。そう何度も反芻するが、心臓の鼓動は早すぎる時計のように私の気持ちを急がせている。
 相手役の俳優に助けを求めて視線を移すが、彼もまた混乱した様子で額に汗を浮かばせる一方で、なんとか己の体面を保とうと、決して効果的と言えないぎこちないポージングで直立したままだ。彼の名前は何と言ったのだろう。確かエミール…いや、それは役名だった。本名はジョシュ……これも芸名にすぎない。
 彼の向こう側から見える舞台袖から演出家が現れ、必死に何かを伝えようとしている。しかし私は何もわからない。
 ヴィクトリアン様式の住宅に似せたセットで、私は侍女の服装を着ていた。ティーポットを持つ両手がふるえているのは、数分前の私が意図した演技なのか、現在の私が思わず見せる生理的不安なのか、判断はできない。目の前にいる俳優は紳士服を少し崩して着ている。ステッキを左腕にかけ、右手には新品の帽子を抱えているようすからして、おそらくこの場面で彼は登場したばかりであり、二人のダイアログが中心になっているらしかった。
 観客はまだアクシデントに気づいていず、単にこの不自然な時間も単なる演出の一部だと勘違いしているはずだ。だがこれが十秒、三十秒、そして一分と過ぎていけば真の理由が自ずと暴露されるに違いない。セットの規模と観客の人数からして、この舞台はかなり大掛かりな作品なようだ。だから、ここで私が失敗すればスキャンダルになるに違いない。
 突然舞台の真下にスケッチブックとペンを持った男が走ってきた。彼は即興で書いたらしい汚い字で、次のセリフの指示を出した。

イザベラ「ダメよ。これ以上、私はあなたに何もできないわ。月と太陽は同じ空に存在できないの。いまの私はあなたを照らす太陽になれなくて、私自身が太陽の光を浴びることに精一杯なのよ」

 急な救いの手に安心しつつ、まだ混乱した頭でなんとなく文章を読み上げる。だが、今度も次の言葉を思い出すことはない。そして、朗読してみせたセリフですら、直後には正確に想起することができなくなっていた。
 俳優は長いあいだ喋り続けていた。どうやら私が本当にこの演劇にまつわるものすべてを忘却してしまったことを理解したらしい。不自然なほどゆっくりと、そして冗長に、ときおり即興の芝居を加えながら、彼はなんとか私のために時間をかけていてくれた。
 疲れ切って、脚が湾曲したセットの椅子に座り込む。焦っているようすの演出家を眺めると、徐々にこの演劇について、断片的にだが記憶が蘇ってきた。誰の発言だろうか、詳しくは思い出せないが、この作品について、多くのことが語られていた。

ー本作は十九世紀ロンドンの上流階級を舞台に、歴史上の転換期に翻弄される人々を描いている。特に美しく気高い心を持った主人公の侍女にとって、この物語は政治と恋愛によって、徐々に破滅の道を辿らされる悲劇となるだろう。彼女はどの歴史書にも日誌にも残されない、日常と社会の紛れもない被害者だ。だが彼女が短い命を燃やし尽くすさまは今日の我々にとって感激を催し、純粋な精神の清廉さを示してくれる。歴史が忘却した女性を舞台上で復活させることで、荒廃した現代人を奮起させようではないかー

 私はこの侍女を演じているはずだ。回復した一部の記憶は定着し切らず、いまだ頭上を雲のように揺蕩っている。ティーポットをテーブルに置いた。本物のお茶を淹れていたのだろう。指先が痺れているのはきっと火傷しているからだ。そしてこのテーブルの脚も、ヴィクトリア朝風に湾曲していた。糸を引くようにして、手探りで演技を続けなければならないという意識から、再び立ち上がって今度は舞台上を何周も歩きはじめる。観客たちは私を必死に目で追っていた。歩くたびにブーツの踵が大きく鳴る。
 そして俳優が喋り終わろうとしたそのとき、彼はいきなり持っていた帽子をフリスビーふうに私の方へ投げ飛ばしてきた。全力を尽くし、以降の展開や混乱をすべて私へ託すとでも言いたげに、そしてなかば自暴自棄になるようにして、帽子は回転しながら飛ぶ。それを私は受け取ると、観客席から大きな拍手が起こった。
 すかさず、足元のスタッフが拍手の鳴り止まないうちに紙へセリフを書き付け、私に押し付けるように見せてくる。

