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「ふーん」の近代文学⑰ 「ふーん」したくなる気持ちもわかるけど

 乃木静子殺害事件後の森鴎外の作品群には露骨に「殉死」批判が書かれていると言われても、みななかなかそのまま素直に受け入れがたいのは解らないことでもない。
 猪瀬直樹の『公 日本国・意思決定のマネジメントを問う』にあるように森鴎外は『かのように』でこう書いている。

……草昧の世に一国民の造った神話を、そのまま歴史だと信じてはいられまいが、うかと神話が歴史でないと云うことを言明しては、人生の重大な物の一角が崩れ始めて、船底の穴から水の這入るように物質的思想が這入って来て、船を沈没させずには置かないと思っていられるのではあるまいか。

(森鴎外『かのように』)

 だから長男の鴎外は日本という船が沈まないように保守を貫いたのだと。そう捉えると『帝諡考』に至る森鴎外の姿勢が一本筋が通ったものに見えなくもない。しかし『かのように』の後、『興津弥五右衛門の遺書』以降は繰り返し「殉死」を問うてきたのは紛れもない事実なのだ。

 それは『堺事件』や『高瀬舟』も同じで、「乃木夫妻殉死」などというリアリティのないフィクションに我慢がならなかったからであろう。

 ただ「今更そこを言われても」という感覚は、事件直後からなかったわけでも無かろう。多くの人にとってはとにかく分かりやすい話があればそれでよかった。別に面白い話になりそうもないし、そんなことを言い出せば明治維新だって随分インチキなものだし、……。

 騒いだって得はない。しかし森鴎外という人はしつこい人で、腹を切ったって死なないだろ、喉を突いて自殺なんてそう簡単なことじゃないんだぞと繰り返し訴え続けた。

 そうなると反論するより無視が楽なのだ。だから「ふーん」してしまう。この感覚は解らないでもない。

 こんなのに絡まれたらたまらない。面倒くさい相手からは逃げるに越したことは無い。

 何しろ森鴎外はしつこいので青空文庫にも『北条霞亭(ほうじょうかてい)』は入っていない。

 青空文庫にも「ふーん」されたわけだ。

鷗外の『北條霞亭』を讀む森鷗外の『北條霞亭』を一日讀んだ、此書は細活字で組んだ四百頁にも垂んとするもので鷗外が伊澤蘭軒の傳を物した其後に執筆したのだと云ふから、極めて晩年の作である。

この霞亭傳も似た樣なもので、考證が如何にも周到であるが、如何にも讀んでうるさみを覺えるものである。全體伊澤蘭軒にせよ、北條霞亭にせよ、世間に知られてゐる人でない。

自分は略々霞亭の事蹟を知りながら、四百頁に近い、細かな考證を讀むのを苦しく感ずる位であるのにこれが好著として、廉價版文庫に納められてゐるのは何故であらうか。


擁炉漫筆 市島春城 著書物展望社 1936年

 大抵の人はこうなるだろう。「うるさみ」「苦しく感ずる」とは如何にも言い過ぎのように思うが、実際なかなかうるさい。

 実はこの感覚が現代の読者にとっては『阿部一族』などにも拡大されているのではないかと私は疑っている。

 おそらく芥川の『糸女覚え書』くらいのところまで砕いて書いても、もうお話そのものにはついてこられなくなってしまっているのだ。

 それはこんな計算を誰もしないことが証明している。

 計算するとみな「あ?」となるはずだ。

 しかしまあ、大抵の人は、あまり気にしないよね。

 日常生活に関係無いし、損をしないから。

 最近では「読書メーター」に「オーディブル」の文字が増えてきた。要するに「聞き流す読書」が流行っているようだ。また夏目漱石の『三四郎』に対して、「学生時代は文学青年気取り」の人が「文語体の古めかしい表現に馴染めなかった。翻訳物には新訳があるのだから、現代の言葉に置き換えられないものか」と書いていて「え?」と思った。

 うとうととして目がさめると女はいつのまにか、隣のじいさんと話を始めている。このじいさんはたしかに前の前の駅から乗ったいなか者である。発車まぎわに頓狂な声を出して駆け込んで来て、いきなり肌をぬいだと思ったら背中にお灸のあとがいっぱいあったので、三四郎の記憶に残っている。じいさんが汗をふいて、肌を入れて、女の隣に腰をかけたまでよく注意して見ていたくらいである。

(夏目漱石『三四郎』)

 いや『三四郎』は『草枕』や『虞美人草』に比べれば格段に読みやすく、その分謎を詰め込んだ話だ。これはこの人を馬鹿にしている訳ではなくて、やはりそう言うことなんだろうなと思うのだ。

 もし表現の方に追い付いていなければ、Behold, I was brought forth in iniquity. In sin my mother conceived me.には永遠に辿り着かないだろう。

 読み流し、聞き流しでは立ち止まる余裕がなく、「美禰子の愆って何だ?」と考えることが出来ない。「ふーん」は考えない、流してしまう態度だ。美禰子の下駄が低い理由も考えない。考えてしまうと次の文章が流れてくるのに意識がそれて聞き逃してしまう。考えないで聞き流すのが気持ちいい……。

 おそらくその辺りに「ふーん」の近代史の根本的な問題がある。 

[余談]

 実は『じいさんばあさん』『最後の一句』の年も色々おかしい。

 この本に書いたけど、気が付いていた人いる?

 知りたい人は?

 いるんなら無料セールするけど。


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