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川上未映子の『夏物語』をどう読むか② よりよい美しさを求めて

2 よりよい美しさを求めて

 それは無理だと言ったところで、ある種の人々はまだ小説などを読むのだろう。こんな言い方をして申し訳ないが、熱心に小説を読み、「ブクログ」や「読書メータ」や「goodreads」に感想文を書いている人たちの何割かは、というよりその殆どがnote民よりはいくらか増しながら、基本的に読解力に欠いていて、頓珍漢なことを書いていることを否定できない。

 あるいはそもそも学生というまだ何者でもないプレーンな存在以外の誰に「小説を読む」などということが可能なのかが突然分からなくなる。リース機器の飛び込み営業をやっている三十六歳の河岸和原広死くんが川上未映子の『夏物語』を読むなどということが果して可能なのだろうか? あるいは理学療法士の囃文子さん五十三歳ならどうなのだろう?

 控室でドストエフスキーの『罪と罰』を読むストリッパーや〇ん〇まみれになる直前の休憩中に村上春樹を読むAV女優というものは実在する。しかしリース機器の飛び込み営業をやっている三十六歳の河岸和原広死くんが読むべきは川上未映子の『夏物語』ではなかろう。

「わたし、豊胸手術うけよ思うてんねんけども」

(川上未映子『夏物語』文藝春秋 2019年)

 生理用品の話や、豊胸手術の話に河岸和原広死くんはどう向き合えばいいのか。こんなことになるくらいなら「スピリッツ」か「モーニング」を読めばよかったと後悔しても遅い。むせかえるような女くさい世界は続いていく。しかしそれはやはり「貧乏」の話でもあるのだ。

金があれば。最低限の保障のある、昼間の定職があれば。

(川上未映子『夏物語』文藝春秋 2019年)

ほ-しょう [0] 【保証】 (名)スル
(1)まちがいなく大丈夫であるとうけあうこと。「利益を―する」「―の限りではない」
(2)債務者が債務を履行しない場合,これに代わって債務を履行するという義務を負うこと。

大辞林

ほ-しょう ―シヤウ [0] 【保障】 (名)スル 〔「保」は小城,「障」はとりでの意〕 (1)責任をもって,一定の地位や状態を守ること。「航路の安全を―する」 (2)ささえ防ぐこと。また,そのもの。

大辞林

 公務員でなければ保障などなかろう。巻子は公務員になるべきだった。しかしそこにはそうなれない理由というものがあったのだろう。岸田総理が小説家にならなかったように、河岸和原広死くんもリース機器の飛び込み営業をやるしかなかったのだ。ならば巻子がホステスをしていることにも文句は言えまい。

 巻子は生活保護を受けることは生き恥を晒すも同然と、かなり真っ当な、プライドを持つている。

 この政府広報のカオスに比べれば巻子の考えはまともだ。しかし豊胸手術が「美しさ」に繋がるのかどうなのか、私にはわからない。

 シリコン、ヒアルロン酸、コヒーシブバッグ? コヒーシブシリコンバッグか。そんな専門用語が飛び出す。おそらく豊胸手術を考えなければ一生目にすることもない筈の言葉だ。アナトミカル型バッグのことか。よく分からない。河岸和原広死くんにもちんぷんかんぷんだろう。

 夏子と巻子は銭湯に行き、そこで熱くない湯につかり(!)、乳首をピンクにする話をする。

「トレチノインっていう薬塗って、まず皮をめくってな、そのうえにハイドロキノンっていう漂白剤塗るねん」

(川上未映子『夏物語』文藝春秋 2019年)

 勘弁してくれ、と河岸和原広死くんは思っただろう。流石にもう耐えられないと。おそらく川上未映子は多くの男性読者がこうした話題についてこれないこと、関心がないのではなく、それこそ生理的に受け付けないことを知っていながら敢えてこんな話題を選んでいるのだろう。いってみれば村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』の皮剥ぎのようなぞわぞわっとしたものが多くの男性読者に起こることを知っているのだ。

 わたしにも若いときはあった。でも、わたしがきれいだったことはない。

(川上未映子『夏物語』文藝春秋 2019年)

 わたしは美しい顔も、かたちの良い、いやらしい胸も持っていない。しかし豊胸手術は考えていない。そして巻子が豊胸手術をする理由について、解らないと言い張る。

 人がきれいさを求めることに理由なんて要らないのだから。

(川上未映子『夏物語』文藝春秋 2019年)

 そんなもん男やがな。男に決まっとる。四十のホステスでもでっかいお乳半分見せたら爺さんにもてるやんか。そしたら金になるつちゅうわけや。男と金や、……とわたしは考えない。

 なんでや?

 そのうち女湯に「どう見ても男性」が股間にタオルをあててはいって来る。その男性はどうもわたしの幼馴染、山口千佳、ヤマグなのではないかと思えてくる。そこから川上未映子らしい「林間学校でクロを埋める」幻想が始まり、気がついた時にはヤマグの姿はない。貧乏な女の子のように消えてしまう。どうやら夏子も真面ではない。

 一方緑子のメモは人体の不思議に向かっていく。手足の制御と暗黙知、体の変化。それがこわい。

 母親は豊胸手術を受けようとしているのに娘は自然な体そのものがこわい。ヤマグは男になったのに?

 なんだか女性であるというだけで相当に大変なんだということを河岸和原広死くんは理解しただろうか。理学療法士の囃文子さん五十三歳だって、自分の手足の動かし方は知らないのだから慢心しない方がいい。

(おとこもおんなもほかもおらん)

(川上未映子『夏物語』文藝春秋 2019年)

 性など所詮グラデーションに過ぎない。


[余談]


 ほんまか?


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