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三島由紀夫の『美しい星』をどう読むか⑩ ボールは投げ返された

 第十章、重一郎は末期の癌になっていた。胃潰瘍と診断されて手術を受け、まずは一雄にだけ真実が告げられる。開いてみたが手の施しようがないことが解ってすぐに縫合したのだと。

 それもそうだ。胃潰瘍で切開手術もないものだが、そんな告知をするのに医者が、控室で一雄を呼び止めて、

「すみませんが、煙草の火を」
 と言つた。そして煙草に火をつけてから、
「御本人はもちろん、お母さんや妹さんにも黙つてゐて、しつかり処理される自信がありますか」

(『美しい星』『決定版三島由紀夫全集第十巻』新潮社2004年)

 煙草を吸ってしまうのには少し驚いた。そういえば昔はどこでも煙草を吸っていたんだなと思いだす。もちろん今でも路上喫煙者は多いが、昔は大抵の室内で煙草が吸われていた。応接セットには煙草とライターと灰皿がセットになっていた。小学校の職員室でも煙草が吸われていた。東大全共闘との討論会でも床が灰皿だった。そういう意味では世の中全体が随分ご清潔になったものだが、漱石や芥川も吸っていた煙草を吸わないと、文学というものは理解できないのかもしれない。

 一雄だけに告げられた秘密はすぐに暁子にもばれてしまう。泣いているところを見られてしまったからだ。

「泣いてゐるのね。……わかつた。やつぱり癌だつたんだわ」
「ちがふよ」

(『美しい星』『決定版三島由紀夫全集第十巻』新潮社2004年)

 それにしてもあれからもう六十年も経つのに、多くの人が癌で死んでいくのは何故だろう。いまではもう誰も水爆実験など話題にしなくなった。フルシチョフとケネディと言われてもピンと来なくなった。ゴルバチョフとレーガンだって忘れかけられているのだ。しかし癌は長らく悪役の座を譲らない。もういい加減に次の時代になっても良さそうなものなのに。

 私は(おそらく)末期癌ではないから、末期癌の事はできるだけ考えないようにしていた。しかし三島由紀夫はここで末期癌を大杉重一郎の運命であるかのように持ち出してきた。いささか安直ではないかとも思うが、何か腹づもりがあるのだろう。

 あるいはもっと悲劇的なことがこれから用意されているのかもしれないし、大杉重一郎が末期癌であることに意味が見出されるのかもしれないが、そんなものは嘘だ。

大事なのは、こんなふうな苦しみや悲しみにはかならず意味があるってことなのよ。

(川上未映子『ヘヴン』講談社 2009年)

 こうコジマは言うが、

「たまたまっていうのは、単純に言って、この世界の仕組みだからだよ」と百瀬は言った。

(川上未映子『ヘヴン』講談社 2009年)

 おそらく百瀬の言い分の方が正しいだろう。

 現実は「たまたま」で苦しみや悲しみに意味はない。大抵の末期癌にも意味はない。

 暁子は泣いていなかった。

「でもお父様の死は、人間の死ぢやありません。私たちはそれを考へなくてはいけないわ」

(『美しい星』『決定版三島由紀夫全集第十巻』新潮社2004年)

 思いだしてもみれば『美しい星』は最初から、まるで芥川龍之介の『歯車』のような、過剰に意味を見出す人々の物語だった。

 アポフェニアとは、無意味な情報の中に関連性を見出す知覚作用のことだ。『美しい星』では大杉家の人々だけではなく、羽黒一味や近所のおばさんまで、そういうものに憑りつかれている。

「すまないが、背中をさすつておくれ」
 と弱々しい、ほとんど卑屈なほどの声で言つた。暁子はその声の哀願、その言葉つき、すべてに父の肉体よりも精神の瓦解をみた。
『こんな凡庸な病人になるなんて』

(『美しい星』『決定版三島由紀夫全集第十巻』新潮社2004年)

