見出し画像

毛布とビールと音楽と

息子の授業参観日があった。校長先生がお話してくださる機会があり、「幸せ」について話してくださった。ある児童のエピソードから校長先生ご自身が幸せな気持ちになった話をしてくれたのだが、強く印象に残ったのは「私(校長先生)は日々子ども達の幸せを願っています。保護者の皆さんもそうであろうと思います。そのためには自分が幸せである必要がある。保護者の皆さんもどうか、日々、幸せを見つけてください」という言葉であった。
なるほど、確かに、と思った。人を幸せにしようと思ったら、まず自分が幸せでないと。確かに。自分が幸せでないと人を幸せにするのはなかなか難しいと思う。
私の幸せとはなんだろう。私の心が満たされるためには?

毛布にくるまって、音楽を聴きながら、ビールが飲みたい。
何もせず、どこにも行かず、誰にも会わず、自分の部屋で、何にも気にせず、毛布にくるまって、音楽を聴きながら、ビールが飲みたい。
20代の頃、よくそうやって過ごした。休みの前の日は、ほぼそうやって過ごした。
そうしていれば、何も要らないと思った。
高価でもない、毛足も長くない、くたっとした、もう何年も使っている毛布にくるまって、自分の好きな音楽を聴きながら、ビールが飲みたい。お気に入りの曲は何度もリピートしながら。

そんなふうにしたのって、最後はいつだろう。5年前?10年前?ひょっとして、20年前?最後がいつだったのかということすら、思い出せないくらい前だ。

毛布はここにある。音楽もいわゆるサブスクってのですぐ聴ける。ビールも冷蔵庫に冷えている。それなのに、なぜ私は毛布にくるまって、音楽を聴きながら、ビールを飲まなくなったのか。

いつに間にか、欲しいものも変わってしまった。時間の使い方も、ライフスタイルも、抱えるものも、しなければいけないことも、何もかも。果たして、その変化は良い方向にいっているのか。ひょっとして悪い方向にいっているのでは。自分の中では良い方向だと信じて、ただひたすら日々を過ごしているけれど、真実はいかに。もうそれすら確かめもせずに。

これが、人生の中の役割の変化というものなのか。年齢を経ていく中で変化する役割によるものなのか。だとしたら、なんて窮屈なのだろう。なんてつまらないものなのだろう。
私は、毛布にくるまって音楽を聴きながらビールを飲む余裕さえもないくらい、何かにからめとられて生きているというのか。
それではいけない。きっと何かがいけない。
たまにはその役割とやらを全部全部放り投げて、また、何もない、ただの自分に戻って、毛布にくるまって音楽を聴きながらビールでも飲もうではないか。

そして、ああこの曲いい、って涙流して、涙しょっぱいなとかってひとりごと言ってビールで流して、毛布に涙落ちてそこがまたくたっとして、朝を迎えればいい。
毛布と音楽とビールがあれば、いい。いいのだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?