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『三四郎』の謎について52 美禰子の愆とは何か?

 今更こんなことを掘りますよ。どうでもいいことのようで、これが『三四郎』のあらすじにおいてかなり重要なポイントだと思うので。

 里見美禰子の「我はわが愆を知る。わが罪は常にわが前にあり」の解釈なんですが、近代文学1.0ではこれを三四郎に対する美禰子の行き過ぎたふるまいと読む人が多いようです。まあ、なんとなくそういうものかなと思ってしまいますよね。それにしても漱石は耶蘇教にはそれほど興味がないくせに、新約聖書だ、旧約聖書だとやたらと忙しく材料を持ってきます。そんなもの一般の読者にどう伝わるのということをやってきます。

 そもそも「我はわが愆を知る。わが罪は常にわが前にあり」はコピペ、右クリックでグーグル検索すれば旧約聖書・『詩篇』の言葉だそうです。へえ、そうなんだ、と私は納得したりしませんよ。コトバンクなんか信じません。

 何故ならstray sheepで危うく騙されかかったからです。stray sheepで検索すると米津玄師があほほどでてきます。本当に迷惑な話です。

All we like sheep have gone astray. Everyone has turned to his own way; and Yahweh has laid on him the iniquity of us all.

He was oppressed, yet when he was afflicted he didn't open his mouth. As a lamb that is led to the slaughter, and as a sheep that before its shearers is mute, so he didn't open his mouth.

 これがイザヤ書ですね。

 マタイ伝にもstray sheepなんて出てこないのです。「分かりやすく簡単に説明しよう」として結果的にネットには嘘の情報が溢れています。だから、旧約聖書・『詩篇』の言葉だと言われて、はいそうですかと納得するわけにはいかんのですよ。

 そこで旧約聖書・『詩篇』を読むと、次の次には「見よ、わたしは不義のなかに生れました。わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました」とあるんですね。

  For I know my transgressions. My sin is constantly before me.

Against you, and you only, have I sinned, and done that which is evil in your sight; that you may be proved right when you speak, and justified when you judge.

Behold, I was brought forth in iniquity. In sin my mother conceived me.

 つまりこれは「おっかさん、それじゃおとっさんにすまないじゃありませんか」なのではないか、と思えてくるわけです。

 そこで改めて広田の謎理論が思い出されますね。

「たとえば」と言って、先生は黙った。煙がしきりに出る。「たとえば、ここに一人の男がいる。父は早く死んで、母一人を頼りに育ったとする。その母がまた病気にかかって、いよいよ息を引き取るという、まぎわに、自分が死んだら誰某の世話になれという。子供が会ったこともない、知りもしない人を指名する。理由わけを聞くと、母がなんとも答えない。しいて聞くとじつは誰某がお前の本当のおとっさんだとかすかな声で言った。――まあ話だが、そういう母を持った子がいるとする。すると、その子が結婚に信仰を置かなくなるのはむろんだろう」
「そんな人はめったにないでしょう」
「めったには無いだろうが、いることはいる」(夏目漱石『三四郎』)

 この謎理論が広田に当てはまるのか、三四郎に向けて言われているのかと、これまで散々考えてきましたが、さらによくよく考えてみれば、そもそも広田が三四郎の出生の秘密など知っている訳はないのです。また他人の出生の秘密、親の不義などべらべらと吹聴することでもありますまい。となるとやはりこれは広田自身のことだとなると思われます。

「しかし先生のは、そんなのじゃないでしょう」
 先生はハハハハと笑った。
「君はたしかおっかさんがいたね」
「ええ」
「おとっさんは」
「死にました」
「ぼくの母は憲法発布の翌年に死んだ」(夏目漱石『三四郎』)

 このように笑ってごまかしていますが、ここには遅い子として生まれ、たちまち養子に出されて捨て猫のように扱われた漱石の恨みが、「自分は不義の子」なんじゃないかという疑念、いやそうでもなくては理屈に合わないという皮肉として現れてきているようにも思えるのです。

 しかしまた夏目漱石という人があっちこっちから訳も分からず適当な言葉を見繕って体裁を整える衒学家でないと見做すならば、直ぐ後の「見よ、わたしは不義のなかに生れました。わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました」を読まないで「我はわが愆を知る。わが罪は常にわが前にあり」を引用したとはちょっと考えられないのですね。

 そうするとですよ、美禰子の結婚が確定した十一章の終わりに、広田がわざわざ三四郎に母親の不義によって「結婚に信仰を置かなくなる人」の話をすることと美禰子の言葉「我はわが愆を知る。わが罪は常にわが前にあり」が結びついて見えてきてしまう訳です。「結婚に信仰を置かなくなる人」には二種類あると思うんですね。面倒くさいから結婚しない人、それから適当に結婚してしまう人。

 こう言ってはなんですが、美禰子は適当に結婚してしまいますよね。兄の里見恭助も友人らに知られることもなく、結婚の予定が決まっています。この二人、「結婚に信仰を置かなくなる人」なのではないでしょうか。

 そもそも私は里見美禰子は三四郎にとって汽車の女の上位交換モジュールだと書きました。子持ちで見知らぬ男の風呂に入ってくるような女も結婚に信仰を持ってはいますまい。勝手に人の親を悪く言うようで申し訳ありませんが、漱石が組み立ててたロジックの上では、里見美禰子は「結婚に信仰を置かなくなる人」であり、里見美禰子に「見よ、わたしは不義のなかに生れました。わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました」と言わせる代わりにハムレットの芝居が拵えられて「おっかさん、それじゃおとっさんにすまないじゃありませんか」という台詞が持ち出されたのではないでしょうか。

 つまり……。

 適当に並べられたように思えるパーツが突然意味を持って結びついた時が一番危険であることを私はよく知っています。

 だからこの先がまだあるのですが、今回はここで一旦休憩します。


[余談]

 それにしても漱石は良くstray sheepなんて言葉を見つけて来たなと思いませんか。stray sheep基準で探していて、なかなか出典に辿り着けないということは、なかなかですよ。米津玄師がどれだけ聖書を読みこんだのか知りませんが、あっちこっちから訳も分からず適当な言葉を見繕って体裁を整える衒学家でないことを禱ります。














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