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「スタディ」とデザインにまつわるちょっとこわい話

スタディという英語をご存知の方はたくさんいらっしゃると思います。私などの世代では、中学生の頃に基本の英単語として「勉強する」と習いました。
このスタディという単語、じつはデザイン教育においては少し違ったニュアンスで多用します。

前回は、私が取り組んでいる全世代に向けたデザインスクール「デザインレッスン」についてお話しをしました。その中で、「デザインのプロセスを経て」ということを述べたと思います。デザインのプロセスとは?その一端を今回は「スタディ」をテーマにお話しをしようと思います。

勉強ではなく「スタディをする」?
結婚後しばらくして、デザインの世界とは無縁の妻に「ちょっとスタディが足りなくて」だったか「もう少しスタディしたいから」といったときのことでしょうか。
正確になんと言ったのかは覚えていませんが、その時の妻は訝しげな表情で「なんだか宗教っぽい…何それ」といったような返しをされたことがあります。何かの修行のように聞こえたのでしょうか、それとも私が忙しくて強張った顔つきで言ったためにそう感じたのでしょうか、今となっては何か怪しげな儀式のように思われたということだけを記憶しています。

この「スタディ」という用語は、デザイン系の中でもとくに建築学科において多用されています。
スタディが足りない、次のスタディは…、このスタディから得られたものは…、スタディを重ねた結果…云々。勉強を当て込むこともできますが、勉強だと漠然としすぎていてピンときません。

さてこのスタディ、私たちが使うニュアンスとしては、
「『試しにこうしてみよう』というアイデアをいろいろと繰り返す、クリエイティブを高めるための積極的な実験や検証」
という意味合いで使うのです。丸がダメなら四角で、それもだめなら三角で試してみる、といったイメージというと少しわかるかもしれません。

朝出かける時に洋服に着替えます。選んだ洋服を合わせてみて、なんだかしっくりこない。たとえば小さな子どもで、上も下も柄のお洋服を着ている子はわりと多く見られますよね。それはそれで可愛らしくて微笑ましく見ていますが、上か下かどちらかにするとより柄のお洋服の可愛らしさが際立って良い感じになります。
その時、この柄の上着にはどんなズボンが合うだろう?と、真っ赤なズボンを合わせます。全体に赤すぎてもう少し色味を落ち着かせたいと思い、次にワインレッドのズボンにします。
これでうまくまとまったと、満足して出かけていきます。
これがスタディです。

スタディはデザインワークの基本動作です。そう考えるとほとんど多くの方が、毎朝スタディをしていることになります。

コーディネートとデザインの違い
さて、いま挙げた例は、デザインではなくコーディネートではないの?という方がたくさんいらっしゃると思います。
まさにその通り、いわゆるファッションコーディネートです。
ですからコーディネートのスタディといったらより正しいでしょう。
そして、コーディネートというものでよく耳にするのがインテリアコーディネートです。
これも、部屋の床に敷くラグはどのようなものにするか、テーブルやソファはどうするか、照明器具はどんなものにするか、といったように、空間内部(=インテリア)にどんなお洋服を選んで着せていくかということで良いかと思います。その際、組み合わせを考えて、あれやこれやとスタディするわけですね。

このように紐解いてみると、コーディネートとデザインは、明確に似て非なるものということがわかります。どちらにもデザインワークとしてのスタディを伴いますが、コーディネートというのは「今あるものから選びとり」組み合わせをスタディする取り組みです。
一方デザインは、「今ないものを新たに創り出す」ためにスタディをします。
ファッションの例で言えば、あるモデルさんが、すでに売られているもので全体をコーディネートしました。ところが最後の決め手としてのストールになかなかいいものがない。そこでピッタリとくるストールを自分で考えて1から創って全体のコーディネートを完成させたとしましょう。
この場合、このモデルさんはストールを「デザイン」し、ファッションを「コーディネート」したということになります。

「赤紫問題」
デザイン思考と謳われるようになって久しいですが、この「コーディネート」と「デザイン」との違いを踏まえた上で、ちょっとしたデザイン思考の例についてお話をしようと思います。今度は色鉛筆の例です。

12色の色鉛筆がケースに入っています。その中には「赤紫色」がありません。夕焼け空を描くためには、どうしても赤紫色が必要です。ここでどう考えるかが非常に重要なポイントになります。「赤紫色がないから買いにいく」と即座に文房具店に走る。もちろんそこには綺麗に調色された赤紫色の色鉛筆が置いてあり、それを無事購入して夕焼け空を描くことができました。ちゃんと問題を解決することができたわけです。
しかし、近所の文房具店に赤紫色の色鉛筆が置いていなかった場合、皆さんはどうするでしょうか。現代であればインターネットで検索し、ちょうど良いものを選んで購入する方も多いと想像します。これも、ちゃんと「赤紫問題」を解決することができます。ところが残念なことに、インターネットで購入した場合、商品の到着を待っていたのでは納期に間に合わないことが分かりました。この場合他の手を考えなくてはなりません。
そうすると、「持っている知人に聞いて、あれば貸してもらう」、「直接いくことができる範囲内の他の文房具店に問い合わせてくまなく探す」という選択肢が考えられるでしょうか。それでもなかった場合は途方に暮れてしまいます。

