大人の労働と日常の果て

自分はもう十日もすれば二十歳になる。未成年という人生のチュートリアル期間7305日が終わりを告げ、未熟だからと社会にかけられていた制限がほぼ取り払われる。そうして立派に成熟した一人の人間として社会的に認められることになる。

だが実態はどうだろう。自分自身成熟なんて言葉からはかけ離れているように思う。チュートリアルをサボっていたつもりは無いがこの先無事に人間をやっていけるのかが不安でならない。趣味は物心ついたころから変わっていないし特技と呼べるものも無い。精神の根底はまだ少年のままだ。

それでも時が止まってくれることはない。十代はあと240時間もしないうちに終わり永遠に戻ってこない。否応なしに自分を「大人」にしていく。そこに精神的未熟・成熟も関係なくただ時間変化による現象があるだけ。「大人」って言葉は小さい頃の想像よりもずっと空っぽなのかもしれない。

「大人」の義務に労働がある。特別の事情が無いほとんどの人間は働かなくちゃならない。そういうことになっている。
労働に赴き、日銭を稼ぎ、生きていくための物資を買う費用を賄う。その暮らしを間に休憩をはさみながら動けなくなるまで繰り返す。それが「大人」の義務、そういうことになっている。
その現実を冷えた頭で考える、なんでこんなことを?これやる意味ある?と。生命活動を保つことにすら軽く絶望しそうになる。

大多数の人が「働きたくない」と一度は考えたことがあるはず。でもその中で「じゃあ働くの止めよ!」となる人はあまりいない。何故か。
これは大抵働くことによって得られる対価が働く苦痛を上回っているから、で説明がつく。対価が苦痛を上回っていない時もあるがその場合時間の問題で人格が壊れるので一旦考えないものとする。
対価とは何か?給料、やりがい、名声、関係構築etc… 個人だけでなく文化や環境によっても変わってくる。これらすべてを合計した対価としての値が苦痛の値を上回っているから人は働く。
そして苦痛が上回っている人間は次第に苦痛が少ない選択をすることそのものが対価として機能していく。一つも楽しくない環境を変えることができないのも変えることよりもズルズル続けることの方が精神的に楽だからだ。元の人格が壊れ切ると苦痛の感じ方がマヒして対価と苦痛のバランスの取れた新しい人格が出来上がる。ある意味では幸せだが前人格は死ぬかゾンビのように歪に残るだろう。

逆に言えば働いて得られる対価が働かない利点を上回っていないといけないという事でもある。現状日本はそのボーダーギリギリを攻めてるどころかアウト気味だが。ゾンビが大量に産まれている。
対価も苦痛も基準が絶対的でない。やってる当人が嬉しいなら他人に悲しいはずという権利は無いし、当人が苦しいというなら他人がどう言ったってそれは苦しいことだ。人間は感情の起伏から逃れられない。
だからあまりにも「働きたくない」という思いが巨大な人間は働くことに正当性を見出せないということだ。「時給良いよ!」「楽しいよ!」「有名になれるよ!」このどれも巨大な「働きたくない」の前には小鳥の囀り程の価値もない。

このような人間は日銭が稼げないためゆっくりと死に向かうか、誰かしらに縋りつくか、国に障害認定してもらって最低限の経済援助をしてもらうの三択になる。何せ働くことをしないために人間として生きることすら半分放棄しており半分死んでいるような生活になるだろう。巨大な「働きたくない」は「生きたくない」とも言えるかもしれない。

そして苦痛が生活を呑み込み生きることにすら拒否反応を示し始めた状態でも一息に命を絶たないなら必ず生きる利点が生きる苦痛を上回っているはずだ。利点と苦痛のボーダーを越えると自死になるのだろう。働かない人間は生命として極限状態であり文字通り生死の狭間の精神状態になる。
そんな状況を作り出した巨大な「働きたくない」。「働くぐらいなら生死の狭間を彷徨うほうがマシ」とも言い換えられる感情。こんな感情を作り出す労働が「大人」の義務になっている。そして自分はもう少しで立派な大人の仲間入りをするらしい。それが酷く怖い。


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