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岩波書店『定本漱石全集』注解を校正する180 夏目漱石『明暗』をどう読むか29 大げさに言っている訳ではない

 私は別に誰かに喧嘩を売っている訳でも無いし、岩波書店を馬鹿にしているわけでもない。しかし本当に残念なのだ。

 こんなに嚙み合わないことがあるのかというくらい嚙み合わない。例えば、

 こういう間違いはしばしば起こりえることだろう。ちょっと勘違いしていました、で済む話だ。旅順ではなくて奉天ね、で済む話だ。

 また、「牡蠣の如く」なんて言う比喩の解釈も、まあ勘違いすることもあるだろう。よく読めば分かるけれども、よく読まないと解らない。

 しかし実際昨日見つけた齟齬は、「あれ、本当に私は頭がおかしいのかな」と思うようなものだった。自分が手にしているものが本当に『定本漱石全集』なのか、一回奥付を確認した。
 
 言われていることはそもそも「気が付きにくい」ところだ。しかし一旦気がついて確認していくと間違えにくいところだ。そして十川信介氏が気の毒なのは、岩波書店の編集者を含め、その注解を読んだ全ての人たちが「ふーん」としか反応しなかったと思われることだ。そうでなくてはこんなことにはならない。中身を確認して「本当ですね、気が付きませんでした」という人間がこの世に誰一人として存在しなかったのだ。無論「違いますよ」と言ってくれる人も誰一人として存在しなかった。いや編集者は読み直して確認するだろうと常識的には考えられる。

 しかし岡本厚氏他、この『定本漱石全集第十一巻』に関わった誰一人として十川信介氏の注解を読まなかったか、あるいは「ふーん」と読み飛ばしたのだ。「ふーん」って……酷くない? そこはお給料が発生しているんだからもう少しちゃんとしようよとは誰も思わなかったのだ。

 そんなことある?

 十川信介氏は死に、永遠に「おっちょこちょいな人」になってしまった。そして岩波書店は夏目漱石に無関心な出版社ということになってしまった。

 そんな馬鹿な。

 と、もう思うのは止めよう。お馬鹿な世の中なのだ。こんな記事を読んでさえ「ふーん」ばかりなのだから。


堀が知って心配すると思っていらっしって

「だけど兄さん、もし堀のいない留守に誰かあたしの所へ来て何か云うとするでしょう。それを堀が知って心配すると思っていらっしって」
「堀さんの事は僕にゃ分らないよ。お前は心配しないと断言する気かも知れないがね」
「ええ断言します」
「結構だよ。――それで?」
「あたしの方もそれだけよ」
 二人は黙らなければならなかった。

(夏目漱石『明暗』)

 ここは堀と関が性病に罹り、小林医院に通っていたという前提で考えるとなかなか味わい深いところ。津田が心配しているのがどのあたりのことなのかは不明ながら、お秀はもう何かあっち方面のことと決めつけているようである。何も知らないお秀の言うことを聞いた津田の頭の中には、

・そんなことを言ったって堀君はどうも性病に罹っていたぞ、知らないのか、お前は大丈夫なのか
・そんなことをお前に知らせるものがいたとして、堀君は案外平気かもしれないな。彼はあまりこだわらないタイプだから
・でもいざ事実を知らされて泣くんじゃないよ、そういう男を自分で選んだんだから

 ……といった思いが渦巻いていただろう。ここは兄が余裕を見せているところだ。

財源を自分の前に控えていた

 しかし二人はもう因果づけられていた。どうしても或物を或所まで、会話の手段で、互の胸から敲き出さなければ承知ができなかった。ことに津田には目前の必要があった。当座に逼る金の工面、彼は今その財源を自分の前に控えていた。そうして一度取り逃せば、それは永久彼の手に戻って来そうもなかった。勢い彼はその点だけでもお秀に対する弱者の形勢に陥っていた。彼は失なわれた話頭を、どんな風にして取り返したものだろうと考えた。
「お秀病院で飯を食って行かないか
 時間がちょうどこんな愛嬌をいうに適していた。ことに今朝母と子供を連れて横浜の親類へ行ったという堀の家族は留守なので、彼はこの愛嬌に特別な意味をもたせる便宜もあった。
「どうせ家へ帰ったって用はないんだろう」
 お秀は津田のいう通りにした。話は容易く二人の間に復活する事ができた。しかしそれは単に兄妹らしい話に過ぎなかった。そうして単に兄妹らしい話はこの場合彼らにとってちっとも腹の足しにならなかった。彼らはもっと相手の胸の中へ潜り込もうとして機会を待った。

(夏目漱石『明暗』)

