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超私的デザイン論④-リートフェルトへの素朴な疑問・研究の種とデザイン思考-

第三回では、デザインとその再現性についてのお話をしてきました。今回はオランダの家具職人でデザイナー、そして建築家とも呼ばれるヘリット・トーマス・リートフェルト(Gerrit Thomas Rietvelt, 1888-1964)について、数回にわたり話を進めていこうと思います。

前衛芸術運動「デ・ステイル」
今から100年ほど昔になりますが、ロシアも含むヨーロッパ各地で新しい芸術を目指す運動が興っていました。イタリア未来派、ドイツ工作連盟、ゼセッション、ロシア構成主義など、これらは主義主張を高らかに掲げた近代芸術運動として現在では位置付けられているものです。
技術革新や社会・政治との関わり方が劇的に変わり、それらに伴って旧来の価値観を払拭し新しい世の中をつくっていこうとするこれらの取り組みは、先端的という言葉のニュアンスを有する「前衛」と表現されるようになりました。
その前衛芸術運動のひとつにオランダのデ・ステイルがあります。
このデ・ステイルは、赤・青・黄の三原色と白黒によって様々なプロポーションの矩形が描かれたピート・モンドリアンの抽象絵画に代表される新たな芸術表現のスタイルとして現在でも広く知られています。
デ・ステイルというのはオランダ語で、英語ではザ・スタイルです。このことからも、新たな「様式」を提唱することに主眼を置いた取り組みであることが分かります。では一体、どのようにして新たな様式をつくろうと試みたのでしょうか。
先ほど例に挙げた、デ・ステイルの代表的な画家であるピート・モンドリアンは、その初期の絵画作品のひとつで「埠頭」と名付けられた名画を残しています。
埠頭と聞いたときに、皆さんはどのような風景を思い浮かべるでしょうか。眼前には船が行き交う海が広がり、キラキラと美しく描写されている様子や、曇天で荒っぽい水飛沫が力強く描かれている様子などを私なら思い浮かべます。海運のための倉庫やクレーンなんかを思い浮かべる人もいるかもしれません。
さて、モンドリアンが見た埠頭。それは、白いキャンバスの上に、+と−のような記号のような模様が黒い線で無数に描かれたもので、それらが一定の円弧状のエリアの中に散りばめられるというものでした。およそ、先述した私がイメージした埠頭とは似ても似つかない、不思議な抽象画としてまとめられています。
歴史的な背景やその意図を知らないままでは、ただただ理解に苦しむという感想が生まれるのも不思議ではありません。しかし、具象的にイメージされる「埠頭」を、極めて高潔に、静的でありつつも時事刻々と僅かに変化する動きを彼は表現したのでした。極限まで物事を削ぎ落とし、抽象化して描くという彼の試みには、現在では私は感動すら覚えます。
さてこのデ・ステイルは、一般的には1917年に始まり1932年に終焉を迎えたとされています。それは、この運動を主宰したオランダ人の芸術家、テオ・ファン・ドゥースブルフが機関紙「デ・ステイル」を創刊し、彼が亡くなるまでの期間とされているのがその理由です。
このドゥースブルフとモンドリアンはデ・ステイルのいわゆる原動力のような中心的な存在で、他にも彫刻家や建築家、都市計画家、神学者や数学者までもが関わる、多岐にわたるジャンルの専門家が入れ替わり立ち替わり参加する一大ムーブメントとなります。
リートフェルトはグループ発足当初は名を連ねていませんでしたが、後にデ・ステイルの代表的なメンバーのひとりとして確固たる位置を獲得し、現在でもリートフェルトはその代表的作家と一般的に認められています。

リートフェルトとデ・ステイル
リートフェルトの父は昔ながらの家具職人で、彼自身も若い頃から親のもとで修行を積み、家具職人としてキャリアをスタートさせました。
独立して間もない頃に自身の工房で部材接合の実験をしていたようで、その接合方法が後の「レッド・アンド・ブルーチェア」へと昇華していきます。
その接合方法は、正方形断面の3本の角材を、x, y, zの軸上に、それぞれの面が合わさるように3次元に組み合わせるというものでした。
角材自体には、丸ダボでそれぞれを接ぐための丸穴を開ける加工が施されているのみの、たいへん簡素なジョイントです。
接合部は1箇所に集まっていて、それぞれの方向に角材の端部が延びており、x, y, zの座標軸がそのままボリュームをもって立体となった構成です。一部の専門家の間では「デカルト座標接合」と呼称されたりもします。
リートフェルトはこの構成の接合方法で、椅子の構造となる架構を組みます。垂直加重を支えるための柱材(=脚)となる垂直に立てられた2本の角材に、座面や背板をのせるための水平の角材を渡し、井桁状に組んでいくといった具合です。この時、架構の外側に端部としてあらわれる接合部分は、角材の側面に直交して合わさるもう一本の角材は、その断面が切り揃えられて同面(どうづら)とするのではなく、ある一定の長さが突き出した状態で組まれます。たとえば、垂直材に対して水平材が一定の寸法分外側に突出するといった構成です。
ちなみに、外側へどれだけ突き出すかというと、使用している角材の寸法分です。3センチ角の材を使用していれば、外側に3センチだけ突き出すといった具合です。

