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毒親との和解(前編)。ー"毒親育ち"のトラウマ


〈はじめに〉

※この記事は、毒親との和解を推奨するものではありません。
※フラッシュバックを引き起こす可能性のある表現があります、十分にご注意ください。


毒親と毒祖母の記憶


私は男尊女卑の根強い田舎で生まれ、18歳まで暮らした。家族構成は、祖母(母方)、父親、母親、私、弟。祖母の家に皆で住んでいた。

アルコール依存症だった祖父には会ったことがない。私が物心ついた頃から祖母は、熱心に宗教施設に通っていた。

子供時代の家族内での権力関係を表すと、

祖母>>>父親>>>弟>>>母親>>>私、だった。

"女"で"子供"の私は、ヒエラルキーの最底辺だった。女の子だからお手伝いをしなさい、といつも言われていた。そのくせ、女の子も勉強しなければならない時代だ、とも言われて猛勉強させられていた。その矛盾したメッセージに、私は混乱していた。

ある日、祖母は私と弟に五千円ずつお小遣いをくれた。そして「お前は姉さんだから、弟にその五千円をやれ。」と言った。意味がわからなかった。だけど私は泣く泣く絶対権力の祖母に従い、弟に五千円を渡した。弟はそんなこと、もちろん覚えていない。私が親や祖母から差別されるのは、日常風景だったからだ。弟は年収二千万以上を稼ぐ医師になった。

「弟は医者で、姉は"患者さん"か!」と父親が笑いながら言った。なかなか上手いことを言ったものだ。

複雑性PTSDと二次加害


私は10代の頃に複雑性PTSDを発症し、精神科に通うようになった。複雑性PTSDの直接の原因についてはここでは触れない。間接的な原因のほうが発病に大きく関わったからだ。

当時はまだ"二次加害"や"被害者非難"などという言葉は聞き慣れなかった。被害を恐れて外に出られなくなった私に、祖母や母親は毎日のように私に"二次加害"の言葉を浴びせた。

「そんなのは大した事じゃない」
「済んだことに囚われずに、さっさと許しなさい」
「世の中にはお前よりもっと大変な人がいるんだ」
「犬に噛まれたと思って早く忘れろ」
「恨んでも何も解決しない」
「お前にも問題があったんじゃないのか」

そんなある日、頭の中で突然バリバリバリと轟音が響いた。それから約10年間の複雑性PTSDの闘病は、生き地獄だった。

フラッシュバック(被害が頭の中で繰り返し再現され、今でも被害を受けている感覚)、回避行動(テレビや新聞を見ることができない、被害に遭った周辺を通れない)、侵入思考(部屋の鍵を閉めているのに、"加害される恐怖"で頭の中がいっぱいになる)、感覚過敏(極端な恐怖、突発的な激怒)などで、まともに学校にも通えなくなった。誰も信用できなくなり、怖くて友だちとも話せなくなった。

18歳で大学に進学し、地元を離れた。だけど心の傷は簡単には癒えなかった。母親や祖母からの二次加害は止まなかった。

「さっさと忘れろ!前向きに生きられないのか!」「過ぎたことをいつまで言ってるんだ!」と連絡がくるたび、会うたびに言われた。

そんな言葉をかけられるほどに、体調は悪化していった。「もう○んだほうがマシだ」と何度も思ったし、実際に○のうとした。精神科の薬の効果は、わからなかった。

病院に入院している私の姿を見て、父親は「このままては本当に死んでしまう」と思ったという。そして祖母と母親から、私を引き離した。

…地元から遠く離れた土地で、私は生活することになった。何一つ希望はなかった。なぜここまで苦しみながら生きなければいけないのか、わからなかった。

毒親育ちの元恋人


それでも20代半ばを過ぎたころ、フラッシュバックの頻度が減っていった。回復し始めたのである。その頃、職場で出会った恋人は穏やかで優しくて、いつも私の意思を大切にしてくれた。だけど関係は長くは続かなかった。

私はいつも自分を全肯定してくれて、何もかもを受け入れてくれる相手を望んでいた。そうでなければ許せなかった。今思うと"実在しない母親"を求めていたのだと思う。

そんなある日、毒親育ちの男性(K)と出会った。あっという間に私たちは結びついた。たちまち共依存となり、お互いの力を奪い合った。憎しみ合い、軽蔑しながら、離れることができないでいた。私はKをひどく罵り、Kは私に暴力をふるった。

Kは親から暴力を振るわれて育った。私は親から暴言を吐かれて育った。二人とも、もう十分傷ついていた。そして二人ともいつの間にか、毒親と同じ言動を繰り返した。

"母親のような人間にならない"と強く決心しながら、私はただの不完全でちっぽけなひとりの人間で、毒親にそっくりだった。

いつだったか、Kの暗い過去について2時間位ずっと聞かされていた。またこの話か、と退屈しながら。

Kが叫ぶ。「テキトーに聞くんじゃなくて、俺に寄り添え!!」

不快感と嫌悪感でいっぱいだった。なぜKに寄り添わなければいけないのか。寄り添うか寄り添わないかを決める権利は、私にあるのに。

寄り添わない権利


そのときにやっと気づいた。母親もきっと、私に対してこんな気持ちだったんだろう、ということに。

私や私の病気は、得体の知れない、理解もできない、寄り添いたくもない事柄だったんだろう。母親は"母親"としてではなく、"ひとりの不完全な人間"として、私に"寄り添わない"という選択をしたのだ。

それはとても悲しい現実だった。受け入れるまでに長い時間がかかった。そして私はやっと、母親への期待を手放すことができた。

大事な人に、寄り添ってほしい、理解してほしい、受け止めてほしいと望む。だけど相手には、その期待に応えない権利がある。応えなければならない義務はないのだ。

私はひとりの不完全な人間として、ひとりの不完全な人間である母親を理解した。

(後編へ続く)

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