(創作)遊園地の大人たち
降水確率は九十パーセントと今朝の天気予報は言っていた。ぼくが仕事を終えるころには、窓を這うしずくの群れが、ちらちらとふるえながら音を立てはじめていた。ちょうど夜の十時だ。腕時計と壁にかかっている時計の針を見比べると、会社の時計は三分早いことがわかった。今日の業績をぜんぶパソコンに入力したら帰れる。あと少しだ。そう自分に言い聞かせながら指の関節を曲げ伸ばししてキーボードを押しつづけるが、頭はぼんやりとして仕事に集中できなかった。
雨の音はさっきよりも強くなっているが、本当はまどろんだぼくの耳が普段よりも敏感になっているせいなのではないか、と疑ってしまう。節電のために暖房はもう消されていて、部屋の明かりも消えていた。日中は蟻の巣のように喧騒としていたオフィスは、日が傾くにつれて静かになり、しまいにはぼくだけが残ってしまった。電気スタンドはスポットライトのようにぼくの手元を照らしている。観客がいない舞台で、ぼくは慣れない役柄を演じているみたいだった。外のようすに反比例して、ここは何もかもが静止している。重ねられた書類や電源の落ちたパソコン。冷たいデスクたちは、いまだけはただの四角形に落ちぶれていた。時計を見上げると十時二十六分を指している。二十六引く三…。そんな単純な計算でも、ようやく解答を出せたのは、つぎに瞼を開けたときだった。
気づけば、ぼくはすこし眠ってしまっていたらしい。首筋から肩甲骨にかけて重苦しい痛みがあった。どうやら、そのまま机に頭を伏せて、ほとんど身動きをとらなかったようだ。パソコンの画面を見ると、めちゃくちゃな数字が入力してある。ため息と一緒に、仕事への気力も吐き出した。イスの背もたれに寄りかかり、大きく体を伸ばす。両手がま後ろにある窓に当たった。ひやりとした感触が指先に届き、ぼくは目が覚めた。
ジーン・ケリーの「雨に唄えば」を歌ったあと、今度はB・J・トーマスの「雨に濡れても」を口ずさみ、会社をあとにした。仕事は放っておいた。持ってきた黒い傘をささず、濡れたスーツを着て歩くと、泳ぎながら歩いているようだし、裸になるより体が冷える。革靴のなかへ滑りこんできた雨水がつま先をくすぐって、ぼくは笑いそうになった。背後にある会社を見上げると、ぼくが使っていたパソコンの電光が窓から差している。電源を落とすのを忘れていたが、もはや戻る気はなかった。最近フランスの有名な犯罪映画を観たぼくは、なんだか忘れものをして夜中の会社に戻るのが怖かったからだ。
傘を開いて、逆さにする。しばらくそのまま歩いていると、内側に水が溜まってくる。夜を染み込ませたような黒いアスファルトの道にはぼく一人しかいなかった。ぼつ、ぼつ、ぼつ、と大きな雨粒が傘に当たる。思い切って革靴を脱ぎ、傘にできた海に放り投げると、小舟のように浮いた。裸足で踏む道は、思っていたよりも気持ちがよい。ときおり道を走る車がそばを通りすぎるたび、回転するタイヤは波のように水たまりをざわめかせる。地面を割って生えた雑草は燃えるようにゆれていた。
駅のそばにある公園に近づくと、そこにはぼくと同じような裸足のサラリーマンたちが集まっていた。ジャングルジムを取り囲んで、手を繋ぎながら踊っている。ほかにも群れからはぐれたような大人たちが何人もぼくの周りで立っていた。
「ベルイマンかフェリーニの映画みたい」
そう言ったのは、少し離れたところにいる、絵に描いたような典型的なOL風の女の人だった。うしろに結んだ髪の毛が濡れて、スーツにべったりとくっついている。顔が長くて、薄いそばかすが見えた。そしてやはり、靴を脱いでいる。
この公園は周囲を欅やプラタナスやクスノキで取り囲まれていて、ま上から見るとゆがんだ心臓みたいなかたちに見えるはずだ。少し大きいが、遊具は七,八個しかなくて、とても貧弱な印象を受ける。いつも夕方になると、帰巣するカラスたちがここに大挙していた。砂場には糞を埋める猫を近づけないように、柵を設けている。ペンキの剥がれかかった動物の看板は、夜な夜な動き出すと近所の子供たちのあいだでうわさになっていた。砂利のうえには、雨でできた水路がうねり、くねり、重なりながら長く伸びている。古い外灯は点滅していた。
OL風の彼女は本当にOLだったらしい。ぼくと同じころに公園に着いたまま、一緒にあのダンスを傍観している。
「あなたのその傘、とてもユニークだと思う」
そろそろ水が溜まりすぎて溢れてきた逆さまのそれを見て彼女は笑った。ぼくも笑った。
「ここにいる人、みんな靴を脱いでるの、不思議ね」
ぼくはまた笑った。そうですね、と返事をする。
「あなたも残業ほったらかし?」
質問に対して、ぼくはううなずいた。