このように、端部が突き出した接合方法を展開・延長してできた架構は、椅子としての機能を保ちながらも、空間に対して軽快さや浮遊感を創り出し、結果としてデ・ステイルが標榜した抽象化が体現されているとして評価されていきます。
空間に散らばった抽象的な線(角材)と面(座面・背板)が一瞬のうちに空間に凝固した印象を与えるというのが、即ちデ・ステイルの理念と見事に一致しているという評価です。たしかに、先述したモンドリアンの「埠頭」にも同じようなことがいえそうです。

リートフェルトは、この特徴的な架構の構成に端を発し、当初は木目の素地そのままのデザインとして椅子を制作をしていました。または白や赤の単色といった椅子もあり、現在広く知られている、赤・青・黄の三原色と黒で塗り分けられた「レッド・アンド・ブルーチェア」となったのは後年になってからです。
デ・ステイルの理念のひとつであった三原色。後にそのように塗り分けたことが、この近代芸術運動の金字塔としての評価を盤石なものとする結果に至ります。

研究の種
さてここまでは、大学で教えられる一般的な内容です。リートフェルトといえば、デ・ステイル。レッド・アンド・ブルーチェアがその運動の代表作、というわけです。
しかしながら、ここまでの私の説明の仕方が適切なものではなかったのかも知れませんが、ひとつ素朴な疑問が残ります。
それは、「後年になってから、三原色と黒に塗り分けられた」という点に他なりません。

リートフェルトは独立間もない頃から、デ・ステイルとはおそらく一定の距離をおきながら、独自の角材の構成方法の実験をしていました。その生い立ちを紐解いても、地元の家具職人としての父親に職人としての技術を学び、特別な高等教育を受けることなく若くして仕事に勤しむことから、若きリートフェルトが名だたる芸術家や建築家たちとの交流を持っていた可能性は否めないものの、その可能性は低いと想像するのが普通でしょう。
もともとピート・モンドリアンや、創設者とされるドゥースブルフらのような、知名度のある人物と接触していたとは考えにくい。だからデ・ステイルの一員として、代表作となる椅子を目指し、メンバーとしての責務みたいな心理を抱える中でデザインをしたというのは、どうも違いそうな気がします。父親の家具も、伝統的なものでしかなかった。ぽっと出の若い家具職人がなぜそのような接合の実験を…?

リートフェルトがデカルト座標接合と称される構成法の実験を自身の工房でしていた理由は、実はデ・ステイルの運動とは少し違うところにあるのではないか。これが私がふと思った素朴な疑問です。

このような疑問を抱いたのは、私がまだ20代後半、もうしばらくしたら30歳にもなろうかという頃でした。私の友人のほとんどは、会社勤めで結婚していく年齢で、家や車を購入し、家庭をもって子どもを育てている友人もいます。そんな友人たちを横目に、結婚式のご祝儀を出すこともままならない私はどうしてもこの疑問に対するこたえが気になり、私なりに調べてみようと、大学院の博士後期課程での研究テーマとすることになりました。
もちろんテーマを決めるにあたり、師匠と相談し、議論をする中で生まれたテーマでした。その後しばらくは、このリートフェルトのレッド・アンド・ブルーチェアを巡って目を皿にして研究活動を進めていきます。

研究とデザイン思考
私がリートフェルトの家具について調べ始めたときはすでに最も後発と言ってもよく、リートフェルト自身のデザイナーとしての評価や位置付け、生涯を通してデザインされた数百に及ぶ作品などについて、すでに調べ尽くされていたといっても過言ではありませんでした。一般向けのインテリア系雑誌で紹介されているような記事を含めれば、リートフェルトについて書かれたものは枚挙に暇がありません。なんせ、デザインの専門家でなくても知られていて、かつ全世界のデザイン系教育機関で教えられているような対象ですから、もう明らかにすべきことは残っていないと言える、そんな対象でした。

ところが、世の中に存在する全ての論考や書籍をしらみつぶしに読んだとはとても言えませんが、私なりに調べても調べても、「デ・ステイルとは異なる文脈で、なぜあのような接合の実験をしていたのか。何か別の理由があったのではないか?」という私の疑問に満足に答えてくれるものは見つかりませんでした。

大学院には在籍できる年限が決まっているため、年に一度の学会での発表や、審査論文を不定期ですが提出して複数の専門家による複数の審査をパスしなくては修了ができません。調べて尽くされているから、何か新しいことを言ったつもりでも、やはり専門家の先生からすれば二番煎じでしかない内容を論じるに留まってしまうこともあり、審査で落とされることもありました。

ではどうしたら、リートフェルトの真実に近づくことができるのか。そこで私は初心に帰り、疑問の発端となった現存するレッド・アンドブルーチェアそのものを、学生というプロからしたら未熟で信用ならないアマチュアなりに徹底的に測り、調べ尽くすことにします。文献をたくさん読んでも私の疑問に答えてくれるような内容がないなら、モノそのものを極めて高い精度で調べ尽くす。

ないなら創る。これがデザイン思考ということを以前にもお伝えをしましたが、今回も同様で、「ないなら調べて論じてみる」。
私のデザイン思考は、もしかするとこの研究によって開花したのかもしれません。

さて、今回のお話はこのあたりにしておきます。次回はもちろんこの続きで、知られざるリートフェルトの真実への試論として、この後構築していく研究を軸にお話をしていきたいと思います。

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