川上未映子の『夏物語』をどう読むか①あなた、貧乏人?
1 あなた、貧乏人?
貧乏の定義から話は始まる。貧乏とは窓の数。短い前置きながら、これが前置きであるなら、この『夏物語』の主題は「貧乏」であり、それが「貧困」や「困窮」とは違い、具体的にどういう形をとるものなのかが書かれている筈だ。
電車の中で昔の自分を思い出させるような、「はたけ」のある貧乏そうな女の子を見かけてわたしは話しかけなければならないと思うが女の子はいなくなってしまう。
二〇〇八年現在、わたしは三十歳。十年前に東京に出てきた。2019年に書かれた『夏物語』の舞台は十一年前の東京のようだ。2023年の今から勘定すると十五年前の景色になる。
今度は計算大丈夫?
間違ってない?
月十数万円のバイトでつなぐわたしはどうやら作家のワナビーらしい。なりたいけどなりきれない微妙な存在。八月二十日、東京駅の丸の内の北口で、上京してくる姉と姉の娘と待ち合わせている。
まてよ。
駅舎は2012年に創業時のよりクラシカルなデザインに復元された。2007年には銀の鈴が設置された。
いや、そこはいいだろう。この物語は物語と言いながら、八月二十日から始まるのだ。
暑さ寒さも彼岸までとは言いながら、夏物語が八月二十日に始まるのは遅すぎやしないのではなかろうか?
物語は私の一人称の語りの中に、姉の娘、緑子の日記のようなものが挟み込まれる形で進んでいく。その日記のようなものが読者だけに曝されているものなのかどうかは定かではない。
あえて言えばこれは私目線の一人称と、緑子目線の一人称が組み合わされて書かれていくのだろう。
姉の巻子は三十九歳。緑子はもうすぐ十二歳になる。わたしは沢山の野良犬や小さな父親、母親と逃げだしたこと、中学時代のバイトなどを回想する。
緑子は倍くらいの大きさに成長している。十年会っていなければ二歳と十二歳の体格比は倍では利かないが、その途中の何かのタイミングで半分の大きさの緑子に会ってはいるのだろう。そうでなければ緑子の幼児健忘症によって、二人はほぼ初対面ということになってしまう。
ここだな。この倍というところが仕掛けだ。
緑子は最近巻子と話さないらしい。全て筆談で済ましているようだ。緑子は平成生まれらしい。1989年一月八日以降に生まれたということだ。2008-12=1996と計算してみると随分余裕がある。七年早く生まれていても平成生まれだ。ここにはさしたる仕掛けはなかろう。
平成生まれと言ってももう三十四歳の中年に達した者もいるわけだ。腹が出たり、人生を降りたり、離婚や再婚をして、パスコの超熟にバターを塗って食べてゐたりするわけだ。
巻子は老けていた。「今年五十三歳」と言われても納得しそうなくらい、というからには石田ゆり子のようなわけにはいかなかったのだろう。彼女が2023年の今丁度五十三歳で、奇跡的に可愛いと言われている。つまり五十三歳に見えるということは、普通の五十三歳のように見えるということなのだ。
ごく一般論として三十九歳の女性が五十三歳にみられるということはなかなかきびしいことなのではなかろうか。それは夏目漱石が四十九歳で七十以上のお爺さんのような顔で死んだこととは少し意味が違うような気がする。
巻子は痩せていて、瞼は落ちくぼんでいる。大阪の「笑橋」という町でホステスをしている。「笑橋」は架空の町だと言い切る人が多いようだが、……まあ、架空の町だ。三笑橋という地名はあるが笑橋という繁華街はない。
三人がわたしの部屋にやってきてテレビをつけると女子大生がめった刺しで殺されたという事件がテレビから流れる。先々週起きた別の事件が話題となる。十九歳の男が七十歳の女を強姦してばらばらにして御苑のごみ箱に捨てたという事件だ。
七十歳という被害者の年齢が、どこからどう見ても老人である「コミばあ」のイメージと結びつき、「コミばあ」と強姦がどうにも結びつかない。どうやらわたしにはそういう嗜好の世界があることが理解できないようだ。石田ゆり子には食指が動かず、醜い老婆でなければいけないという人がどこかに存在する。そのことは簡単に確認できるが、今は止めておこう。
そこに挟み込まれる緑子のメモには生理用品のことが書かれている。緑子にはまだ生理はないらしい。
なんや、これ季節の「夏」の物語かと思うとったら、「夏子」の物語やったんかい。八月二十日ってえらい始まるの遅、すぐに初秋になるでって思うたら、夏子物語やったんか。
そんなもんあほくさいよって屁こいて寝たろ。
[余談]
2008年と云えばリーマンショックの年だ。九月十五日にはリーマン・ブラザーズが経営破綻する。投資家だけではなく、公務員以外のあらゆる業界にそれなりの影響が出た。
さて『夏物語』は彼岸までに終わるのか。
リーマン・ショックはどう描かれるのか?
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