 宇宙人たち、少なくとも大杉家の人々と羽黒一味の共通した特徴は、自分たちは特別な存在であるに違いないという思い込みからアポフェニアをこじらせているということだ。

 従って暁子は「凡庸な病人」に成り下がってしまった父親が許せない。彼女は金沢の一件、つまり竹宮は金星人で、金星に帰ったという父の話の真偽を問いただす。父はあの男が「地球人の女たらし」であることを明かしてしまう。それでも暁子は動じることなく、竹宮がただ触媒のような作用をするために招かれた存在なのだと断定する。

「でも面白い遊戯だつたわ。今度は私がお父様の仕組をためす番ね。その仕組がちやんと働いてゐて、どんな虚偽も嚙み砕いて、それをこちら側の真実に変へてゐるか、……どう? お父様は自信があつて?」
「自信があるよ」

(『美しい星』『決定版三島由紀夫全集第十巻』新潮社2004年)

 それは単なる断定ではないのだ。「どんな虚偽も嚙み砕いて、それをこちら側の真実に変へて」しまうゆるぎないリフレーミング力が働いているのだ。彼らは思い込みに振り回されている訳ではないのだ。「信念」に生きているのだ。

 と思えばまた、楯の会の三島由紀夫の姿が思い出される。まだそんな三島由紀夫は存在しないのに。しかしこの屁理屈の原理なくして楯の会の三島由紀夫は存在しえないだろう。

 暁子は言う。

「胃潰瘍といふのは嘘です。お父様は胃癌で、それももう手の施しやうがないんです」
 重一郎の顔が恐怖にひきつるのを暁子は眺めた。黄味を帯びた山梔色の顔いろから血の気が引き、口は何か呟かうとして言葉にならず、みひらかれた目は、突然奪ひ去られたものへ必死に追ひ縋らうとして、視線を射放つたままうつろになつてゐた。彼は枕の凹みへ深く頭を落として動かなくなつた。

(『美しい星』『決定版三島由紀夫全集第十巻』新潮社2004年)

 残酷なことをするものだ。今では癌告知は当然のようにして行われているが、当時の告知率は少なくとも15パーセント以下、あるいはもっと低かったことが予測される。

 それにしても娘からこうもあけすけに、ためらいもなく、報復のように告げられる告知というものはどんなものであろうか。幸い私には同じ体験はないが、一瞬言葉を失うようなことを親しい——と、自分では思っていた相手から言われて、それがあまりにきっぱりした言い方だったので、本当に目の前がくらくらしたことがある。もう何とも誤魔化しようもなく、笑いも出来なかった。あらゆる装飾をはぎ取った暁子の言葉は、ある意味ではあけすけに言うべきではないことをあけすけに言うというレトリックに飾られている。

『こんな父に、どんな怖ろしい真実をも餌にして、それからつくり出した夢を見る能力、あの宇宙人に必須の能力がまだ残つてゐるだらうか? 果して父の歯は、折角与へられたその餌を噛み砕くだけの力があるだらうか? 私にはわからない。もしかすると、私がそんな能力に信頼して、真実を打明けてしまつたのは、まちがひではなかつたらうか?』

(『美しい星』『決定版三島由紀夫全集第十巻』新潮社2004年)

 父親のあまりに人間じみた態度に暁子はこんな不安を抱く。

 確かに重一郎は人間的に振舞う。この時から重一郎はほとんど口をきかなくなり、気休めを言う妻に文句を言う。

 あれほど確実に死に瀕していた人類は、ふたたび、しぶとい力を得て、この病院の一室で死を待つてゐる重一郎を冷酷に嘲笑して、一せいに歓呼の声をあげて、いやらしい繁殖と永生の広野へむかつて、雪崩込むやうに思はれた。何事が起つたのか? 重一郎が死滅する人類を後に残す代はりに、人類が一人亡んでゆく重一郎を置き去りにするやうな事態が生じたのだ。

(『美しい星』『決定版三島由紀夫全集第十巻』新潮社2004年)

 これはもう重一郎の敗北宣言であろう、と思えば、彼はこれは白鳥座六十一番星の見えざる惑星からやって来た不吉な宇宙人たちの陰謀に対する重一郎の勝利を示すものだと捉えていた。

 彼は自分を遣わした宇宙の意志の存在を見晴るかした。

 彼は声を聴いた。

 大杉家の一同は病院から重一郎を連れ出し、フォルクスワーゲンで重一郎が指定した場所へと向かう。芝から渋谷、世田谷、登戸、車は目的地の東生田の裏手の広場に止められた。

