学生時代の大正三年の翻訳の他、一応「翻訳」と呼びうる作品としては『翻訳小品』というものがあるにはある。いや、あるのかないのか曖昧に、あるていで晒されている。
内容的には小話で、「こんな話がある」として『吾輩は猫である』に挿入されそうな長さである。これが「翻訳作品」ならば、「小林十之助にはいくつもの漢文読み下しの作品がある」という話にもなる。勿論この小品をチョイスする過程で芥川は膨大な英語、またはフランス語の作品を読んできたはずだから、そもそも「このくらいの長さなら誰でも翻訳できる」というような話にはならない。
だからこそ、これこそはむしろ堂々たる翻訳作品をものすことに対する明確な拒絶をアピールするものなのではないかと読めるというのだ。
サミュエル・バトラーに関しては、芥川自身が編集した『モダンエツセース』(芥川龍之介 編興文社 1925年)で本職の進化論に関するエッセーを紹介している。(もちろん翻訳していない。)
バトラーの紹介自体は既に坪内逍遥の『英国文学史』等があり、『エレホン』の翻訳はまだなかった。
1935年は昭和十年。もしも英文学者であればまずなすべきは『エレホン』の翻訳であろう。ところがむしろ芥川は『エレホン』なんざ翻訳する気はまるでありませんとわざわざ宣言するかのように『翻訳小品』を書いているのだ。
1926年は大正十五年/昭和元年である。
そしてふと疑問が沸き起こる。そもそもこれは翻訳なのだろうかと。Anonymとはそもそも人の名ではなく、仮名、変名、偽名、匿名者、無名氏の意味である。読み人知らず、通りすがりの名無しさんの意味であろう。このことは既にあちこちで指摘されていることではあるが、この話の前半はどこかで聞いたことのあるような話である。
しかしこのことで『翻訳小品』、そのすべてが本当は翻訳ですらなく、芥川自身の創作であると軽々に見做してよいものであろうか。
なぜなら『十本の針』を『翻訳小品』の種明かしと見た時、「三 鴉と孔雀と」の後半部分、つまり落ちに当たる部分で語られている「詐欺師の為に本物が見えなくなる」という理窟が放置されていることになるからだ。つまり『十本の針』が種明かしではなく、実は『翻訳小品』こそが種明かしで、「鴉はいつになっても孔雀になることはできない。ある詩人の書いた一行の詩はいつも彼の詩の全部である」と書かれた後に現れるロジックは、
しかし君たちには永遠に鴉と孔雀の区別がつくまい
というものである筈だ。『十本の針』は明らかにそのことを言い残し、ごく限られた真面な読者の意識をもう一度『翻訳小品』に振り向けようとしている。
あるいはこの元ネタはNowhere、どこにもないと思わせようとしている。しかし本当はその逆ということはなかろうか。
そもそも「 一 アダムとイヴと」は服を着ているからどちらがどちらか分からないという「あべこべ」の話になっている。そして「二 牧歌」は「牝牛の眼」がコンプレックスというような話になっている。eyes of a heifer……。
コジマは「君の眼が好きだ」と言った。
あるいは『あばばばば』の女は旦那の眇目が良かったのかもしれない。
しかしそれはともかくとして西洋では本来「牝牛の眼」は美の象徴なのだ。
芥川はこんなことを書いているが、本人の方が可愛い目をしていらっしゃる。それを、
としてまるで逆に意味に取り違えさせようとしている。つまり(Anonym)だから嘘なのではなく、そこには『奉教人の死』のような二重の罠はないだろうか?
これほど手の込んだ書きようで元ネタ「れげんだ・おうれあ」を捏造し、あるかと思えばないと嘯き、実はあるという悪戯は早々マネできるものではあるまい。
こうして一旦落ちている話を『聖人伝』で引っくりかえすのが芥川の人の悪いところである。薄田泣菫もこれには参っただろう。
ならばNowhereもAnonymもそのまま受け取る必要はなかろう。芥川と言えば逆説、芥川と言えばあべこべ、芥川と言えば切りがない。
少なくとも『翻訳小品』がただの『翻訳小品』ではないだろうというところで今日は留めておく。
【余談】
鴉の件に関しては村上春樹の『とんがり焼の盛衰』と、
森鴎外の『沈黙の塔』が、
ほぼ意匠被りであるなんて話はもういいかな。
それにしても「鴉の件に関しては」なんて書き出しはちょっと良くない?
【余談②】
こういうところも宮本百合子に凄いと言わせた要素だろうか?