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自分が考える多様性の話を共有したとき見つめ直したこと。

前に『水槽なんかいくつでもある』という、自分が考える多様性をnoteした。

この水槽の多様性の話をすると、しばしば都合の悪いことがある。なにかというと、「自分も水槽から外されるのではないか」と不安に思われること。

「自分も嫌われるのでは」と考えるのだろう。だけれど、それはこの水槽の話とはまったく方向性が違う。というか、「嫌う」という概念があまりなくなるのかもしれない。

もうすこし噛み砕いて説明すると、対象の相手に憎しみを持っているわけではなく、「この人は別の考え方を持っているんだな、別の水槽に泳いでいるんだな」という感じだ。
この水槽の話は、自分から他人を評価するものではなく、自分が自分を俯瞰するための道具でしかない。アロワナはネオンテトラが嫌いだから、食うのではないし、ネオンテトラが距離を取るもの嫌いだからではない。そういう自然なのだ。

なので、「水槽から外されるのでは」と解釈されるのは、とても不本意でめんどくさい。だいたいこの話をしてしまうと、出会った直後に私が「Likeの水槽」か「Dislikeの水槽」に分別しているようなイメージを持たれる。そういう場合、当の本人も、そのような世界観でものを見ている。

「水槽の自然、多様性」とは、横文字に言い換えれば、「水槽のようなナショナリズム、ダイバーシティ」である。Like,Dislikeの箱に分けるような考えは、これに対するグローバリズムだ。
人は基本的に分かり合えない。分かり合えないことを前提に、どう分かり合おうかというのを考えることが必要だと思う。それが個々の水槽の距離感であって、個々の水槽のバランスを保つ方法かもしれない。Like,Dislikeの箱、絶対的な善悪の二つの箱に分類して統率を図ることはとても分かりやすいグローバリズムだ。

ニーチェの『善悪の彼岸』で、ニーチェは「よい」「わるい」の考え方には奴隷道徳と貴族道徳の二種類あると言った。奴隷道徳は他人との比較が念頭にあり、絶対的な「善」と「悪」に分類する。
対して、貴族道徳は「よい」は自分で選択しようというものだ。その結果として、「わるい」が生じる。

昨年流行った、SEKAI NO OWARIの『Habit』という楽曲のなかに「もっと 曖昧で 繊細で 不明瞭なナニカ」という歌詞が出てくる。
この「不明瞭なナニカ」は、善悪の彼岸で言うところの貴族道徳なのだと思う。個々人が「よい」を自分で選択したことによって、簡単に「善」と「悪」に捉えることが出来ない「不明瞭なナニカ」が形成されていく。善悪に囚われている人ほど、自分で「よい」を選択して、窮屈さから解放されてほしいと思う。

善悪で考えると単純で楽だ。だが、個々人が「よい」を選択できるということが、本当の多様性のある社会なのだと思う。そのような社会は抽象度が高い、ぼんやりとした不明瞭なものになっていくのかもしれない。


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