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『三四郎』の謎について 27 何故三四郎は他人の死に冷淡なのか?

 二度目は偶然ではない、と思いませんか。

 電車の中で同じ人に二回足を踏まれたら怒りませんか。私は怒ります。わざとだと思うからです。

 轢死体の場面、その翌朝の「きょうはいい天気だ。世界が今朗らかになったばかりの色をしている」という感覚は何なんだろうと思いましたが、その時点では答えはありませんでした。明らかにおかしいと思います。全然尋常じゃないですよね。あるいは真面ではないです。

 それでも一回だけなら、ここは不思議だな、と大した意味付けができないまま終わってしまうのですが、どうも『三四郎』はそんなに簡単には出来ていなくて、むしろしっかりと謎を作ってくれています。

 三四郎はそれなり寝ついた。運命も与次郎も手を下しようのないくらいすこやかな眠りに入った。すると半鐘の音で目がさめた。どこかで人声がする。東京の火事はこれで二へん目である。三四郎は寝巻の上へ羽織を引っかけて、窓をあけた。風はだいぶ落ちている。向こうの二階屋が風の鳴る中に、まっ黒に見える。家が黒いほど、家のうしろの空は赤かった。
 三四郎は寒いのを我慢して、しばらくこの赤いものを見つめていた。その時三四郎の頭には運命がありありと赤く映った。三四郎はまた暖かい蒲団の中にもぐり込んだ。そうして、赤い運命の中で狂い回る多くの人の身の上を忘れた。(夏目漱石『三四郎』)

 火事と喧嘩は江戸の華と言われたくらい、そもそも他人の家が焼けようが焼け死ぬ人がいようが、それを見物して楽しむくらいの感覚が江戸っ子の粋だったとして、よくよく考えてみれば三四郎は福岡の田舎者だったはずです。何を呑気に見物しているんでしょうか。

 ただ家が焼けているだけではなく、三四郎の想像は確かに人間にも及んでいるわけです。それにしてはクールではないでしょうか。まあ、他人の死などと云うものは一々嘆くこともないのかもしれませんが、この翌朝にも漱石は「夜が明ければ常の人である」と、して敢えて三四郎にそういう「一晩寝るとコロッと忘れる」淡々とした、あるいは冷淡な性格を与えているようにも思います。

 そして気が付いてみれば、ここには確かに「東京の火事はこれで二へん目である」とあるのに、作中に「火事」の文字はこの一か所にしか現れず、一回目の火事は気にも留められていないことが解ります。

 三四郎にとっては美禰子とのことが一大事で他の事はどうでもいいかのようです。他人の死などはどうでもいい、その感覚はただ正直なだけなのでしょうか。いや、轢死体の際にはただ他人の死があったのではなく、本人とは見分けがつかないくらい醜く歪んだ無傷の美禰子のすごい死顔があった筈です。女の顔は無傷で、凄い死顔でした。

安心して床にはいったが、三四郎の夢はすこぶる危険であった。――轢死を企てた女は、野々宮に関係のある女で、野々宮はそれと知って家へ帰って来ない。ただ三四郎を安心させるために電報だけ掛けた。妹無事とあるのは偽りで、今夜轢死のあった時刻に妹も死んでしまった。そうしてその妹はすなわち三四郎が池の端で会った女である。……(夏目漱石『三四郎』)

 三四郎の妄想の中で確かに轢死体の女は美禰子と結びつけられています。三四郎は美禰子の顔を知っていました。三四郎は轢死体の顔を見ています。轢死体の女の顔は無傷でした。ならば凄い死顔とはただ恐怖と苦痛で歪んでいただけではなくて本人とは見分けがつかないくらい醜く歪んだ顔でなくてはなりません。

 三四郎は他人の死に冷淡ではなく、死そのものに冷淡なのではないでしょうか。何故漱石は三四郎にこうした性格を与えたのでしょうか。これではまるで「則天去私」ではないですか。