 そこからは徒歩で丘の上へ。

「来てゐるわ! お父様、来てゐるわ!」
 と暁子が突然叫んだ。
 円丘の叢林に身を隠し、やや斜めに着陸してゐる銀灰色の円盤が、息づくやうに、緑いろに、又あざやかな橙いろに、かはるがはるその下辺の光りの色を変へてゐるのが眺められた。

(『美しい星』『決定版三島由紀夫全集第十巻』新潮社2004年)

 これが物語の結びだ。つまりこれでこのこれまで誰一人読んでいなかった『美しい星』という小説の全容が初めて明らかになった。昨日までは誰も結末を知らなかった。竹宮はもう現れず、本名さえ解らず、羽黒たちがこれから何をするのかも明らかではない。水爆がどうなるのかということも誰にも解らない。暁子が無事出産するのかということも……。

 無論一番解らないのは、円盤が着陸していた。「で?」のその先だ。

 ドストエフスキー的会話、バートランド・ラッセル「二十世紀は狂気が勝利を締めた時代」、……と書かれた創作メモでは最初、

父——金星
母——火星
兄——土星
妹——水星、冥王星

 と、それぞれの生まれ故郷が異なる。西武鉄道の料金や飯能の名物が調べられ、そのほか細かい取材の記録も見える。その中に「暁子は処女膜硬化症である」というぎろりとした文字も見える。

 二冊目のノートには金沢の取材がびっしり。三冊目は仙台。案外なことは、円盤の動力に関してマイナスのなんとかとか、念力とか書いてある外、宇宙人に関する資料、書き込みは殆どない。

 これを見ると三島由紀夫は円盤までに留めるつもりらしく、宇宙人の生態や姿かたちに関してはノープランだったようだ。つまり火星人がくちこを食べるかどうか、金星人がかぶらずしを食べるかどうかということはどうでも良かったわけである。

 つまり「で?」のその先には何もないのだ。この円盤が人類の救済を保証してくれている訳ではなく、われわれの想像力だけが人類を破滅から救い得るのだと、あのひねくれものの三島由紀夫が「あけすけに言うべきではないことをあけすけに言うというレトリック」で最期を飾っているかのようだ。

 しかし円盤で留めたというのは間違いなくそういう理窟であろう。ボールはこちら側に投げ返された。あるいは宇宙人には人類を救済する責任も義務もない。人間にこそこの美しい星を守る責任はあるのだと。だから宇宙人は姿を見せないで終わる。この直截さがドナルド・キーンのお気に召さなかったのだろうか。

 もっと勿体をつけた、解ったような解らないような能のような終わり方、舞を舞って終わりというやり方もあっただろうが、三島由紀夫は暁子を処女膜硬化症にもせず、俳句は二つしか出さなかった。とにもかくにもこうした結末を選んだのだ。

 リアリスティックに捉えればこれはあくまでも狂人たちの話である。ともかく彼らの言っていることは一つとして真面なものはない。しかし空飛ぶ円盤や宇宙人を信じることの方が、水爆実験よりはまだ真面なことだとは言えるだろう。徹底的な馬鹿々々しさの中にあって、水爆実験の生々しい歴史は硬直に物語たることを拒絶している。それは歴史で、物語の中に引かれながら、少しも愛嬌を見せない。

 人類は癌も核兵器も克服することなく、今も唯亡びないでいるという偽物の平和の裡にある。その点で世界は六十年前と変わらない。むしろもっと硬直で愛嬌を見せない歴史にむしばまれている。

 そういえば、この十数年後に訪れたUFOブームを経てさえ、人類は空飛ぶ円盤に関して、六十年前と同じ知識しか獲得していない。それは知識というのもおこがましい「どんな怖ろしい真実をも餌にして、それからつくり出した夢」と言っても良い程度のものだ。ジグザグ飛行のからくりも誰も知らない。

  大杉重一郎の五十億分の一の想像力もない私にはこの程度のことしか思いつかない。

 残念ながら。



 だそうです。その前に夏目漱石の『こころ』くらい読んでおこう。


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