 病院で飯を食って行かないかとはよく言ったものだ。そして妹を「財源」呼ばわりする津田由雄のがめつさはもう善悪を離れて滑稽である。最初読んだ時にはなかなか小切手を出さず説教を始める秀子を生意気だと感じ、それがお延に退治されるところでほっとしたものだが、こうして「財源」呼ばわりされているところに気が付いてみると、一生懸命兄を改心させようとする秀子が健気に思えてくる。

 また「病院で飯を食って行かないか」には注が付かない。大学病院ならいざ知らず、ベッド数も少ない診療所で、客に食べさせるような食事が出されていたものかどうか、この辺りのことは調べて註釈するべきではなかろうか。漱石の日記を見る限り、今では考えられないが「刺身」なども病院食で出ている。しかし日中運動もしない入院患者に合わせた病院食は低カロリーで消化に良いものが中心で、客が普通に食べて美味いようなものではなさそうだ。


兄に頭を下げさせたかった

「兄さん、あたしここに持っていますよ」
「何を」
「兄さんの入用のものを」
「そうかい」
 津田はほとんど取り合わなかった。その冷淡さはまさに彼の自尊心に比例していた。彼は精神的にも形式的にもこの妹に頭を下げたくなかった。しかし金は取りたかった。お秀はまた金はどうでもよかった。しかし兄に頭を下げさせたかった。勢い兄の欲しがる金を餌にして、自分の目的を達しなければならなかった。結果はどうしても兄を焦らす事に帰着しなければ済まなかった。
「あげましょうか」
「ふん」
「お父さんはどうしたって下さりっこありませんよ」
「ことによると、くれないかも知れないね」
「だってお母さんが、あたしの所へちゃんとそう云って来ていらっしゃるんですもの。今日その手紙を持って来て、お目にかけようと思ってて、つい忘れてしまったんですけれども」
「そりゃ知ってるよ。先刻もうお前から聞いたじゃないか」
「だからよ。あたしが持って来たって云うのよ」
「僕を焦らすためにかい、または僕にくれるためにかい」
 お秀は打たれた人のように突然黙った。そうして見る見るうちに、美くしい眼の底に涙をいっぱい溜めた。

(夏目漱石『明暗』)

 金で人に頭を下げさせようなんて、と最初は思ったところ。しかしその後津田の尋常ならざる無責任、「主体」としての意識の乏しさに気が付くと、どうも秀子の方が人間らしく思えてくる。「兄に頭を下げさせたかった」は生意気、「あげましょうか」という言い方もどうかと思うが、これまでの津田の態度を確認していくと、これは単なる意地悪ではなく、兄を尋常な人間に引き戻そうとする駆け引きなのだと思えてくる。

 むしろ「できなければ死ぬまでさ」なんてことを言っているうちは金はやらない方がいいという気もして来る。自分の意思で女房を貰ったという自覚もなく、約束を反故にして指輪を買い悪かったという意識もない、腑抜けのような兄に、そのままほいほいと金を渡して良いわけがない。

どうして昔のように人の誠を受け入れて下さる事ができないんでしょう

「どうして兄さんはこの頃そんなに皮肉になったんでしょう。どうして昔のように人の誠を受け入れて下さる事ができないんでしょう」
「兄さんは昔とちっとも違ってやしないよ。近頃お前の方が違って来たんだよ」
 今度は呆れた表情がお秀の顔にあらわれた。
「あたしがいつどんな風に変ったとおっしゃるの。云って下さい」
「そんな事は他に訊きかなくっても、よく考えて御覧、自分で解る事だから」
「いいえ、解りません。だから云って下さい。どうぞ云って聞かして下さい」
 津田はむしろ冷やかな眼をして、鋭どく切り込んで来るお秀の様子を眺めていた。

(夏目漱石『明暗』)

 この「津田が変わった問題」は案外この『明暗』という小説を読んでいく上で肝心なポイントなのかもしれない。
 話としては津田が清子の心変わりによって失恋したという流れがあるものの、小林から見てもお秀から見ても、津田は確かに変わっているのである。ここで言われている通り、津田が昔は人の誠を受け入れられるような人間だったとしたら、津田は皮肉屋に変えたのは清子、またはお延である可能性が高いのではないかと思われる。

 つまり、あくまでも例えばの話ながら、

・何か約束事があったのにもかかわらず一方的に清子に裏切られたので「人の誠を受け入れられ」なくなった。

・お延との初夜で「人の誠を受け入れられ」なくなった。

 ……というようなことが考えられる。これまで見てきたように津田には子供じみた駄々っ子のようなところがあり、私は津田と清子との関係そのものは一方的に解消できる程度のものではないかと考えている。しかし手紙の束が出来る程度の長い期間、親密なものであったことも疑えない。林檎を剥いてもらったことがあるので冬場に一緒に炬燵にでもあたったことがあるのではないかと考えている。津田は清子のことを信じていた。しかし捨てられた。それで「人の誠を受け入れられ」なくなったという話はなくはないと思う。

