20年経っても千年一日の公文書管理に涙が出てくる【未来を生きる文章術016】
2002年4月22日のコラム。十年一日どころか二十年一日、いっそタイトルでは千年一日としましたが(^^;;
前回のカメラ付携帯の話題では隔世の感と書きましたが、今回は変わらないなぁ、が感想です。情報公開のお話。
このコラムを書いた前年、情報公開法(行政機関の保有する情報の公開に関する法律)が施行されました。当時5万件ほどだった情報公開請求件数は、総務省が発表している最新のデータによれば15万件と約3倍に増えています。活用が進んでいるのは喜ばしいです。
省庁別にみて外務省の公開状況が劣るのは現在も変わらず、外交機密に関わる特殊性もあるかもしれません。
当時の文章で「この1年の外務省の迷走ぶり」と書いていますが、外交機密費(報償費)の公開をめぐって、論争になっていたことを指しているのかなと思います。
自分の書いた文章に対して「思います」というのもあいまいな言い方ですが、こうした時事的な背景をもとにした文脈はある種のウチワ会話で、時代という文脈を外れてしまうと、意味が分からなくなります。自分でさえ思い出せない、この文章はその典型。
読者の共感を得るためにコンテクスト(文脈)は重要ですが、文脈の依存先を外れると読み取りができなくなります。
この文章の場合は時事的なコンテキストですが、同様のことは地域だったりコミュニティだったり世代だったりについても言えます。
文章の中で、情報公開は意思決定のためにあるということを主張しています。見方を変えると、意思決定過程を透明化するために情報を残すとも言えます。
原発事故の処理、国有地の売却、コロナ感染症対策の立案過程など、公文書管理の不手際が指摘されています。仮にそれぞれの決定をくだす際に、時代の検証に耐えうるような理論的過程を経ずに、忖度や直感で決まっていたとすると、文書の残しようもないでしょう。
公文書管理とは、意思決定過程のあり方を問うものでもあるのです。
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開示度ワーストは外務省、情報公開のそもそもの目的は何?
日経ビジネスExpress2002年4月22日掲載
情報公開法の施行から1年。総務省から、各行政機関への情報公開請求件数と、開示・不開示の決定状況が発表されました。全体として約9割の請求に対して文書の一部であれ公開されている中で、開示率が6割弱と低かったのが外務省です。
この1年の外務省の迷走ぶりを振り返ると、情報公開に人手をさく暇も無かったかと皮肉ってもみたくもなりますが、一方で国会議員発言のメモなど「公開度」が高かった分野もあったと、皮肉ついでに思い出します。
隠された、あるいは公開された情報が国会を揺さぶったのを目のあたりにしたあとだけに、この機会に情報公開の意味合いを振り返っておく必要を感じました。
「行政機関の保有する情報の公開に関する法律」の第一条に目的が述べられています。いわく「政府の有するその諸活動を国民に説明する責務が全うされるようにするとともに、国民の的確な理解と批判の下にある公正で民主的な行政の推進に資する」。
前半にある「説明する責務」という文面に、そういえばこの法律が議論されている頃から、「説明責任(アカウンタビリティ)」という言葉を耳にする機会が増えたことを思い出します。気になるのは後半です。つまりは「行政の推進に資する」ということですから、あくまで執政側の目的です。では国民の側は、情報公開をどのように役立てればいいのでしょうか。
話はすこし飛びますが、クレーム対応にあたっての心がけをご存知でしょうか。自らの責任として答える、相手に反論しない、などあるのですが、大切なことのひとつに「相手に選択肢を与える」ことがあります。「決まりですから」は論外としても、いくら充実した対応をとっても、相手に選択肢を与えなければ、不満を残す可能性があるのです。
人は、自らが事態を掌握していると実感すると、安心し、満足感を覚えます。逆に規定路線にのっているとなると、たとえそれが立派なものでも、どこか不満を抱えるものです。誰だってお釈迦様の掌で旅する孫悟空にはなりたくないですから。
だから、クレームに対して対応を提示するとき、「このようにさせていただきます」ではなく、「こう考えておりますが、いかがでしょうか」と、消費者側に選択権を投げることが重要なのです。
そもそも情報公開とは「相手に選択権を譲る」ことに基盤があるのではないでしょうか。選択肢を抱えた相手が正しい意思決定を行えるようにするために、持てる情報を公開するのです。
企業の場合でも、社会への説明責任というのは、人々が市場の中で企業価値を判断し、自社を選択するかどうかを意思決定するためにこそあるはずです。
市民オンブズマンが自治体の情報公開度を判定し注目を集めているように、情報公開への関心、あるいは情報公開の必要性は今後いっそう高まることでしょう。
われわれは、情報とはテーブルの上の静物ではなく、意思決定という動的な役割を担うために存在するのだということを認識しておきたいものです。そして、開示度の高低に一喜一憂するだけではなく、その向こうに見える、意志決定権をどちらのものと考えているかという姿勢をこそ、冷静な目で判断していかなくてはならないのではないでしょうか。
ゼロ年代に『日経ビジネス』系のウェブメディアに連載していた文章を、15年後に振り返りつつ、現代へのヒントを探ります。歴史が未来を作る。過去の文章に突っ込むという異色の文章指南としてもお楽しみください。