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芥川龍之介の『歯車』をどう読むか32 驕れるもの久しからず

・「春秋」は孔子が書いたものではないと主張
・「屠竜の技」「寿陵余子」というあり得ない話を持ち出す
・楠木正成の敵は誰かと問う

 どういうわけか「僕」はロジカルである。むしろそんなあからさまな、一切隠されていないことどもを無視して、芥川龍之介の自殺という外側の事情だけを読み解くために『歯車』を読むこと、それは読書でも眺書でもなく、単なる誤読である。

 ごく冷静に考えてみれば、天照大神は実在しなかっただろう。その程度のことが認めがたい人はやはり、「春秋」において孔子が実在の存在として帝堯、帝舜を書いたと信じているのだろうか。「春秋」などという単独のテキストも実在しないのに。「春秋」と呼ばれているものは『春秋左氏伝』『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』によって伝えられる注釈で、あくまでも「だいたいそんなようなもの」に過ぎない。
 しかし「僕」がわざわざ漢学者に対して「春秋」に関する俗説を正すことにも、「屠竜の技」「寿陵余子」という冗談を持ち出したことにも気が付かない人がいる。「僕」のようにロジカルに考えてみよう。

 そもそも「屠竜」とはどういう意味か。存在しない竜の退治方法を習得するということはどういうことか。もしも竜が実在するなら「屠竜の技」は使い道は限られているとはいえいつか役に立つ技なのである。竜が実在しないからこそ「屠竜の技」は役に立たない。なんなら竜が実在しないのに、その存在しない竜を退治する技がありうるものであろうか。「屠竜の技」という言葉は竜の不存在を念押しする冗談に過ぎない。

 また「寿陵余子」の逸話はどうか。そもそもは「匍匐」であったものに「蛇行」を足したのは芥川だ。腹這いに「にょろにょろ」を加えて無理を追加したのは芥川だ。そこには芥川のちょっと人の悪いところ、冗談好きなところが出たのだろう。歩き方を忘れて腹這う人というあり得ない設定に面白さを追加した。

 しかし我々が現に生活している社会は、イザナギ、イザナミ神話からひとつらなりの万世一系の千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔むすまるで冗談のような令和の昭代である。

 北朝の宮城には今も楠木正成像が建つ。楠木正成は不敬だというものはいない。それでも「僕」が今更ながら楠木正成の敵は誰かと問うたことは間違いない。無論芥川は水戸学にそまり、足利尊氏を逆賊と見做し、幻の南朝に忠義をささげたいと書いている訳ではない。しかし北朝の宮城には今も南朝の忠臣であった楠木正成像が建っていることはどこか捻じれていると皮肉屋さんらしいところを見せているのは間違いない。

春風秋雨七百歳、今や、聖朝の徳沢一代に光被し、新興の気運隆々として虹霓の如く、昇平の気象将に天地に満ちむとす。蒼生鼓腹して治を楽む、また一の義仲をして革命の暁鐘をならさしむるの機なきは、昭代の幸也。

(芥川龍之介『木曽義仲論』)

 旧制中学在学中に書かれたこの『木曽義仲論』の結びは、読みようによればかなり不敬である。「聖朝の徳沢一代に光被し、新興の気運隆々として」とはどういうことか。「一代」「新興」とはどういうことか。これは急ごしらえの明治天皇制に対するちょっと人の悪い冗談なのではなかろうか。
 ならばまた革命の機無き昭代もまた皮肉であろう。盛者必衰、驕れる者久しからず、と冒頭で念押ししている。

 驕れる者久しからず。しかし『歯車』に腑抜けた慢心はない。

 慢心は眺者にある。




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