イザベラ「いま何時かご存知?立派な紳士なら時計を見て帰宅して夕餉をとるべきだと分かるはずよ。ご主人様たちももうここに帰ってくる。私は仕事に戻らなければいけない。ああ忙しい!人を眺めていたいならサーカスにでも行けばいいわ。きっと私よりもあなたの好奇心をそそる人たちがたくさんいるはずよ。ドアは開けたままでいいわ。掃除をしていると、埃が舞うもの」

もう一度指示通りに読むが、やはり理解することは難しかった。赤くなった指先同士を擦り付け、喋るあいだはずっと棒のように立っていたせいで、私の演技はきっとひどく神経質そうに見えるはずだ。しばらくセリフはなく、二人とも黙ったままその場に残るらしい。だが私には、思い出すこともできない言葉を口にするよりも、ひたすら佇むことの方がずっと困難だった。言葉にしてしまえば、架空の人物の魂は語る内容に取り憑いてしまう。だが沈黙は、演者が全身で他人になり代わらなければいけない。舞台上で何が起こっているのかはっきりと理解できない私には、この状況は混乱を引き起こしかねなかった。
「イザベラ」
 俳優が私の名前を呼んだ。いや、これは私の名前ではない。私が演じている侍女の名だ。
「君はどうしても私のところへ来ないのかい?」
元々台本に返事は書かれていないらしい。私はただ下を俯くだけで十分だった。
 イザベラ…イザベラ…。読み上げてきた紙にもそう書いてあったが、私が敢えてこの名前を無視してきた理由は、それが私の役名なのか実名なのか、判然としなかったからだ。いや、判然としないことに気づくことすら恐れていたからだ。舞台上で行われる駆け引きとは別に、私の実生活が確実に存在するはずだった。でなければいま進行しているのは演劇とは呼べない。にもかかわらず、どれだけ意識しても決して記憶の深層に辿り着くことはなかった。私は誰…私は誰…私は………。そんな想いばかりが体中に憑依した。思わず着ていたエプロンで顔を覆う。不自然なほどに白いエプロンは洗剤の匂いでいっぱいだった。
「君は私のものになりたいんじゃなかったのかい?」
 名前も定かでない俳優がまた声をかけてきた。顔は隠したまま、思い切り横に振る。これもセリフの一部なのだろうか。彼は何度も「イザベラ!」と叫んだ。だがそれは私の本当の名前ではないし、私が演じている侍女の正体も、私は知らない。
 ここで、失われた記憶の破片がまたしても蘇ってくる。今度も誰の言葉かは分からない。だが以前のものとは違い、確実に複数人の声であり、感情を交えた実相をともなっていた。

ー彼女の懊悩は一種全人的な葛藤でもある。つまり、普遍的な主題なんだよ。彼女は私自身であり、逆に、私が彼女自身でもある。かの大ゲーテがウェルテルに託したものを、もっと言えばイエスが背負ったものを、彼女に与えなければならない。大っぴらに言ってしまえば、彼女こそ世界と人類の浄化の柱なんだ。ロンドン・ブリッジの童謡を知っているだろう。私たちが落ちるかわりに………。そう、物語とは常にこうあらねばならないんだー