 一方お延が原因だと考えた場合、かなり剣呑な話になる。ごくシンプルに考えて当時の新妻の裏切りとは処女ではなかったということであろう。つまり津田との結婚直前にお延が処女で無くなっていたとしたら、津田のその後のお延を避けるような夜のお勉強の意味も解るような気がして来る。淡白ではないのにやらないのは、何かが閊えているからだ。そう考えてみるとこれは案外ない話ではない。

 津田とお延のセックスレスの問題に明確な見解が示されたものを私は知らない。あまり強くは主張しないが、お延の裏切りも一つの可能性として排除できないと思う。

偶然の事実に過ぎなかった

「嫂さんといっしょになる前の兄さんは、もっと正直でした。少なくとももっと淡泊でした。私は証拠のない事を云うと思われるのが厭だから、有体に事実を申します。だから兄さんも淡泊に私の質問に答えて下さい。兄さんは嫂さんをお貰いになる前、今度のような嘘をお父さんに吐いた覚がありますか」
 この時津田は始めて弱った。お秀の云う事は明らかな事実であった。しかしその事実はけっしてお秀の考えているような意味から起ったのではなかった。津田に云わせると、ただ偶然の事実に過ぎなかった。

(夏目漱石『明暗』)

 出た、偶然。つまり津田は

「このおれはまたどうして指輪を買ったのだろう。それもおれが指輪を買おうとしたからに違ない。しかしおれはいまだかつて指輪を買おうとは思っていなかったのに。偶然? ポアンカレーのいわゆる複雑の極致? 何だか解らない」

 ……と言っているのだろうか?

 ここはそこまでの話ではないにせよ、「手違い」とも「失敗」とも言っていない。「やむを得ず」ではないのだ。約束を違えておいて「偶然」と言っている。この当事者意識の無さは無責任では収まらない、相当なものだ。やはり少し病的ではある。

嫂さんといっしょになる前の兄さんは

 津田と清子が何時から何時まで交際し、いつ別れたのかは定かではない。しかし妹の眼が正しければ、津田の変化はお延との結婚後に起こる。ここで先ほどの、清子に裏切られたので人の誠を受け入れられなくなった、という説は消えたとみてよいだろうか。

 すると俄然「お延裏切り説」が意識されてくる。無論『行人』において「嫁スポイル理論」というものが展開されていて、「結婚後の女は夫によって邪に変えられる」という発想がある。これが発展すれば「婿スポイル理論」にもなろうから、必ずしもお延独特の特別な裏切りそのものは想定しなくとも良いのかもしれない。

 しかし大体普通に嫁さんを貰ったくらいで人間は(特に悪いようには)変わらないものだ。

 ここまで変わった変わったと言われる津田の場合には何か「変わるべきはっきりした根拠」が必要だろう。つまりお延には書かれていない秘密がなくてはならないし、その秘密の仄めかしがなくてはならない。

 そう考えて行くとやはり津田とお延のセックスレスの問題がカギになるのではなかろうか。

二本棒

 津田から見たお秀は彼に対する僻見へきけんで武装されていた。ことに最後の攻撃は誤解その物の活動に過ぎなかった。彼には「嫂さん、嫂さん」を繰り返す妹の声がいかにも耳障りであった。むしろ自己を満足させるための行為を、ことごとく細君を満足させるために起ったものとして解釈する妹の前に、彼は尠らぬ不快を感じた。
「おれはお前の考えてるような二本棒じゃないよ」

(夏目漱石『明暗』)

にほん‐ぼう【二本棒】‥バウ
①二本差しの武士をあざけっていう称。
②はなたらしの子供をあざけっていう称。
③まぬけた人、また、女房にあまい亭主をあざけっていう称。浄瑠璃、伽羅先代萩「建立箱背に負ひ、子供にはやされて、よそめは―」
④丸い棒2本で一組になった編棒。

広辞苑

 ここで岩波は「二本棒」に注解をつけて、

 ここでは女房に甘い亭主をあざけって言う言葉

(『定本漱石全集第十一巻』岩波書店 2017年)

 ……とする。

にほん-ぼう ―バウ [2] 【二本棒】
(1)二本差しの武士をあざけっていう語。「―を相手ゆえ/歌舞伎・天衣紛」
(2)近世,女房に甘い亭主や,まぬけな人をあざけっていった語。「子にはやされて,よそめは―/浄瑠璃・先代萩」

大辞林

 ここは岩波の注解で意味は通じるけれど、借金の弁済を忘れるような津田が「間抜けではない」とも言っている意味になるので、この点は注意したい。ちなみに二本差しでも焼き同士でも侍の意味になる。

[余談]

天体ではなくなるかも。

 もう好きにしたらいいやん。

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