 しかし思い出してみれば、この性格はサバイバーズ・ギルトのない夏目漱石の思いがけないほどの冷淡さそのまま、なのかもしれません。

 旗を振ろうが振るまいが、人の目につこうがつくまいがこうなって見ると変りはない。浩さんがしきりに旗を振ったところはよかったが、壕の底では、ほかの兵士と同じように冷たくなって死んでいたそうだ。(夏目漱石『趣味の遺伝』)

 例えばこの『趣味の遺伝』には、話者「余」が想像の中で戦場に臨場し「浩さん」の死を見物するという奇妙なエピソードが出てきますが、その調子というものはいかにもふざけているように感じられます。「浩さん」の死などどうでもいいことのように感じられます。人間性という意味では何かが欠落しているんじゃないかとさえ感じられます。

 この「余」のように剽げてはいませんが、よく読むと三四郎の態度にも何か人間性を欠いたようなところがあるのではないでしょうか。

 そういう目で読み直してみるとあることに気が付きます。三四郎には与次郎以外に「友達」が見当たりません。与次郎がかき回してくれるおかげで孤独感というものはありませんが、逆に与次郎がいなかったらどうなっていただろうと思うほど、つきあいがないのです。それは三四郎の性格が関係しての事ではないでしょうか。親睦会で隣になった男とも会話が弾みません。その後の付き合いにも発展しません。

 何故三四郎が他人の死に冷淡なのかと考えてみれば、単にそういう性格だからということになるかもしれませんが、逆に何に熱心なのかと考えると一つの矢印が見えてきます。

 三四郎が失望したのは婦人席が別になっていて、普通の人間には近寄れないことであった。それからフロックコートや何か着た偉そうな男がたくさん集って、自分が存外幅のきかないようにみえたことであった。新時代の青年をもってみずからおる三四郎は少し小さくなっていた。それでも人と人との間から婦人席の方を見渡すことは忘れなかった。横からだからよく見えないが、ここはさすがにきれいである。ことごとく着飾っている。そのうえ遠距離だから顔がみんな美しい。その代りだれが目立って美しいということもない。ただ総体が総体として美しい。女が男を征服する色である。甲の女が乙の女に打ち勝つ色ではなかった。そこで三四郎はまた失望した。しかし注意したら、どこかにいるだろうと思って、よく見渡すと、はたして前列のいちばん柵に近い所に二人並んでいた。(夏目漱石『趣味の遺伝』)

 この場面、やはりかなりの女好きとして描かれています。よくよく思い出してみれば、いくら好みのタイプの女がいたとしても、

 それで三四郎は五分に一度ぐらいは目を上げて女の方を見ていた。時々は女と自分の目がゆきあたることもあった。(夏目漱石『趣味の遺伝』)

 ここなんですが、「目がゆきあたることもあった」にもかかわらず「五分に一度ぐらいは目を上げて女の方を見」ることをやめなかったとも読めますよね。しかも女が向い合わせの席に坐っているのではないとしたら、相当に助平ではないでしょうか。

 三四郎は漱石から人の死には無関心で、ひたすら助平な性格を与えられているように思えます。

 三四郎は切実に生死の問題を考えたことのない男である。考えるには、青春の血が、あまりに暖かすぎる。目の前には眉を焦がすほどな大きな火が燃えている。その感じが、真の自分である。三四郎はこれから曙町の原口の所へ行く。(夏目漱石『趣味の遺伝』)

 原口の所には美禰子がいます。三四郎の目は女にしか向いていません。三四郎は冷淡なのではなく、他人の生死はそもそも関心外の出来事なのです。女にだけ関心があるのです。それが三四郎の青春なのです。

 これ案外、気がついていないことじゃないですか。


[余談]

 おじゃんになる、という言葉は半鐘の「じゃん、じゃん」という音が語源だと言われるが、

 高知県では、海の上でジャンという大きな音がするという不思議な現象があるそうだ。その音が夜中に聞こえると、それ以後は、魚がちっともとれなくなるので、漁師たちはその音を非常におそれる。そして物事が急に止まってしまうことを、「ジャン」といっているそうだ。(『語源随筆 猫も杓子も』楳垣実、創拓社、1989年)

 こんな説もある。とりあえず

おじゃん

 これは真実。









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