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芥川龍之介の『あばばばば』をどう読むか① 世界はレキシコンでできている

 

世界はレキシコンでできている


 おそらく今の若い人たちの中にはマッチの実物を知らず、知っていても実際にマッチを擦った経験のない人も少なくないだろう。煙草に軒並み軍艦の名前が付けられ、煙草を買うとマッチがおまけで貰える時代があったことを知っている人はごく限られているのではないか。田口千代子が松本恒三から聞かされた西洋煙草の名前には軍艦の名前などなかろうが、もう敷島も朝日も売られていない。朝日新聞が旭日旗を掲げるのは、朝日新聞がいつでもお調子者だからなのだろう。そうしたマッチのおまけも戦時中の物資の不足によりだんだん怪しくなっていったことも永井荷風の『断腸亭日乗』などを読まないと解らなくなるだろう。
 いやしかし『あばばばば』にはそうした時代の風俗の解らなさでない解らなさが詰まっている。それこそ柄谷行人風に言うならば主題が分離しているようでもあり、大正十二年の作ながら、既に昭和二年の遺作『歯車』を思わせる要素が見え隠れするのだ。
 死の覚悟のないこの時期に、それはまだ早いのではないか?
 いや、むしろ『芋粥』から『歯車』まで、そういうものはしばしば芥川龍之介という作家のオリジナルな必殺技として駆使されてきたのではなかろうか。『歯車』をクルシイクルシイ作品ではないと読んだ時、レトリックは本来の華麗さを取り戻すことになる。

「どうも見えないやうでございますが。」
 女の目はおどおどしてゐる。口もとも無理に微笑してゐる。殊に滑稽に見えたのは鼻も亦つぶつぶ汗をかいてゐる。保吉は女と目を合せた刹那に突然悪魔の乗り移るのを感じた。この女は云はば含羞草である。一定の刺戟を与へさへすれば、必ず彼の思ふ通りの反応を呈するのに違ひない。しかし刺戟は簡単である。ぢつと顔を見つめても好い。或は又指先にさはつても好い。女はきつとその刺戟に保吉の暗示を受けとるであらう。受けとつた暗示をどうするかは勿論未知の問題である。しかし幸ひに反撥しなければ、――いや、猫は飼つても好いい。が、猫に似た女の為に魂を悪魔に売り渡すのはどうも少し考へものである。保吉は吸ひかけた煙草と一しよに、乗り移つた悪魔を抛り出した。不意を食つた悪魔はとんぼ返る拍子に小僧の鼻の穴へ飛びこんだのであらう。小僧は首を縮めるが早いか、つづけさまに大きい嚏をした。

(芥川龍之介『あばばばば』)

 これは幻覚ではなく表面的には言葉の遊びではあろう。「悪魔」という本来重い筈の言葉がここまで軽く使われていることを見れば、保吉が精神異常者ではないことは明らかだろう。しかし芥川龍之介作品には言霊やアニミズムのようなものが現実を侵食する瞬間がある。それは例えば前者は『歯車』のWormであり、後者は『芋粥』の狐である。

 それはあくまで言霊やアニミズムのようなものであり、完全な言霊やアニミズムの定義には嵌らない。芥川龍之介作品はしばしば、我々が通常理解している非物質的世界というものを突き崩すようなことをしてくる。そのことは例えば「利仁の支配」について考えてみれば明らかだろう。アニミズムは人と自然の境界を曖昧にするが、「利仁の支配」は人間と人間の境界まで曖昧にする。そう気が付いてしまうと近代文学1.0が弄んできた「近代的自我」などという概念は、実に幼稚なものであると思えて來るだろう。
 先ほど私は「表面的には言葉の遊びではあろう」と書いたが、言葉遊びでないことは「小僧の嚏」が証明している。言霊やアニミズムのようなものが現実を侵食しているのは間違いないのだ。

 この浸食は三島由紀夫のように観念の空中戦が齎しているのではなかろう。『歯車』に見られた地口のような龍の暗示は、例えばジェローム・ディヴッド・サリンジャーの「かかと」と「おじさん」の洒落のように軽やかだ。

「実は、この Fry のココアの中には時々虫が湧いてゐるんだが、――」
 保吉は真面目に話しかけた。しかし実際虫の湧いたココアに出合つた覚えのある訣ではない。唯何でもかう云ひさへすれば、Van Houten の有無は確かめさせる上に効能のあることを信じたからである。
「それもずゐぶん大きいやつがあるもんだからね。丁度この小指位ある、……」
 女は聊か驚いたやうに勘定台の上へ半身をのばした。

(芥川龍之介『あばばばば』)

 この「実は、この Fry のココアの中には時々虫が湧いてゐるんだが、――」は「 Fry」→「Fly」→「蠅」→「蛆虫」という連想から湧いたものだろう。その連想は『歯車』では、

 僕は勿論黙ってしまった。それから又皿の上の肉へナイフやフォオクを加えようとした。すると小さい蛆が一匹静かに肉の縁に蠢めいていた。蛆は僕の頭の中に Worm と云う英語を呼び起した。それは又麒麟や鳳凰のように或伝説的動物を意味している言葉にも違いなかった。僕はナイフやフォオクを置き、いつか僕の杯にシャンパアニュのつがれるのを眺めていた。

(芥川龍之介『歯車』)

 このように如何にも幻覚然と書かれているが、連想の原理そのものにはさして差はない。ただこうした連想にも侵される現実世界の頼りなさこそが芥川龍之介作品の旨味なのではなかろうか。

「朝日を二つくれ給へ。」
「はい。」
 女の返事は羞しさうである。のみならず出したのも朝日ではない。二つとも箱の裏側に旭日旗を描いた三笠である。保吉は思はず煙草から女の顔へ目を移した。同時に又女の鼻の下に長い猫の髭を想像した。
「朝日を、――こりや朝日ぢやない。」
「あら、ほんたうに。――どうもすみません。」
 ――いや、女は赤い顔をした。この瞬間の感情の変化は正真正銘に娘じみてゐる。それも当世のお嬢さんではない。五六年来迹を絶つた硯友社趣味の娘である。保吉はばら銭を探りながら、「たけくらべ」、乙鳥口の風呂敷包み、燕子花、両国、鏑木清方、――その外いろいろのものを思ひ出した。女は勿論この間も勘定台の下を覗きこんだなり、一生懸命に朝日を捜してゐる。

(芥川龍之介『あばばばば』)

 このシーンを映像化するとしたら、やはり素直に女の顔に一旦は髭を生やすしかあるまい。そして猫のポーズ。それから樋口一葉、

 この視覚効果そのものが、単なる上辺のレトリックなのではなく、芥川龍之介という作家の世界認識の在り方なのだとすれば、現実世界の頼りなさと思えたものが、実は我々の驕りであったということになるだろう。
 世界はレキシコンでできている。

 そんな当たり前のことを書き続け、誰にも理解されなかった作家が芥川龍之介なのではないか。誰にも理解されないこと、そのすべてが独りよがりであるわけもない。乃木静子の死に疑問を抱かなかった程度の人間に判断できることでもない。




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