ここで思い出してほしいのが、コーディネートとデザインの違いです。
「今あるものから選びとる」というのがコーディネートでした。「赤紫問題」に対してこれまでは、製品としての赤紫の色鉛筆を探す「コーディネート的思考」で向き合っていたことになります。さてここで「デザイン思考」に切り替えて考え直してみましょう。

デザインは「今ないものを新たに創り出す」という発想です。もうお分かりですね。赤紫は「自分で創ればいい」のです。
この例の場合に限られますが、赤紫色は簡単に表現できます。青色と赤色を混ぜれば紫色はできますから、青とそれより少し多めの赤をバランス良く配合しながら画面に塗れば良いのです。知識としては、
・青と赤が混ざると紫になるということ
・鉛筆は細かな粒子が画面にくっつくことで色や形を表していること
だけであって、特別な専門知識が必要ということではなさそうです。
知識を得ているかどうかというよりは、「創る」という発想=デザイン思考に切り替えられるかどうかがこの問題を解く鍵になることでしょう。
もっというと、この赤と青の粒々の配合は、本人の意思で自由に決めることができますから、より青みがかった部分やより赤が強く出てくる部分など、購入した1本の赤紫色で描くよりも豊かな表現にすることができます。もちろん1回ではうまくいきません。だからそこに「スタディ」があるのです。

スタディを重ねるうちに、「じゃあ黄色を混ぜたらどうなるだろう?」とか、「重ねる順番はどっちの方がいいかな?」とか、単に赤紫を表現するという目的から最適解を得るための実験に自ずと変わっていきます。自然とそうした疑問を思い浮かべ、探求していく姿勢はまさに研究です。なるほどデザインや芸術の分野で研究があるのも納得がいきます。

ちょっと怖い話
人は元来「実験的な思考」が備わった生き物です。これをしたらどうなるのか?ふとした瞬間に疑問を抱き試しては失敗を繰り返し、スタディを通して最適解を見出してきました。その積み重ねで現代があることはまず間違いありません。反対に、最適解に至らなかったものは生き残れなかった。そう考えるとなんだか生物の進化にも似ています。これを少し難しい言葉で言うと自然淘汰といいます。環境に適合できなかったものは絶滅していくというダーウィンの進化論がまさにそれです。
すこしこわい話ですが、長い目で見ると人間の中にもこの自然淘汰は例外なくあるはずです。先ほどの赤紫問題で、もし赤紫を買おうと試みたけれども結局手に入れることができなかった人と、手に入らないから青色と赤色で赤紫を創り出した人とではどちらが生き残るのかは火を見るよりも明らかでしょう。大袈裟な話かもしれませんが「デザイン思考のある/なし」が命運を分けることになります。
もちろん環境というと雨や風や気候条件といった自然環境も指しますから、自然環境への適合という点では私たちは今のところ満たしていると考えて良いと思います。ただし、他の動植物と違って私たちにとっての自然環境は、先人によって人工的に作り出された環境も含めての自然環境ではないでしょうか。

たとえば「お金」という先人が生み出した価値を完全に無視して生きようとすると、自給自足という手はなくはないですが、飢え死かそれに近い状況に陥ってしまう可能性が非常に高い。「通信」という発明を無視して生きようとしてもまたしかりです。「通信」を巧みに使いこなし「お金」を得て社会・経済活動に参加しているのが現代の人々ですから、そこに乗れないと残念ながら生きていくことが難しくなると言わざるを得ない。ほかにもまだまだ、私たちは自らで作り出した環境があり、そこに順応することで種を保存しているとも言えそうです。
そうした発明による人工的環境の創造で私が最近もっとも危惧しているのが人工知能「AI」です。私が子供の頃に見た近未来がいよいよやってきています。単純な作業はもちろんのこと、今では自動運転だったり、文章やキャッチコピーの自動作成、デザインですら自動生成されるような開発が進められています。

デザインの例で言うと、「〇〇ピクセル×〇〇ピクセル」のフレームと購買層を指定すると、膨大なデータの中から適切な配色を選択し、レイアウトをし、キャッチコピーまでAIが自動で決める。「はい、バナーの出来上がり」です。すでにあるものから最適な組み合わせを導き出すという取り組み、どこかで聞いたような・・・朝の洋服選び、つまりコーディネートです。もともと人がしていたスタディを完全にAIが担ってしまう。

ちょっとこわいですね。でもこの流れはだれにも止めようがありませんから、赤紫を創ったような思考で臨むしかありません。私はAIに関しては門外漢ですので巷で耳にしたような情報しか持ち合わせていませんが、AI はそもそも新しい情報を人が主体となって入力し学習させなければ機能しないそうです。つまり0を1にすることは今の時点では苦手としているとのことでした。

発想、つまりデザイン思考を鍛えることは未来をつくることでもあり、未来の道具に利用されないためのお守りづくりなのかもしれません。

さてでは発想はどのように鍛えるのか、次回はどうやらそんな話になりそうですね。

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