(創作)dialogue
「それで?」
彼女は言った。ぼくは口を少し強くとがらせて、息を吸った。
「それだけ」
小さな声で呟いたが、彼女には聞こえているだろうか。
「なにを言いたいの?」
なにかを言いたくはなかった。ただ、彼女と言葉を交わしたかっただけだ。
昼のファミレスは混んでいる。周りからは色々な人たちの話し声が聞こえた。それに対抗してぼくたちも大きな声で喋らないと、互いが言っていることを聞き取れないだろう。ぼくはストローでメロンソーダを飲みながら、グラスに浮かぶ氷を見つめていた。
「そういえば」
唐突に彼女は話題を変えた。いや、そもそも話題なんてものはなかった。ストローをつまみながら、彼女の方を見る。店内の照明は方々から床に光を落として、ぼくたちの影は砕けたように重なり合いながら散乱していた。ほかのテーブルにいる人の声は、近いにもかかわらず彼方から聞こえてくるようで、すべて小難しい外国語としか思えない。
彼女は「そういえば」の続きをずっと考えているようだった。彼女が持っているスプーンは人差し指と親指につままれながら、下の方を向いている。眠気をこらえるみたいに、目線は上下に揺れていた。
「なんでもない」
そしてまた、沈黙する。なにか追加で注文しよう、とぼくが提案すると、彼女は首を縦に振った。メニュー表を開いて、サラダとスイーツのページを見る。ぼくはサラダを頼みたかった。
「これ、二人で食べよう」
そう言って、大盛りのサラダの写真を指さす。スープをすすって、彼女は顔を上げる。
「ううん」
首を横に振った。
彼女はぼくの腕を掴んで、強引に動かした。サラダから離れたぼくの指先は、彼女が開いたページに運ばれていく。
「これでどう?」
「ピザ?」
「サラミのやつね」
「食べられる?」
「分からない」
彼女はぼくの方を見て、声を出さずに笑った。そのとき、ぼく自身はどんな顔をしていたのかは分からない。注文して待っているあいだ、ぼくはドリンクバーに行った。飲み物を取ってこようか彼女にも聞くべきだったことを思い出したときには、すでにグラスへソーダをいっぱいに注いだあとだった。こぼさないように、人とぶつからないように、慎重に歩く。目の前を何人かの学生が通り過ぎて、少し苛立った。
テーブルに戻ってきたとき、すでにピザが届いていた。
「早いね」
彼女の向かい側に座ってから、そう言った。
「技術の進歩」
「そういうものかな」
彼女の正面に座ると、いつも新鮮な気分になる。これは別に良い意味ではなかったし、悪い意味でもなかった。
八等分されたピザを口に運ぶ。片手で持ち上げて、口をあんぐりと開けた。見ると、彼女も同じような姿勢で食べている。お互い、ばかみたいだな、と思った。テレビコマーシャルのように、チーズが生地ぜんたいから切り離されて、粘っこく伸びるのを期待していたが、どうやら少し冷めていたらしく、咀嚼しても厚みのないパンを食べている気がした。
彼女の口元が赤くなっている。ぼくはそれをしばらく眺めていた。気づかれる。
「なにか付いてる?」
「なにも」
食べていたピザの最後のひとかけらを口の中に放り込んだ。皿の上にはまだ何枚かピザが残っている。具材がサラミしかないせいか、ケチャップの色は思っていたよりも濃く見えた。二枚目の切れ端に手を伸ばす。
彼女はこちらをじっと見つめていた。
「なに?」
そう訊ねた直後、ぼくは咄嗟に手の甲で唇を拭った。
「ケチャップが付いてるよ」
落ち着いたふうに、そう、と返した。
「でも、もう消えた」
ぼくはまた、そう、と言う。彼女も、うん、と頷いた。
すでに二人とも食べ飽きて、料理にはほとんど手をつけていなかった。店員が途中で空になった皿を片付ける。テーブルに残ったのは、ぼくと彼女のグラスと、数切れのピザだけだった。おもむろにストローをくわえる。すでに中身は飲み干していた。それでも喉を潤そうとすると、溶けかかった氷の隙間を冷たい空気が這いずりまわる音がする。グラスの表面は結露して、触ると指先が濡れた。彼女は退屈そうにしているが、実際なにを考えているかは分からない。
隣のテーブルにはいつのまにか一組のカップルが座っていた。ぼくの背後の席だから、不透明なガラスで区切られていても、集中すれば二人の会話は聞き取れる。あくびを噛み殺しながら、うしろからの声を意識してみた。
「サラダは?」
「いいよ」
「いるの?」
「いいよ」
しばらく沈黙。
「だから?」
「いらないってこと」
「じゃあなにが食べたい?」
「なんでも」
どちらも不機嫌そうだった。
「私はこれ、と、これ」
男の方が噴き出した。
正面から視線を感じて、ぼくは彼女を見た。彼女がぼくを見ている。そのまま顔は逸らさなかったが、特に喋ることなかった。引き続き隣席の男女の会話を聞く。
「さっきから、なにかあるの?」
「いや」
「あるなら言って」
また沈黙が続くが、聞き耳をよく立ててみると、どうやら男が、呟くように小声でなにかを喋っているようだった。相変わらず、ぼくたちは目を合わせ続けている。ようやく、彼女は口元を拭いた。使ったティッシュは握りつぶして、ピザの皿に置く。
緊張感はぼくたちのところまで伝染したようだった。
「それで?」
女の声だ。今度は誰も話さないかわりに、男が笑い出した。はっきり聞こえる。しかし、なにかをこらえてあるようでもあった。ぼくは残ったピザに手を伸ばす。彼女ももう一枚を取った。
気づけば長いあいだこの店に居座っていたらしく、はじめに来たときよりもずっと客の数は少なくなっていた。風が止むように喧騒もすっかり収まっている。店内のBGMまで聞こえるほどだった。見えないところから、保険会社の営業が顧客を説得する声もする。喉が渇いてきた。しかし、いま一番気になっているのは、やはり隣席の二人だけだ。
男の笑いが消えた。再び、ぼくは彼女と顔を見合わせる。彼女もこの会話を聞いていたのだろうか。見ると、顎にまたケチャップが付着している。今度は教えてあげよう。そう思った。かじっていたピザを口から離し、喋ろうとする。だが、隣の男の方が早かった。
「別れてみよう」
はっきり聞こえた。ぼくはまた、ゆっくりとピザを口に含める。そしてそれまでよりもずっと強く、目の前の彼女を見つめた。
そのあとの隣席のようすはよく分からない。しかし、思っていたよりも落ち着いていたのは確かだ。ただ、ぼそぼそと声が届く。それだけだ。
ぼくはおかしくて仕方がなかった。理由は特にない。一緒にいる彼女も、楽しい気分になっているらしい。ぼくは声を出さないように、冷えたピザを口に押しこんで、必死に笑いをこらえていた。だが抑えれば抑えるほど、面白くなってくる。彼女は一切れのピザを丸ごと、口に頬張ったらしい。噴き出さないように両手で必死に口元を隠していた。
店内は時間を経るごとに静かになっていく。ぼくたちは最後のピザを食べながら、なんとか無言になりきろうとしていた。そろそろ店を出る支度をしなければならない。これを飲み込んだら、さっさと会計を済ませよう。二人で頷いた。
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