踊る人たち以外にも、公園には水のうえを跳ねまわったり、泥を顔に塗ったり、傘でチャンバラをする人たちがいた。ぼくたちは、それを見て笑った。
「私は、もうあんなことできない。やりたくても、できない」
そばかすのある頬にえくぼを浮かばせながら、同時に悲しそうな、複雑な表情をして彼女は言う。そんなことないですよ、と言おうとすると、持っていた傘から雨水があふれて、ちょうど一緒に浮いていた革靴も地面に落ちてしまった。
「私、もうそんな気分になれないんだと思う」
ぼくは靴を拾って履きなおす。泥まみれの足が靴にはまると、いやな肌感がすこしだけ気分を悪くさせる。
そんなことはないのです、とぼくはリズムをとるように靴のかかとを三回鳴らし、彼女の目を見つめた。そして手を合わせる。
「オズの魔法使ね」
そう言って彼女はまた優しい笑顔を見せた。
歌ったり踊ったりしているサラリーマンたちの馬鹿騒ぎは見ているだけで楽しかった。声を出して笑ったのは今年がこれが最初なのかと思えるほど、ぼくは面白がった。公園の外灯に照らされた足元を見ると、小さな足跡がいくつもぬかるみに貼りついている。みんなかれらの足なはずだが、ぼくが思っていたよりも小さい。
泥だらけの足を躊躇なく靴にねじり込み、彼女は靴を履きなおす。ストッキングには土の飛沫が付着していていることから、彼女がここまでおよそおだやかではないやり方で来たことが、なんとなく理解できた。そしてぼくたちは、大きな木の根本にある、誰も見かけることのない静かな草々のうえで、手をにぎりあって不慣れなダンスをした。
「今度はベルトルッチね」
遠くのサラリーマンたちを眺めながら、少し息を切らした彼女がささやいた。
踊っているぼくたちを、何人かが発見した。この時点で逃げるべきだったが、ぼくはまだ彼女といたかったし、ようやくいままでの嫌なことをすべて忘れられるような、睡眠にたとえれば一番眠りが深いときにいられていると実感していたせいで、警戒心をほとんどたぎらせていなかった。
「いやな予感がする」
彼女がそう言うからぼくはかれらの目線に目線をかさねた。するとかれらは、どうやらぼくたちの履いている靴を見つめているらしい。なにかつぶやいているが、ぼくの耳に声は届かない。
彼女の手に引かれて、その場を走って立ち去った。途中、大袈裟なくらいに多すぎる人の波をかき分けて公園を脱出する。雨はまだ降っているが体は熱く、肌に触れると同時に水分は蒸発してしまいそうなほどだ。駅までの距離は遠くはなく、疾走すれば三分もかからないだろう。すでに終電は過ぎているが、とにかくぼくたちは電車に乗らなければならなかった。傘は公園に捨てて、濡れた舗道を踏みながら彼女と一緒に並んで進んでいく。
極端な一点透視で描かれたような街路樹の列のあいまを縫うと、ダンボールで全身を覆ったホームレスと目があった。住まいを無くして、駅の周辺を徘徊するかれらはボロボロの靴と服を身につけ、ぼくと彼女を無表情で見つめている。そこになんの感情も認められない。ぼくは「シャイニング」を思い出した。ただ、影のなかにいるにもかかわらず、彼の目はまるで照明かなにかのように発光していて、放射状に道を照らしている。
顔には雨粒が当たり、まぶたを開けつづけるのも困難だった。だがうっすらと見える前方の景色は、疲労感を癒すように少しずつ駅を大きして映している。そばを自転車が通る。しばらくぼくたちと並走していたが、速度をあげて追い抜いていった。
駅に着くと、改札を飛びこえてぼくたちはホームに立った。終電はとっくに過ぎていて、駅員もなぜか無関心を装っている。ほかには誰もいない。ただ白いタイルが貼られたホームに、どこからか聞こえる高い音だけが反響しているだけだった。息を切らしながら彼女に向かい合うと、彼女もまたぼくの方を見ていた。
「楽しかった」
そう彼女が言ったとき、レールをふるわせながら、見たことのない電車がぼくたちの目のまえで停まった。到着のアナウンスはなく、車内に人影もない。停車すると同時に、車内の吊り革が一斉にゆれた。
「乗ってみる?」
彼女の提案を、ぼくは断りきれないまま、曖昧にうなずいてみせた。故障しているのか、ドアがややぎこちなく開く。それ以外はなんの変哲もない電車だった。
ドアが閉まると、助走をつけるように電車はゆっくりと走り出す。たったふたりを乗せた電車は暗いトンネルに向かって消えていくが、そこに思っているほど暗い予感はしなかった。かといって明るいなにかを見出せるわけでもない。そしてそのホームにふたたび電車がやってくるのは、ダイヤ通りに、早朝の始発まで待つ必要があった。
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