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ためつものそらだき行くや八仙人 芥川龍之介の俳句をどう読むか192

飯中の八仙行くや風薫る

  この句もまた無言の鑑賞にさらされている。多分、ほとんどの人が意味の解らないまま、ただ芥川の句だという理由だけでありがたく眺めているのであろう。
 この「八仙」には註が付いて、『飲中八仙歌』の俳諧化だとされている。 

 問題はそこである。

 これは解る。

 問題は「飲中八仙」ではなく「飯中八仙」なのだ。註釈者はそこに踏み込んで説明できていない。解っていないのにほったらかしだ。これではうんこをして水を流さないのと同じことだ。それで威張っているのだから呆れたものだ。何故説明しないのか。あるいは何故解らないなら解らないと書かないのか。そんなはったりはいずればれるのに。

芸林逍遥 高野辰之 著東京堂 1938年

まず、どうも「飯中八仙」が存在しないとは言い切れない。


明治四十年特別大演習茨城県記録 茨城県 1909年


明治四十年特別大演習茨城県記録 茨城県 1909年


書籍目録大全 十 浪華田勘兵衛 編刊


絵画出品目録 改正 農商務省 編国文社第一支店 1882年


開益堂書目 第13号(大正2年3月改正) 開益堂 1913年

 こうした資料を見る限りは「飯中八仙」が存在しなかったとは言えない。しかしまたこういう資料を見ると、

東洋詩形学 河合絹吉 著友松堂 1941年

 それはあくまで草書体の「飲」と「飯」の読み間違いの結果、存在してしまったものに過ぎなくて、そうしたものを存在させたものは単なる見誤りではなく、中身を見ない、言葉の意味を考えないという迂闊さなのだと言って差し支えなかろう。この河合絹吉などは間違えた上に漢詩の説明までしてしまっているのでさすがにこちらが気恥ずかしい。著書を見ると言語学者らしい。たくさん本を書いている。

 ただ「飲」と「飯」の読み間違いが恥ずかしいのではない。詩を読んで、意味を考えていないから恥ずかしいのだ。意味を考えれば「飲」と「飯」を取り違えることはなかろう。

 ではさて芥川はどの位置にいたのか。

①杜甫の詩『飲中八仙歌』を知っていてわざと「飯中の八仙」と詠んだ。

②杜甫の詩『飲中八仙歌』を『飯中八仙歌』だと思っていた

③これは誤植で本当は「飲中の八仙」と詠んでいた。

○この日逆上甚だし。新しく我を慰めたるもの

一、果物彩色図二十枚
一、明人画飲中八仙図一巻(模写)
一、靄崖画花卉粉本一巻(模写)
一、汪淇模写山水一巻(模写)
一、煙霞翁筆十八皴法山水一巻(模写)
一、桜の実一籃
一、菓子麺包各種
一、菱形走馬燈一箇

(正岡子規『病牀六尺』)

 間違えた知らなかったとは、言いきれない。しかし詠まれた句の詩情、句意というものを拾うのも難しい。あえて「飯」と「風薫る」の取り合わせで見れば、腹ペコの句と解釈できなくもないが、

過臨平蓮蕩     楊萬里(誠齋)

人家星散水中央。
十里芹羹菰飯香。
想得薰風端午後。
荷花世界柳絲郷。

和漢名詩類選評釈
和漢名詩類選評釈

 それでも仙人が邪魔をする。

飯中の八仙行くや風薫る

 いやどう考えてもこれが、

飲中の八仙行くや風薫る

 ……だと八人の飲んべいの呼気に含まれるホルムアルデヒドによって風は生臭きものになっていた筈なのである。従ってここでは敢えて「飯中」として「食道楽の八人の仙人が行き過ぎたのだろうか、風薫ることだよ」と解するか。それとも相当な皮肉か。

飯中の八仙行くや風薫る

 この句は、

八仙人風の匂いが馳走なり

 とでも解釈しておこうか。気が変わればすぐに書き直せばいいのだ。どうせ誰も読んでいないし。


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