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批評の文体

 ずっと前から物凄く気になっていて、何度も考え、それなりに論じてきた問題でもあり、かつまた近代文学2.0が反面教師としているところに近代文学1.0における「難しそうな文体」というものがある。一々例は上げないが蓮實重彦や柄谷行人なんかを思い出してもらえばいい。そういうものが小林秀雄から始まって亀井勝一郎に受け継がれたかどうかは別として、小林秀雄と将棋は考えさせられる、ということを再確認してみたい。

 こうした擁護論もある。その一方、

 こうした慎重な見立てもあり、

 このような真っ向からの否定もある。

 この指摘はかなり正しいのではないかと思う。

 私が読んできた文芸評論はこの本が指摘する、注意すべき事柄に一々当てはまるので面白い。

①定義の誤解・失敗はないか
②無内容または反証不可能な言説
③難解な理論の不安定な結論
④単純なデータ観察で否定されないか
⑤比喩と例話に支えられた主張

 しかしビートたけしの馬鹿論にも言えることだが、どうも駄目な議論を避けようというだけではうまく行かない。「馬鹿は五分話せばわかる」とし、馬鹿の例示にはいとまがないが、どこまでいっても正しいものの姿が見えないということがある。例えば小林秀雄がモーツアルト論をやろうというところから胡散臭いとして、やってはいけないのは「そこでモーツアルトが流れて來るか」という演出なんだろうなということは解る。ただそういうレトリックみたいなものなしで成立している文芸評論なんて、まずお目にかかることが出来ない。
 たとえば、定義の問題でいえば、

 こんな問題もある。しかし固有名詞だけではなく一般名詞の定義も仮説にすぎない。

 甘酒野郎のような使用例の少ない一般名詞が比喩に使われる際には注意が必要だ。また、意味の変容にも注意が必要だ。

 そもそも評論家はちゃんと読んできたかという疑問もある。

 ちゃんと読んできたなら、それなりの痕跡が見つかってもよさそうなものだが、どうも見当たらないものが多い。それなのに「三島は……」「谷崎は……」といかにもちゃんと読んだ体でごまかしてきたのが近代文学1.0ではなかったのだろうか。

 だからこんなことも解らない。

 といってもこの問題は近代以前から続いていた。

 また方法論そのものが確立していない。

 だから結局「様々な意匠」というスタイルに頼り、レトリックを駆使し、「難しそうな言葉を詰め合わせて」さも立派そうに見せるという芸がひたすら磨かれてきたのではなかろうか。
 一方漱石の主張は明確で、数値化せよということになる。これを小谷野敦さんなどは芥川賞作品で試みていて、ある程度の納得感はあるものの、それは番付表に過ぎないことも明らかだ。

 どうやったら数値化できるかという議論さえ見えてこない。数値化とは、單に数えればいいということではない。

 国文学科の学生の皆さん、これをエクセルに張り付けてあれこれ並べ替えると、簡単に論文の一ネタができると思うが、そういうことじゃないですからね。これ以前に、「かひや」の解釈が違っていたわけですからね。

 だからとりあえず、まずはかつこつけの「難しそうな言葉の詰め合わせ」だけは避けて、その上で何か意味があることを書くことが出来るかどうか、そういうところから始めたわけだけれど、問題は、時折、

 こうした突飛な空中戦(はい、でました比喩と例話!)の中に、虚を突かれることだ。「保元平治の亂や清盛の獨裁政治といふやうなものは實は表面化した一部のあらはれに過ぎない」などと簡単に決めつけてはいけないと思いながら、どこかでこうした言説を完全に無視できない。だから文系の議論は全て駄目なんだということでもないんだろうと思うけど。と曖昧な結論。いや、もしかしたら駄目なんじゃないの。とさらに曖昧な結論。

 たゆたいだな。たゆたい。






 だから理論株価って何?



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