見出し画像

君たちはどう生きるか

映画と向き合うとは

この映画を最初見た時は宮崎駿が自分自身の走馬灯をフィルムに焼き付けようと試みた映画だと思った。
ぶつ切りのような物語、今までの自身の映画へのオマージュ、記号のように散りばめられた絵画やモチーフ。
宮崎さんはもう冒険活劇のような観客が求める、わかりやすく、新しい物語を作ることには興味がないんだと思った。

しかし鑑賞からしばらく時が経ち、その考えは変わらないながらも、もっと違うレイヤーでこの映画は作られていると思うようになった。

私のイメージする宮崎駿は、キャリアのスタートが東映という会社だったこともあり商業作家としてのスタンスがベースとなっていると思っている。
つまり売れるものを作る作家として映画と向き合っているということ。
それはアニメというヒットしなければ次はない過酷なものづくりの現場にいれば当たり前のスタンスであると思う。
そして高畑勲や大塚康生の影響も大きいのではと思う。これは、あくまで個人的なイメージですが。
この文章を書くために色々なレビューを読みましたが、ここまで各人で感想の違う映画と出会ったことがない。(まるでキューブリック映画のようだ)

宮崎駿の映画の作り方

宮崎駿の映画の作り方は独特。
まず絵がある。
物語の柱となるといくつかのイメージボードと言われる絵を宮崎駿が書くところから企画がスタートする。

脚本やプロットありきではなく、宮崎駿の頭の中のイメージを絞り出すように少しずつ作られてゆく。

物語の最後までイメージボードは作られることなく映画制作はスタートする。
原画制作に入り、イメージボードを待っては原画を作るというサイクルで映画が作られて行く。

つまり結末は宮崎駿自身も明確に知らないまま制作はスタートするのがジブリが始まってからの制作方法だった。

「君たちはどう生きるか」を最初見たときもそういうように作られた映画だと思った。
だが、鑑賞から時間が経ち、何度もストーリーや、登場人物のセリフを反芻すると違う側面を考えるようになった。

宮崎駿の人生

映画の中では宮崎駿の過去作品を思い出させるシーンがいくつもある。
ルパン3世から風立ちぬまで長編監督13本。
それらの情報が映画内には記号的に散りばめられている。

加えて、この物語のベースとなっているのは宮崎駿の人生そのものだ。
宮崎駿は幼少期、戦争の最中、父の工場で作られる零戦と共に育った。
父に対しては戦争に加担したと随分と長いあいだ許すことができなかったと聞く。
だが宮崎駿は兵器自体には道具としてフェティッシュな感情を抱き戦闘機のプラモデルを収集するなど兵器は彼のアイデンティティの一部ともなっている。

母は結核で体が弱く宮崎駿が幼い時分におんぶをせがんだところ、背中が痛く泣いて許して欲しいといわれた。
だが普段は気丈で頭の良い人だったと聞く。
ラピュタのドーラは母がモデルだそうだ。母は美人だったので、あのようなビジュアルにしたのは照れ隠しではと宮崎駿の兄が話している。

戦時中、父の工場と共に家族は宇都宮に疎開した。
幼少期から絵が上手く、本をよく読む子どもだった。

有名な話だが宮崎駿がアニメーション監督を目指すきっかけとなった東映動画が制作した日本初の長編カラーアニメ「白蛇伝」をみたのは中学校3年生の時。
白蛇伝は宮崎駿、高畑勲を見出した大塚康生が動画制作で参加していた。

学習院大学を卒業すると東映動画へ就職する。

そこで出会ったのが大塚康生であり、高畑勲だった。

ある映画の企画に、まだ新人だった高畑勲を監督に大塚康生が推薦し、宮崎駿を(そんな職業はなかったのだが)場面設計職としてスタッフに入れた。
制作されたのは「太陽の王子 ホルスの大冒険」。

宮崎駿、高畑勲を作画面からいつも支えていたのが大塚康生だった。
宮崎駿曰く「アニメーションの入り口を教えてくれた人」。

その後、大塚康生の勧めにより宮崎駿はルパン三世を監督することになる。
オリジナル作品「風の谷のナウシカ」制作をきっかけに当時アニメージュ編集部にいた盟友鈴木敏夫と出会う。
スポンサーから企画書しかなかったナウシカに対して、出資できない理由の一つとして原作がないことを挙げられ、それがアニメージュで漫画連載を始めるきっかけとなった。
ナウシカの原作漫画は度々中断しながら12年の時を経て、もものけ姫の製作前に完結した。(母はもののけ姫制作時に逝去)

スタジオジブリ

高畑勲、宮崎駿という巨大な知性と才能のために作られた城、スタジオジブリ。
前述のスポンサー徳間書店の出資によりナウシカ制作後の1985年に創立された。(当時宮崎駿は44歳)
「魔女の宅急便」までは映画制作時にスタッフを集め完成後は解散。
また映画を作る際に集まる。
そんな方法で映画製作を積み上げていた。
現在、宮﨑駿82歳。
アニメ制作に携わり始めて今年で60年の節目となる。(と思う)