 エプロンを離し、周囲を見渡した。ようやく自体の真相を飲み込めた観客たちはわずかだがどよめきはじめている。しかしその表情はどれも熱っぽい興奮が混ざり、私の身の上をあくまで観客として観覧するつもりなようだった。俳優もまた、すでに本来の仕事を終えたかのように、静かに微笑み続けている。あまつさえ、この舞台が終わったあとの予定を思案しているかのようだった。さらにその奥の演出家は身悶えながら怒り狂っている。恋人に裏切られた哀れな男のように、欲しかった玩具を奪われた子供のように。そして彼は台本を床に投げ捨てた。
 ついに演出家は舞台上に現れ、私めがけて突進してきた。混乱もまだ収まらないまま、私は反射的に周囲にあるものを彼に投げつける。テーブルの上にあった分厚い本、中国風のティーカップ、俳優から渡された帽子、たまに命中するが、依然彼は怒りを増しているようだった。観客の盛り上がりは最高潮に達している。
 そしてついに首を掴まれそうになったとき、私は身を捻った拍子で側の電灯にぶつかった。しばらく躊躇いがちにそれは揺れたが、観念したように一気に倒れる。カバーで隠れていた電球が音を立てて割れた。
 私も俳優も演出家も、もちろん観客すらも予想しなかったのは、この電球が白熱電球だったことだ。十九世紀後半に発明され実用化も進んだことは知っているものの、なぜ舞台で…?そしてその疑問を考える暇もなく、次にフィラメントが絨毯に引火した。火はゆっくりと、確実にすべてを燃やすようにして広がっていく。
 最初に被害を受けたのは演出家だった。ズボンの裾に火がつくと、虫のような挙動をしながら舞台上を走り回った。私は思わず笑いそうになるが、すぐに逃げなければいけないことに気づくのには時間がかかった。観客たちがパニックになり、私自身も避難経路を探しはじめた頃には舞台上のセットの半分以上が延焼し、燃え尽くされている。窓と壁を模したパネルは倒れ、舞台の奥にある骨組みまで露出させている。警報が鳴り響きスプリンクラーが作動するが、すでに大炎上しているせいか効果はあまりなさそうだった。俳優はいつのまにかどこかへ消えてしまっている。もう灰にになったのだろうか。
 私は侍女の衣装を着たまま舞台袖へ、そして裏にある廊下を走りながら、出口を必死に探していた。とにかく同じように逃げるスタッフのあとを追えばいい。記憶が戻らないまま、誰とも知らない人々とともに走っていく。
 そのとき、背中を串刺しにさるような痛みが襲った。突然だったせいで思わず廊下の冷たい壁に激突する。正面から当たったせいで顔にも痛みが広がったが、背中のそれは種類がまったく違うものだった。首を曲げると、ようやくそれが私に取り憑いた炎だということを知った。わけのわからないまま服を脱ごうとするが、衣装はきつく、なかなか難しい。そして通路に溢れかえる人の波に押されながら、私は走る必要もあった。
 走りながら、否応なしに燃える衣装を力任せに破いていく。エプロンも靴もすべて背後に投げ捨てながら私は逃げる。黒い煙は頭上を覆い、次第に他人の声も聞こえなくなっていった。私は気が遠くなりながら、足を必死に動かしていく。誰も乗っていない自動車が、速度を増しながら坂を下っていくようだ。
 路上に弾き出される。全身が痛い。薄れかけていた意識が再び戻ってくると同時に、劇場の裏を通って大通りに出たことを知った。背後を見ると、見たこともないような大火災が起こっている。救急車と消防車、そしてTVクルーたちが蟻のように群がっていた。
 彼らが私を見て、目線が一度外れると、もう一度私を注目した。ぞろぞろと、慎重に歩いてくる。
「服はどうされたんですか?」
いやらしい言い方だった。服はすでに焼けて、ほかは逃走中に破り捨てている。煤で黒くなった裸が、彼らのカメラに収められていた。羞恥心と怒りで立ち上がったそのとき、ひとりの男が私に尋ねた。
「失礼ですが、お名前は?」
 私は一種だけ硬直した。ひとしきりの悲劇は終わっている。だが物語が終わっても役者と観客たちの生活は続くように、私はこの瞬間から改めて生き続ける必要があった。そして記憶は何ひとつ思い出せないことも知っている。
 私は質問に対して返事はせず、裸のまま、カメラに方に向かって手を振り、微笑み返すことしかできなかった。

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