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川上未映子の『ヘヴン』をどう読むか③ 昔は考えられないことで今では考えられない

それから僕はズボンのファスナーをおろしてペニスを取りだしてにぎり、手を動かして、まるめたティッシュペーパーをペニスのさきに当てて射精した。

(川上未映子『ヘヴン』講談社 2009年)

 こんな文章を読むと阿部和重はペニスが長いのではないかとつい考えてしまう。ズボンのファスナーをおろしてペニスを取りだしてにぎりというやり方ではストロークの距離が十分に取り切れないのではないか、ズボンの下にパンツは履かない主義なのかと。

 いや阿部和重には何の責任もない。ここは下半身を丸出しにしたくないという川上未映子の慎みの表れなのであろうが1980年代前半の中学生の私服のズボンはかなりの割合でジーンズであり、ズボンのファスナーをおろしてもごわごわとした厚みの中に埋没してしまったペニスを取り出してみても、大した長さはない。

 マスターベーションで不安から逃れようとする「僕」というものを川上未映子がどこで見つけ出したのかは知らない。巨人から一位指名された池田高校の水野投手は不安から毎晩オナニーをしていたそうだ。そんな古い週刊誌の記事をどこかで読んだか、あるいはそういうことを話したがる男友達がいたか。

 いずれにしてもこれは近代文学の枠組みでは書かれえなかったことだ。長井代助は赤坂の待合で一晩過ごすことがあっても、マスターベーションはしない。いつからかマスターベーションという行為が直接的に描かれるようになったが、ここにはまだ遠慮がある。白飯だけでおかずがないのだ。「僕」はコジマをおかずにしない。コジマには会いたい。それがどんな感情なのかまだ見えてこない。「僕」はコジマの住所を調べて家を訪ね、待ち伏せて尾行し、偶然を装って声をかけようと計画する。

 ほとんどストーカーだ。

 そうまでして会いたいのならもうそれは恋と呼んでもいいものなのではないかとも思うが、中学生の「僕」の一人称の語りの中で、そうやすやすと恋などという単語が出てくる筈もない。おそらく当時の、1981年だか1982年あたりの中学生の男子にとって、恋というようなワードほど空疎で気恥ずかしいものはなかったのではなかろうか。それはひたすら隠さねばならぬもので、おちんちんを晒すより恋を晒すことの方が恥ずかしかったのではなかろうか。

[ここで余談]

 この感覚は現在の中学生の男子には殆ど通じないものであるかもしれない。厳密に調べたわけではないが、「自分が恋をしていることを恥ずかしがるべき」というような暗黙のルールというものはなくなっている気がする。これが時代というものか。

[余談終わり]

 ストーカー計画は失敗した。待ち伏せの緊張に耐えられなくなり逃げるようにその場を後にしたのだ。その頃はまだストーカーという言葉も概念もなかったはずだが、それがみっともないこと良くないことだという漠とした感じはあったのだろう。

 しかし(私には経験がないが)昭和の小中学生が自転車で好きな女の子の家の近所をうろうろするということは結構当たり前にあったらしい。(私は自転車を持っていなかった。)だから良くないといっても、飽くまで今とはまるっきり違う感覚なのであって、危険であるとかおぞましいというものではなかった筈だ。

 二日後コジマから電話がかかってくる。言うまでもないがコジマといってもコジマ電気でも小島よしおでもない。二人は非常階段で会うことにした。そこで話をする中でコジマの家庭環境が明かになる。コジマには貧乏な本当の父がいることがわかる。

 そしてまた川上未映子は「独特な感覚、少し違ったものの捉え方」を出してくる。

 この世の中のしくみを引き受けるための神の存在が必要だというのだ。

 それが神様でもいいけれど、そういう神様みたいな存在がなければ、色々なことの意味がわたしにはわからなさすぎるもの。お金のことだってそうだよ。 

(川上未映子『ヘヴン』講談社 2009年)

 絶対者が存在しないのなら創り出さねばならないと天皇を持ち出す三島由紀夫程積極的ではないにせよ、コジマは貧乏な父親のために神様を持ち出そうとする。責任転嫁だ。

 大事なのは、こんなふうな苦しみや悲しみにはかならず意味があるってことなのよ。

(川上未映子『ヘヴン』講談社 2009年)

 私は既に「独特な感覚、少し違ったものの捉え方」と書いてしまっていて、それは訂正も修正も出来ないことだが、あるいは多くの宗教の原型にはこうした無意味の耐えられなさという万国共通、人類普遍の感覚があったのかもしれない。

 たまたまの幸運を受け入れることは難しくはない。何なら適当な神様に感謝してもいい。しかし超越的存在を認めない世界で、ただ偶然に不幸であることをそのまま受け入れることは困難なことであるかもしれない。無差別殺人でたまたま被害者になるよりも、何某かの理由があって殺された方がいくらか増しという意味で、人には不幸になる理由が必要なのだ。社会の理不尽さの責任を無理やり押し付けられる神様には気の毒だが、人は思し召しを求めるものなのだ。

 そしてコジマはまた独特な思し召しを告白する。「僕」の斜視が好きだと言い出すのだ。

 そこで私ははげしく後悔する。『金閣寺』の柏木の話を持ち出すのが早すぎたのではなかったかと。「僕」の斜視と柏木の内翻足を絡めるべきだったんじゃないかと。

 しかしどうもコジマは三島由紀夫や柏木のようにひねくれてはいない。わたしたちがんばろうねといいだす。いつかきっといろんなことが大丈夫になるときがくるからと。二人は見つめ合い、手を握る。

 それはもう恋なんじゃないかと言いたくもなるが、まだ本当にそうなのかは誰にもわからない。何故ならこれが三章で、四章はまだ読んでいないからだ。

[余談]

 大谷翔平がホームランを打つと嬉しいのは何故だろう?

 それが必ず何か良いことである筈もないのに。そして自分が何か得をするわけでもないのに。

 そういう対象がニ三十あれば、全ての人が幸福でいられるのではないか?

 例えば資産などただの数字なので、勝手に増え続けるアニメーションを眺めていても幸福感が得られるかもしれない。


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