スタジオジブリはただのアニメーション制作会社の存在を超えてほとんどの日本人のある年齢層以下には共通言語となり、アイデンティティの一部となった。

宮崎駿には、そういった状況への違和感があるのではないかと思う。そういったことへのカウンターとしてこの映画は作ったのではないか。ジブリ作品へのモチーフが多く登場するのは、そのような理由ではないかと思う。

要するに、この映画はメタ的にスタジオジブリがもたらした、アニメーション映画へのカウンター(反逆)として制作されたのではということが私が考える総括だ。

映画「君たちはどう生きるか」とは

※以下はストーリーに触れています。

宗教的なモチーフも物語の中に多く盛り込まれている。
遠くを行く、たくさんの帆船は同じ方向に向かっている。
この世界は海に浸かり、生命の母である海にも生き物はほとんどいない。
西洋文化の終焉を伝えるように朽ちたノアの方舟に人や得体のしれない生命が共生している。

過去、この世界にも文化文明があったが、それらが終わった世界としてこの異世界は存在している。
殺生のできない顔のない民は東洋宗教観の象徴だろうか。
殺生を行い、ワラワラにはらわたを食わせるキリコやマヒトはその思想とは切り離された存在。
キリコとヒミは文明の象徴である火を扱う。
ペリカンを燃やす彼女はこの世界の何かの秩序を守っている。

ワラワラは人になるために螺旋を描きながら上へと飛び立つ。
つまり、この世界は、現世の下にあることが描かれる。

現世へと繋がるたくさんの扉を開くと、まるで建物自体が飛んでいるような場所へと飛び出る。
この場所(建物)はきっと浮いている。

というように、スタジオジブリが作ってきた映画や宮崎駿の興味関心のあるモチーフがふんだんに盛り込まれている。

文化の東西を問わず優れた物語には通底するものが存在する。
その物語の根に触れることができた芸術は人類に必要なものとして未来永劫残る。
本質的な人間の感情。それがキャラクターを突き動かし、観るものに共感を覚える。共感を通して感動が生まれる。

一つとてもストレートに伝えているのはマヒトの行動である自傷行為について。
これは父親の権力を振り翳して、負けを帳消しにしようと目論んだ悪意と断定している。
権力を振り翳すことは悪なのだ。

この映画と向き合うために必要なこと

この映画を本質的に理解するために必要なことはただ一つ。
教養だけだ。
芸術、歴史、文学。リベルラルアーツへの教養がなければ、この映画は理解できないように作られている。つまりエンタメのレイヤーで映画を観ることに慣れているものには理解できない。
加えて宮崎駿の感情や人生が注がれた物語である。

ハリウッドのように社会課題をエンタメとしてわかりやすく物語に紛れさせ提示するのとは全く違うものづくりの方法。
つまり、この映画は絶対的に個人の物語だ。
宮崎駿の興味、関心、人生しかここにはない。
商業作家としての衣を脱ぎ捨てた生身の作家宮﨑駿がここにいる。
もしかすると宮崎駿から宮﨑駿としたのもそのせいなのかもしれない。
過去(商業作家)との決別がそこにはあるのではないか。

この映画の前ではマーケティングやエンターテイメントなんて言葉は軽すぎる。
まさに時代を越える芸術としてアニメーションや、映画の枠組みさえ超えて屹立する作品だ。

この映画の真意とは

死者ともう一度会えるのは想像の中。
死別はこの世の一つの地獄。
もう一度あの人に会いたいという思いを映画の中で実現する。
この映画は宮崎駿が愛した人たちへのラブレターのようにも感じる。
そうであるなら、この先この映画の真意は語られることがないのではないか。
答えがなく、明らかにされないことがあることが今の世界では心地良い。

商業作家として駆け抜けた60年を超えて、
誰かに求められる物語ではなく、むき出しの作家として自分の物語を作ったのがこの映画ではないか。

だから解釈しようとすると、よくわからないは正しい。
ただ1人の作家としてわがままに表現したいことを表現した宮﨑駿の想いだけがこの映画には詰まっている。

各キャラクターには宮崎駿が出会った人物が反映されていると感じる。

ヒミがいう。
おじさまありがとう、と。
このメッセージは宮崎駿から高畑勲へのメッセージではないか。それほど想いのつまったセリフのように感じた。

とここまでは大叔父は最初は高畑勲かと思っていたが、この人物は高畑勲でもあり宮崎駿でもあり鈴木敏夫でもあるのではないかと。
つまりスタジオジブリそのものではないか。

大叔父が作ったと言われている建物/異世界の崩壊に対してスタジオジブリの終わりをここでは表現されているのではないか。
鳥たちが鳥そのものに戻り自由に羽ばたく。このシーンはスタジオジブリという檻から解放されたスタッフへの宮崎駿からのエールのように感じた。(糞を撒き散らすあたり性的であり、皮肉っぽいが)

もしかしたら、この映画は宮崎駿作品には珍しく制作前からラストシーンは決められていたのではないか。
このラストシーンは決めていなければ、そこには辿りつかない気がする。
それがスタッフへのエールであればだが。

商業作家としての宮崎駿は終わった。
これからは宮﨑駿として、ただ1人の作家として生きていくのだろう。
様々なことと戦い続けた60年だったと思う。本当に本当にお疲れ様でした。

君たちはどう生きるか
私はこう生きたのだ。
そんな声が聞こえるような映画だった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?